2017年04月24日

薀蓄好きのための格闘噺

夢枕 漠   毎日新聞社   2007.9
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 格闘技好きの著者による格闘技の蘊蓄である。
 たとえば、当麻蹶速と野見宿禰の戦いは相撲の始まりといわれているが、戦いの様子を見ると、日本の総合格闘技の始まりではないか。
 古代オリンピックの格闘技は現代格闘技と同じではないか。柔術対柔道、グレイシー柔術、あるいは力道山対木村戦の徹底解説、プロレス、K‐1、PRIDE、さらにはルパン対シャーロック・ホームズの柔道対決など分析している。
「プロリスには八百長なし」こう言われて多くの人は「えっ」と思うのではないか。つまりプロレスは事前にどうするのか話し合われていて、そのストーリーによって動く(フェイクという)。つまり試合ではないので八百長は有り得ない。
 八百長とは建前は真剣勝負である試合にのみ存在する。だから、格闘技でフェイクをしたら、八百長である。
 力道山対木村の試合は、プロレスのはずが(つまりフェイクのはずが)、途中で力道山が格闘技を放ったので、木村が戸惑っているうちに、あのような結末になったとか。
 あるいは格闘技全盛時代の様子など。
 今では格闘技の地上波放送がほとんどない。無くなったのかな。わたしは見るのが好きだったので、残念ではあるが、試合を見に行くほどのファンではない。
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2017年04月19日

醍醐寺2004年

醍醐寺(だいごじ)
 醍醐寺は世界文化遺産である。桜の名所でもあり、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地として知られている。
 応仁の乱でほぼ全焼しているが、秀吉の頃から再建されている。
 東山のさらに東にあり、京都駅からは山科で乗り換えて、南北に走る地下鉄東西線で醍醐駅まで行き、東に向かって、800メートルほど歩く。まっすぐな道ではない。
 大きく上醍醐と下醍醐に分かれる。
 総門から入った辺りは三宝院などある地域。まずは上醍醐を目指す。

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 場所は特定できないが、枝垂れ桜である。もちろん秀吉の時代の桜ではない。
 総門を入った辺りは桜並木でもある。

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 場所は判らない。
 まず奥へと行った。三宝院の前を通り、仁王門を通ると下醍醐。金堂や五重塔を過ぎる。

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 上醍醐登山口とある。門の名はないようだ。図には載っていない。
 
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 弁天堂
 弁天堂を過ぎると、上醍醐への山道。

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 山道を登る。案内図ではとなりのようだが、説明では一時間とある。直線距離で1.3キロほど。

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 上醍醐不動の滝

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 登山といっても過言ではないだろう。文字通りの入山である。(^_^)

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 整備された歩きやすい道だ。

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 如意輪堂 1613年再建(重文)

 開山堂 1606年再建
 醍醐寺は874年に、上醍醐に始まる。907年に上醍醐の伽藍が完成した。

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 薬師堂

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 准胝堂(じゅんていどう)
 1968年に再建した建物。2008年8月24日落雷の火災により焼失した。今はない。

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 下醍醐に下る。

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 観音堂、昭和5年の建立なので、この地域では新しい。元は講堂であった。

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 伝法学院、修行道場である。
 仁王門では、10人を越える修行僧の群れに出会った。

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 五重塔
 951年建立、京都最古の木造建造物という。その頃下醍醐の伽藍が完成した。
 応仁の乱でも、この塔だけは火災を免れた。

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 金堂 1600年建立(紀州湯浅から移築) 国宝である。

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 三宝院は1115年の建立。
 唐門 国宝 2010年7月に修復されている。これは修復前の姿である。

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 襖絵、夜桜か。

 三宝院は庭園が良い。一人でゆっくり見ることができた。しばらくしたら係の女性が、「説明いたしましょうか」と言うのでお願いした。

 雨月茶屋で一休み、食事もしたかな。その近くで、初めて水琴窟の音を聞いた。

醍醐寺は真言宗醍醐派総本山
上醍醐のある醍醐山頂は標高450m
境内面積は7.27平方キロメートル以上という。
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2017年04月08日

八ヶ岳1989年冬

八ヶ岳1989年冬

1989.3.11〜12
 冬に弱いわたしは、冬山の経験は3回しかない。これが3回目で、しかも山には登らず、麓を歩いたのみだ。
 美濃戸口から歩き、美濃戸山荘の前から北沢の道を歩き赤岳鉱泉に行った。翌日は行者小屋に行き、南沢を美濃戸に下った。登山というよりハイキングといった方が正しい。
参考地図
http://www.naganogakuren.net/tozanMap/saniki/05yastugatake/03akadake

 以下、写真を撮った位置はおぼろなので、細かい説明は省く。

 登山道ははっきりしている。

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 北沢を何度か横切った。

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 枯れ木の根元は氷が着いていた。水は流れている。
 赤岳鉱泉に泊まった。次の日も晴れていた。南へ行者小屋へ向かう。

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 赤岳。この連峰の主峰である。
 朝早く零下18度を体感した。登山靴の中まで冷え込んで靴を脱ぎたくなるほど。

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 硫黄岳。横岳の北。歩いている背中の方向になる。

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 大同心。このコースでは目立つ。

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 阿弥陀岳。縦走路から外れた位置、赤岳の西になる。

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 大同心とはどんな意味だろう。

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 横岳。のこぎりの歯のような峰の形は判りやすい。

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 赤岳は見上げるだけで済ます。

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 南沢のコースを下る。

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 風のない穏やかな日であった。
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2017年04月02日

姫路城1984年

姫路城1984年
 姫路城は、別名の白鷺城で親しまれている。1993年にユネスコの世界遺産に登録されている。
 江戸時代初期に建てられた天守や櫓などの主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。建て直したものではない。
 現在の規模になったのは、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政による。
「姫路城跡」として国の特別史跡にも指定されている。
 2009年6月〜2015年3月にかけて、大天守保存修理工事が行われた。
 この写真はその修理の前である。といっても変わるわけではない。

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 ここから姫路城に入る。

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 大手門、戦の備えというより、権威を示す門構えだ。

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 三の丸跡、三の丸広場。

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 三の丸広場にはほとんど人がいない。

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 天守に近づく。姫路城は大天守と小天守3棟を四角く連ねた連立天守である。

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 姫路城の縄張りは複雑。天守閣までかなり距離がある。
 この日は天守閣に登ることができなかったので、内堀の外側を左回りに一周した。
 裏側は石垣ではなかった。

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 五位鷺のようだ。昔から鷺が多かったらしい。

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 一周して、ホテルに引き上げる。

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 元日の朝、天守閣を目指す。

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 左の方から、ジグザクに登っていく。天守閣に背を向けることもある。

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 鉄砲狭間の階段。

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天守閣の下を回り込む。

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 天守閣の下を一周して出入り口に至る。

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 天守閣の西側西の丸跡など。

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 南側。三の丸広場と、その向こうの大通りは姫路駅の方角。

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 東南の方向。下の広場は備前丸跡。備前丸は姫路城の本丸にあたる。

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 三国堀は写っていないが、その向こうに天守閣。

 こう見てみると、天守閣に至る道は複雑で、攻めにくい。しかし、三の丸や西の丸に敵兵が満ちて、天守閣で守るようでは、負け戦で籠城戦にもならない。援軍が来るまでの時間稼ぎくらいか。
 現実的には、敵軍が山陽道を通るのを防ぐのが目的。常に大軍を擁したので、藩の経済的負担は大変だったらしい。
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2017年03月28日

金庸小説美人番付

2011.3.04作成
2013.3.20一部訂正
2017.3.28一部訂正

 金庸小説や金庸ドラマの紹介はしばらくなさそうなので、金庸小説美人番付を考えてみた。今の時節、あえて番付にするのは相撲を応援しているから。
 横綱は「李秋水の妹」で、すでに引退。 P8222336-1.jpg
 大理国の王子段誉から「仙女さま」と言われる玉像。李秋水の妹であるが名は不明。写真は大理の「天龍八部影視城」にて。
 これを入力しているとき、パンダ「仙女」が到着したというニュース(^_^)。
 もう一人の横綱は陳円円で、陳阿珂の母、呉三桂の妻となってひっそりと暮らしている。
 左が東、右が西は相撲と同じ。( )内はその小説。

横綱 陳円円(鹿鼎記)、     李秋水の妹(天龍八部)
以下は現役
大関 カスリー(書剣恩仇録)、  王語嫣(天龍八部)
関脇 ティギス(倚天屠龍記)、  李秋水(天龍八部)
小結 陳阿珂(鹿鼎記)、     小昭 (倚天屠龍記) 
前頭 ホチントン(書剣恩仇録)、 任盈盈(秘曲笑傲江湖)
前頭 阿九 (碧血剣)、     黄蓉 (射G英雄伝・神G剣侠)
前頭 儀琳 (秘曲笑傲江湖)、  王夫人(天龍八部)
前頭 小龍女(神G剣侠)、    水笙 (連城訣)
前頭 郭芙 (神G剣侠)、    趙敏 (倚天屠龍記)
前頭 藍鳳凰(秘曲笑傲江湖)、
十両 双児 (鹿鼎記)、     何タ守(何鉄手−碧血剣)
十両 李莫愁(神G剣侠)、    夏青青(碧血剣)
十両 凌霜華(連城訣)、     戚芳 (連城訣)
十両 公孫緑萼(神G剣侠)、   阿紫 (天龍八部)
十両 駱冰 (書剣恩仇録)
    
 前頭以下は一応番付にしたが甲乙付けがたい。
  
 次の四系統が上位を占める。
 李秋水・李秋水の妹・王夫人(李秋水の娘)・王語嫣(王夫人の娘)。
 ティギス(金花婆婆)・小昭(ティギスの娘)。
 カスリー(香香公主)・ホチントン(カスリーの姉)。
 陳円円(呉三桂の妻)・陳阿珂(円円の娘、父は李自成)。
 李秋水の妹は話だけで、実際には登場しない過去の人物。ティギス(金花婆婆)は若くはないが若いときは美しかったという。実は今でも美しいが化粧で醜くしている。
 任盈盈は日月神教では聖姑(せいこ)と言われている。信徒から実際以上に美化されている可能性が高い。
 小昭はティギスの娘で母にそっくり。李秋水は88歳だが、若いときは妹そっくり。
 黄蓉は頭の冴えが語られて、美人という記述はほとんどない。
 王語嫣は、段誉が、洞窟の仙女さまにそっくりで驚いたほど。
 現実的にはカスリーと王語嫣が大関。
 ただし美しいのと魅力的とは一致しない。わたしにとって一番魅力的なのは黄蓉だ。次がホチントンかな。だからこの二人は八百長ぎみ。
 女房にしたい女は……、ダントツで駱冰です。

 この中で碁を知っている者は誰か。小説には碁に関する記述はほとんどない。
 記憶にあるのは倚天屠龍記で郭襄の碁が語られているだけ。参考:倚天屠龍記の碁 郭襄はかわいくて賢いが、美人という記述はない。
 碁のシーンはなくても、碁を打てるかどうか推察してみる。
 黄蓉は碁が強いはず。父の黄薬師(東邪)はプロなみのはずで、娘の郭襄(小東邪)はかなりの腕だ。父から教わり娘に教えたと思われる。
 阿九は皇女なので、碁をたしなんでいるだろう。
 微妙なのが、李秋水・李秋水の妹・王夫人・王語嫣の三代4人。
 無崖子が 珍瓏 を作ったのは紹介した。
 李秋水は十代から70年にわたって無崖子を恋い慕っていたので、打てた可能性が高い。大理で無崖子と生活していて娘もいるほどなので、碁を打っていたと思われるが、碁の場面は思い出にもない。死の瞬間に、無崖子が想っていたのは自分ではなく妹だったと知る。
 王夫人は、両親から教わったと思うが、興味はなさそう。
 王語嫣は武術の生き字引でありながら、武術が嫌いで、まったく習得していない不思議な人物。

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 劉亦菲(Liu2 yi4 fei1)の王語嫣
 初めて会った人の武術の構えを見ただけで、「何派の誰それ、得意技は◯◯、欠点は●●」と指摘できる。構えを見るとき、一瞬このような鋭い目つきになる。
 その知識は、無崖子が無量山の洞窟に残した武術の書物+江湖の情報による。碁に関する書物もあったのではないかと思われるが、その話はない。だから王語嫣は碁を知ってはいるものの、婚約者が碁に興味がないため、興味がない可能性がある。ただし、結婚した段誉(大理国の皇帝)はかなり碁が強いので、興味をもったであろう。打ってみたら案外強かったりして、「棋仙女さま」と言われたりする可能性もある(^。^)。

   …………………………

 八百長について。わたしは実は八百長そのものはあまり気にしていない。
 例えば野球。一点差で迎えた九回の裏、ツーアウトランナー二三塁、バッター「イチロー」。こんな時、日本の監督はイチローを歩かせて、次のバッターで勝負するだろう。しかし、大リーグの監督はイチローと勝負するらしい。打たれて試合は負ける可能性が高くなる。たてまえは「勝つことを目的とする」ゲームで、イチローと勝負するのは八百長ではないか。
 例えばサッカー。W杯予選リーグで二勝し決勝トーナメント進出を決めた強豪チームは、予選三戦目はメンバーを落とし、選手も七八分の力で戦って引き分けたりする。これも八百長ではないか。
 相撲もこのような八百長ならほとんど問題はない。
 勝ち越した力士がほっとして、翌日の相撲では力が抜けてしまうこともあるだろう。必死の相手に気力負けすることもあるだろう。
 しかし、勝ち星を100万で買っただの50万で売っただのというのは許せない。
 これがこの問題に対するわたしの基本的な考え方だ。
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2017年03月27日

三舟、奔る!

三舟、奔る!
仁木秀之   実業の日本社   2016.7
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 幕末の三舟といわれた、山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟の三人の、若き姿を描く時代小説である。
 山岡鉄舟が、明治21年に、勝海舟に向かって、若き日の生き方を語るという形をとる。まだ出世前だ。
 後に山岡鉄舟は、西郷隆盛と江戸城の無血開城の談判をするが、その前の話である。
 小説とはいえ、どこまで史実か気になるところ。
 父が飛騨高山の郡代になったので、高山で育ち剣や禅などを学んだ。17歳にして父の死後、幼い弟5人を連れて三千両を守りながら江戸に出る。途中で賊に襲われたりするのだが、それがきっかけで若き勝海舟や高橋泥舟と出会う。時は幕末に近く、今までの秩序が壊れそうな時代で、いくつかの事件をえて、何とか生き延びる。
 幕末の活躍の苦労話がないと何となく物足りない。これからこの小説のクライマックスを迎えるぞ、というところで話が終わってしまうのだ。
 だから「三舟、奔る!」というより、「鉄舟の助走」と言いたい。
 著者らしく、暗い面もしっかり見つめているので、話に厚みを持った。
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2017年03月23日

高山1979年

高山1979年

 初めて飛騨高山に行ったときである。駅でもらった観光案内を見ながら歩いた。
 今となってはどこをどう歩いたか、はっきりしない。

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 まず、見に行ったのが飛騨民族村。高山駅から南へ下り、陸橋を渡る。

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 飛騨民族村へは1キロ半ほど歩いただろうか。
 合掌造りの家がある。

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 一階が住まい。2階3階は養蚕のための屋根裏のようなもの。

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 古民家らしく、木製の車輪が並んでいた。

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 円盤状の板もある。

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 右端の小さな家は水車小屋だったか。

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 高山陣屋
 飛騨が徳川幕府の直轄地となってからは、江戸から来た代官や郡代が、ここで飛騨の政治を行った。この役所は陣屋と呼ばれ、城ではない。残っているのは高山だけという。

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 形はきれいに残っている。

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 倉庫。かなり広い。

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 宮川にかかる中橋
 宮川の朝市で、珍しくアケビを見つけた。
「わーおいしそう。これください。おいくらですー?」
「値段のつけようがないので、差し上げますよ」
 大勢歩いているが、これを欲しがったのはわたし一人だけとか。
 無料でもらったのに、喜ばれた。

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 古民家の頭上、見事な木組みである。

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 別な家だがこれも古民家。

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 照蓮寺、尼さんが福来博士(文学博士)の説明をしてくれたが……。
 福来博士は月の裏側の写真を撮ったと言っていた人物。

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 国分寺の塔、ここは入らなかった。

付録
 白川郷まで足を伸ばした。数コマの写真を載せておきます。

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この谷間の風向きを考えて家の向きを決めている。そのため位置によって少しづつ向きがずれる。
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2017年03月18日

落日の譜

落日の譜   雁金準一物語
団 鬼六   筑摩書房   2012.12
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 雁金準一といえば、碁好きにとっては、伝説的な人物であった。
 この本で、具体的な人物像を知ることができた。
 明治・大正・昭和初期の囲碁界は混乱の時代である。明治維新によって幕府の庇護がなくなり、自分の力で生きる道を探さねばならなかった。
 囲碁界の重鎮である本因坊家も明治のはじめには断絶の瀬戸際まで追い詰められながら、なんとか命脈を保った。
 雁金準一は伊藤博文に才能を認められ、庇護を受けながら専門棋士として成長していった。本因坊秀英を尊敬しながらも、対立的団体である方円社に所属し、同時代の棋士の信望を集めていた。
 本因坊秀英の希望と秀英没後は秀英未亡人の要請もあり、次の本因坊の声が高かったが、アクの弱さが災いし、田村保寿(21世本因坊秀哉)にとられてしまう。結局、実力的にも棋界の頂点を極める前にプロ棋界を去ることになる。
 本因坊家以外では、方円社・裨聖会・棋正社・瓊韻社などが設立されては潰れていき、それに関わる人たちを、良くも悪くもいきいきと書いている。
 高田民子の囲碁界への援助には驚く。それによって明治の碁会が保たれたようなものである。
 棋士の品格も、人間としての品格と同じで、決して別な世界の話ではないことを示している。

 この本は著者の死去により未完である。高木祥一九段が「その後の雁金準一」を書き加え完成させた。
 著者は高木祥一九段の紹介で、瓊韻社(けいいんしゃ)の富田忠夫八段に面会し、話を聞き資料を集めている。

参考
雁金準一 1879〜1959、1941年に瓊韻社を創設。
本因坊秀栄1852〜1907
本因坊秀哉1874〜1940 本名は田村保寿(やすひさ)。
富田忠夫 1910〜2002 雁金準一門下。学習院大学卒。1941年飛付三段、1997年名誉九段。門下に王銘エン、鄭銘瑝、鄭銘g、郭求真、渋沢真知子など。1994年大倉喜七郎賞受賞。
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2017年03月14日

壺阪寺1977年

壺阪寺1977年
 壺阪寺は高取町にある。明日香村の南である。

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 人形浄瑠璃『壺坂霊験記』で有名なところ。
 浪曲でも、「妻は夫を労りつつ夫は妻に慕いつつ〜」 と、ちょっと日本語としておかしいが。
 盲目の沢市と妻お里の夫婦愛の奇跡の舞台。
注:寺の名は「阪」、浄瑠璃は「坂」を使っている。

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 現在はこんなに余裕はなさそう。びっしりと建物が建っているようだ。

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 思えば初めて牡丹を見た記憶がある。

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 匂いの花園、盲人のために香りの強い花ばかり集めたという。

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 この椅子は座ると歌が流れる。
 今でもあるのかな。検索すると全体的に当時なかったような物ばかり。

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 五百羅漢。高取城趾への途中にある。壺阪寺の所属らしい。

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 高取城趾は石垣のみ残っている。典型的な山城で、城が壊れると江戸幕府に許可をもらう前に修理をすることができた。他の城では許可をもらってからにしないと、お家取りつぶしにあったという。規模はかなり大きかった。
 
 壺阪寺からとは別な道を高取町に下った。2キロ以上あったかな。細い登山道である。しかもその道は城趾でもあった。
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2017年03月09日

明日香1977年

明日香1977年

 明日香村(あすかむら)といえば、日本古代史の地である。
 奈良県の中央付近にあり、中央集権律令国家の誕生の地であり、飛鳥時代の宮殿や史跡が多い。
 いまだ村であるのは、村全体が史跡であり、開発が制限されているからだ。
1977年5月、そのときは、まだ村についての詳しいことは知らなかった。わたしが初めてカメラを持ったときだった。
 岡寺駅で降りて、バスで村役場近くまで行った。その近くの民宿に泊まった記憶がある。
 第一の目的は岡寺(龍蓋寺りゅうがいじ)であった。この寺には掌にのるほどの小さな観音像があるはずだった。しかし、それは京都博物館に貸し出されていて、見ることはできなかった。後に京都博物館で見ることができた。
 いま岡寺を検索しても、この像の話が出てこない。どうなったのだろう。

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 岡寺は少し登る。

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 仁王門、西国七番霊場岡寺。

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 ここも岡寺と思うが記憶にない。上記の観音像がなかったのですぐに退散した。今ならじっくり見るだろう。見所は多いようだ。
 小さな寺だという記憶がある。とんでもない、大寺らしい。当時は寺や宗教に対する知識がなかったのだ。

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 石舞台古墳
 バスに乗って石舞台古墳へ。封土がなく、石が露出している。蘇我馬子の墓ではないかといわれているが、被葬者は不明である。
 最大級の方墳であり、天井石は約77トンもある。
 当時は農地の中にぽつんとあって、訪れる人もほとんどいなかったが、今では整備された公園になっている。

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 川原寺(かわらでら)跡。国の史跡に指定されている。礎石を見ると、大寺院であったことを実感する。
 向こうの寺は弘福寺(ぐふくじ)で、川原寺の金堂かあったところ。

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 川原寺(かわらでら)は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であった。
 向こうに見えるのは橘寺。
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 川原寺跡のすぐ近くに聖徳太子ゆかりの橘寺(たちばなでら)がある。

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 橘寺の本尊は本堂に聖徳太子、観音堂に如意輪観音。

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 天武天皇9年(680年)4月に火災に遭っている。つまりこのときには寺があった。
 史実としては、橘寺の創建年代は不明である。
 この寺には五重塔の心柱の礎石がある。このとき心柱は礎石の上に乗っているだけと知った。それまでは地中に埋まっていると思っていた。

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 有名な亀石。製作意図は不明で、未完成説も有力。

 以下の石は猿石と呼ばれている。

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何のために作られたのだろう。
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