2020年10月19日

「昔はコミ五目」について

 囲碁  日本の名随筆1 中野孝次 編(1991年)を読んでいてある疑問が生じた。それでFBで訊いてみた。
   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 p152に呉清源先生の文で、昔はコミ五目と定められてをりました。近頃は大体、四、五目が行はれてをりますが、私はこの五といふ数は自然に適つてゐるのではなゐかと思ひます。 とある。
 わたしは今まで、昔はコミがなかったという前提でいろいろ書いていましたが、間違っていたのだろうか。気になりました。
 ウィキでは
江戸時代には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。
とあり一応納得ですが、中国ではどうだったのでしょうか。
「昔はコミ五目」について、ご存じの方、いらっしゃいますか。
「四、五目が」は、4.5目なのか、4または5目なのか、判断できませんでした。
   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 多くの方が、コメントしてくれたが、ほとんどの方は、「名人戦が5目でジゴ白勝ち」だつた事に関連したコメントだった。そして昔はコミがなかった事は共通していた。

 さらに、
「昔というから、明代や清の乾隆帝の時代とか、本因坊家創立以前を想定していました」
と、疑問点を追加したのだが、知る人はいなかった。
 わたしの疑問には、ある重要な点が抜けていたのだ。後で気がついた。
 原文は、 「随筆」1942.9砂子屋書房 であったのだ。このことを書いていたら、コメントの内容は変わっていたであろうか。1942年(昭和17年)名人戦開始前に書かれていた本だ。

1934年 試験的に導入されたが、コミ2目半であった。
1939年 第1期本因坊戦は、互先コミ出し制で対局する日本で最初の棋戦ともなった。コミは4目半であった。
1942年 「随筆」が書かれた。
1961年 名人戦が始まり、コミ5目ジゴ白勝ち、そしてジゴ白勝ちは通常の勝ちより劣る。俗に“半星”といわれた。
1964年 ほとんどの棋戦がコミ5目半になる。(本因坊戦は1974年まで4目半)
2002年から 順次コミ6目半となった。
 韓国では2000年から7目半。中国では制度が違うが2001年から実質7目半である。米国では7目半。

 本題に戻って、
 当時は書き手が別にいて、呉清源先生が直接ペンを持つことはなかったという。しかし、書き手の聞き間違いは考えにくい。
 わたしが知らない話もいろいろあり、もしかしたら、たとえば中国の歴史の中に「コミ五目」の時があったのか、と思った次第である。
 中国の碁のルールの変遷 を書いたときも、それらしき話はなかった。
 それにしても1942年の段階で、「昔はコミ五目」と言い切ったことに驚く。そう言わせた何かがあったはずである。
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2020年09月28日

草加宿から草加松原

草加宿から草加松原

東福寺から旧日光街道を通り松並木まで。

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 おせん茶屋
 旧日光街道散策の休憩用の小公園。何もない。周りにはお茶を売っている店がある。

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 その案内。
 言い伝えによれば、草加煎餅を作ったのがおせんという女性。それが人気が出て、有名な草加煎餅になったといいう。

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 神明庵、草加宿で一軒だけ残った建物。裏の方は、現代風に改造されている。
 戸は閉まっていたが、休憩所らしい。売店もある。
 
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 旧日光街道が神明町の交差点で国道49号線にぶつかる。左右におせん公園がある。
 右にある曽良像
「奥の細道」の芭蕉の同行者。曽良の書いたものは、資料価値が高い。
 芭蕉は文学として「奥の細道」を書いているため、それなりに脚色されている。

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 旧日光街道を挟んで北側を見る。
 
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 北側のおせん公園には、おせんべいの碑

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 おせんべいの作り方。

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 芭蕉像
 松尾芭蕉は北千住で見送りの人たちと別れ、最初の宿泊地が草加宿である。
 国道49号線を神明町交差点から北へ二十メートルほどで、おせん公園を過ぎ伝右川になる。
 獨協大学脇を通って西から流れてきた伝右川は、綾瀬川まであと二十メートルほどで九十度ほど曲がって、綾瀬川と並行して南へ行く。

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 札場河岸公園望楼
 伝右川をわたると、伝右川と綾瀬川に挟まれた、小さな札場河岸公園があり、古い望楼がある。
 北は国道49号線と平行して綾瀬川が流れている。
 南へは伝右川と綾瀬川が並行して流れているが、交わらず分かれてしまう。
 
 国道49号線と綾瀬川の間は二十メートルもなく、松並木で有名な旧日光街道が通る。今は草加松原遊歩道である。

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 草加松原遊歩道(旧日光街道)をすこし歩くと大きな歩道橋がある。
 道も川筋もまっすぐだ。江戸時代に整えられたか。

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 歩道橋の上から見る。松原というより松並木だ。
 最寄り駅の獨協大学前駅は、元は松原団地駅といった。2017年に変更された。

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 国指定の名勝地「おくのほそ道の風景地」。歩きたくなる道だ。

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 まっすぐな遊歩道が約1.4キロメートル続く。地図で見ると、この間は綾瀬川の川幅も狭くなっている。

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 松は若い木が多く、江戸時代からの老木は少ない。
 昭和四十年代には、七十本程度にまで減っていたのを、昭和51年に保存会が発足して補植され、現在の景観となった。

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 名 勝
 おくのほそ道の風景地
  草加松原
     ドナルド・キーン書


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 松並木の案内板に詳しい説明がある。
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2020年09月22日

東福寺(草加東福寺)

 草加には東福寺という寺がある。正式には「松寿山不動院東福寺」という。
 草加は宿場町だが、大川図書(おおかわずしょ)なる人物が、宿場町を開き、この東福寺も創建した。1606年というから、江戸幕府ができてまもなくである。
 この写真は6月14日、ようやく写真を整理して、紹介することになった。

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 山門

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 門脇の石灯籠はかなり大きい。

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本堂
 1993年(平成5)には大規模な改修が行われた。

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 鐘楼 文久二年七月再造立(1862)

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 三鈷の松 鐘楼の脇の松はなんと3葉の松。名は高野山で有名であるが、こんな近くにもあったとは。
 そういえばこの寺は真言宗。

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 五葉松は知っているが、3葉の松というのは初めて見た。

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 本堂の前、ここが墓ではない。墓地に大川図書の墓があるという案内である。

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 本堂内外陣の欄間の彫刻の説明。中は見なかった。

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 外の彫刻も優れている。

 草加八景という案内もある。
 東福寺本堂内外陣境彫刻欄間(市指定有形文化財)
 東福寺鐘楼(市指定有形文化財)
 東福寺山門(市指定有形文化財)

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 草加不動堂、「松寿山不動院東福寺」という名からすれば、こちらが寺の中心かな。
 手前の低い植え込みは、ハマナスだった。

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 関東でハマナスを見たのは初めて。八戸や函館で見たことを思い出す。

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 果実は食用になる。どんな味だろう。

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 白い花もある。

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 参道を日光街道に向かって歩くと途中に紫陽花が咲いていた。
 スマホでマクロ写真は難しい。

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 日光街道から振り返る。こちらが表参道である。
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2020年08月14日

2050年世界人口大減少

ダリル・ブリッカー  ジョン・イビットソン (共著)   文藝春秋   2020.2.25
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2050年、人類史上初めて、世界人口が減少する。
いったん減少に転ずると、二度と増えることはない。


 名門調査会社イプソスのグローバルCEOらが、世界各国にてフィールドワークを敢行。統計に加えた貴重な証言をもとに警告する。

 国連の予測では今世紀末、地球の人口は110億に膨れ上がるとしているが、多くの人口統計学者が人口を多く見積もりすぎだと指摘している。
 国連の人口予測は誤っている。その原因は都市化であり、女性の教育である。そして、結論は2050年に世界人口が90億人近くなり、減少に転ずる。
 目次を見よう、この本の言わんとするところが見える。

序章 2050年、人類史上はじめて人口が減少する
1章 人類の歴史を人口で振り返る
2章 人口は爆発しない--マルサスとその後継者たちの誤り
3章 老いゆくヨーロッパ
4章 日本とアジア、少子高齢化への解決策はある
5章 出産の経済学
6章 アフリカの人口爆発は止まる
7章 ブラジル、出生率急減の謎
8章 移民を奪い合う日
9章 象(インド)は台頭し、ドラゴン(中国)は凋落する
10章 アメリカの世界一は、今も昔も移民のおかげだ
11章 少数民族が滅びる日
12章 カナダ、繁栄する“モザイク社会”の秘訣
13章 人口減少した2050年、世界はどうなっているか

 30年後には、世界中が今の日本のような少子高齢化社会を迎えることになる。
 農村などでは、こどもは労働力の一部であり、育てる負担が小さい。しかも家族や縁者からこどもを要求される。
 都市では、こどもは負債であり、生活を圧迫する。しかもこどもを要請されることはほとんどない。宗教的束縛も緩くなる。そして女性の教育が進めば、こどもを産む以外の道を見つけ、少子化となる。一度こうなったら、後戻りはできない。

 わたしは紹介していないが「未来の年表」という日本の未来予測の本がある。その国際版みたいな本である。
 著者は次のように社会の変化を考えている。
人工置換モデル
第1ステージ 出生率も死亡率も高い
第2ステージ 出生率は高く死亡率は低い
第3ステージ 出生率も死亡率も低い
第4ステージ 出生率は人口置換率に等しく、死亡率は低い
第5ステージ 出生率は人口置換率を下回り、平均寿命は延び続ける

 人口置換率とは、人口を維持する、出生率である。社会を維持するには2.0と考えるが、少年時の事故も含めて2.1が最低。
 各国各民族を調べて、急速に第5ステージにむかっているという。
 若者であふれかえるバンコクが、出生率1.5で人口崩壊途中である。第5ステージだ。
 ステージの変化の原因は、都市化と、女性の教育や社会進出である。女性の地位向上である。

 日本経済についても、三度の失われた10年で30年停滞しているが、その理由は生産人口の減少と同時に消費人口の減少にある。停滞は当然なのだ。それなのに経済成長をしようと躍起になっている。日本が混乱しないのは、高齢化が始まるまでに豊かになっていたこと。
 ブラジルのスラム街の現況は読んでいて驚くほど。それでもテレビドラマの女性像が見本となってこどもの数は減っている。
 著者はカナダ人で、カナダが移民受け入れで成功しているのを体感しているので、移民こそが人口減に対する最良の対策であると言うが、それも今のうち。まもなく移民を送り出す国はなくなるだろう。さらに日本は移民先としては魅力がないので、それも難しい。
 マルサスの「人口論」やローマクラブの「成長の限界」は、このままでは…という限定の理論だった。出生率の低下を読み間違えたことにある。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 人口減少の流れが止められないのであれば、その現実を素直に受け入れ、人類の知恵で乗り越えたい。
 わたしは、たとえば数百年後に世界人口が数億になるころには、人々の意識が変わってくると思うのだが甘いか。日本でいえば、国産の食料で全国民を養える程度の人数になれば、落ち着くと思う。そうなって日本国民の意識が変わることを願う。
 それまで、国が保つだろうか。
 日本は豊かというのは錯覚ではないか。多くのこどもが貧しさに苦しんでいるように思える。世界最大の借金国家でもある。
 たとえば景気がよくなると、株価は上がる。ところが安倍首相は、膨大な金をつぎ込んで、株価だけをつり上げて、景気がよくなったように見せかけている。そのための借金による、予想される未来の生活苦からも出生率の低下を招いているだろう。
 気候問題や公害問題や貧富問題も加わっている。これらが解決しないと、人口問題の解決は難しいか。
 概ね、わたしなどが普段思っている考えていることを、具体例を示して書いているようだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:15| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

いただきたい

2014.1.12記
2020.8.3 追記

 先日ドジを踏んでしまった。気がついて、すぐにお詫びのメールを送った。

 あるEメールが届いた。
 始めはAさんからBさんへメールが行き、Bさんが「こういうメールがありました…」などと加えて、わたしなど多くの人に転送したのである。わたしは一目見てAさんからのメールと錯覚をしてしまったのだ。(Bさんは代理と思った)
 その内容は、問題のところだけを言うと、

「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待させていただきたいと思います。」

 AさんとBさんは◯◯◯であるが、その他の人たちは◯◯◯ではない。もちろんわたしも◯◯◯ではない。

 わたしは朝の忙しい時であり、Aさんからと錯覚して解釈してしまったのであるが、仕事から帰って、もう一度全体を読み直して、大変な間違いに気がついたのである。なによりBさんが追加した文を正しく読んでいなかったし、さらに悪いことに、錯覚してしまったので付随する文を詳しく読んではいなかったのだ。反省。

 錯覚の中心は「かぎりご招待させて」と「いただきたいと思います」がどうもかみあわないこと。
 わたしがまず間違えた(錯覚した)内容は次の如し。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待いたします。その他の方はお断りします。」

 夕刻にはこう思った。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待役とさせていただきたいと思います。」(招待する客の人選を任せます)

 正しくは
「…◯◯◯の方々にかぎり無料で(あるいは優遇で)ご招待いたします。その他の人たちは有料です。」
 ではないか。
 結局、「させて」の解釈と、「いただきたい」を、Aさんからわたしたちへ(Bさんではなく)の言葉と錯覚したのが問題だった。
 意味が判ったので、わたしも観賞に行くことにした。
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 この誤解の中心は「いただく」の解釈である。
 XからYへ100万円贈与するとしよう。
 Xから見れば「与える」。
 Yから見れば「いただく」である。
 ここで、Xは何らかの事情によってYに与えねばならない義務があるとき、このときのYの催促が、「いただきたい」ということばである。別な言葉で言えば、「早く100万円よこせ」
「いただきたい」は、「よこせ」の別な言い方なのだ。強制の意味を持つ。つまり、いただくのは何か。この観点から考えれば、見えてくる。
「〜かぎりご招待させていただきたい」となれば、Aは何をいただきたいのか。
 無料ご招待は「◯◯◯の方々にかぎります」と、かぎることが自分の利益の人の言葉だ。
 この いただくもの が見えないと、珍妙な言葉になる。

 時代劇に(今でも)よくあるパターン。
「何々をいただきたい」
「駄目です」
「何だと、オレがおとなしく言っているうちによこせ。死にてえのか」
 会社勤めをしていれば、何度も経験しているパターンのはず。

 相手の負担を軽くするために言うこともある。それも、上に書いたような意味が判っていないと理解出来ない。
 たとえば若旦那が、父親のような番頭や年上の手代にいやな仕事を押しつけなければならないとき、ちょっと言い出しにくい。そのようなとき、誰かが「わたしがやらさせていただきます」といえば、言葉ではいただいたようで、実は苦労を引き受けて、若旦那の気持ちを軽くする。つまり忖度である。それが若旦那に判らないと、忖度のしがいがない。
 たんなる丁寧語ではない。


参考  雲外の峰−いただきます
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2020年07月14日

大江戸妖美伝

2010.12.6記
2020.7.14加筆

石川英輔   講談社   09.3

 大江戸神仙伝シリーズの七作目になる。単行本は06年2月に出ている。4年も知らなかったことになる。
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 速見洋介はいつもの如く現代から文政年間の江戸時代にタイムスリップ。粋な芸者いな吉との、春から初夏にかけての大江戸見聞録だ。
 今回の特徴は江戸の貧しい豊かさだ。矛盾するようだが、つまり江戸時代は、とくに文政年間は江戸時代の最も豊かな時代であった。それでも現代から見れば貧しい。しかし、誰もそれを苦にしていない。当然で、みんな等しく貧しいからだ。
 特に武士の貧しさは特筆される。決まった収入が米しかないのだから、増やしようがなく、内職で生計を立てていた。
 徳川270年間、反乱らしい反乱は初期の由井正雪の乱と天草の乱くらいなもの。文政年間になれば、実戦の経験のある武士は一人もいない。江戸の警察官で司政官にあたる与力同心も二十数名。信じられないくらい小さい政府(江戸奉行所)。御家人の貧しさも相当なもの。外泊もできない生活の息苦しさで、庶民は誰も支配者階級に憧れはしない。故に270年も政府が保てたのだ。
 当時の諸外国では反乱や革命がよくあった。支配者階級の豊かさは目が眩むほどで、比べて庶民の貧しさは信じられないほど。それでは反乱や革命が起こるのは当然だ。江戸では誰も、貧しい武士階級に憧れないので、反乱が起きようがない。一部には富んでいる武士もいたにしても。
 特に江戸の生活はリサイクルが完全で、いつまでも続けられる生活であった。
 現在、一億を超える人数なのに、まだ政府は人数が増え続けることを前提に政治をしている。増え続ければいつかは崩壊することが判りきっているのに。むしろ人口減少の兆しのある今は、人口が増えないことを当然として政策を立てるべきだろう。
 わたしなど今の生活に慣れて、いまさら江戸時代の生活に戻ることはできないが、初めからそのような生活であったら、それなりに幸せであったのではないか。世界中が江戸のような生活をしていたら、多くの動乱は発生しなかったであろう。
 歴史書に書かれたことは、その時代のとんでもない出来事ばかり。「人々が何事もなく平和に幸せに暮らした」、などということはほとんど書かれない。それゆえ、江戸時代を誤解する人も多いだろう。
 ただし、今から考えれば、異常で不幸なことも、常在すれば、それは滅多に記録されないだろう。だから幸せであったとは言い切れない。主人公は、生活に心配のない当時のエリートなので、それが見えていないと思える。
 そんなことを考えさせる江戸の生活事情を、小説の形で解説した江戸の案内書だ。
 そして、大事なことを見落としはならない。決して天国ではなかったことだ。
 過密地に行けば過密を褒め、過疎地に行けば過疎を褒めるような書き方が、引っかかる。
 地方から続々と若者を引き寄せながら、多くは若くして死んでいる。平均余命も短かった。健康に活きていた訳ではない。
 参照 本当はブラックな江戸時代
 そのようなマイナス面も承知で読んで欲しい。
 杉浦日向子さんは、 うつくしく、やさしく、おろかなり−私の惚れた「江戸」 と表現している。そう、愚かなところも見つめて、その上でよいところを見たい。
posted by たくせん(謫仙) at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月04日

ホームページの改造

ホームページの大改造をした。
 数年前から考えていたのだが、今では仕事でもホームページ作成をしたりして、それなりに深く知る必要が生じていたのだ。
 従来はHPBで作っていたが、時代に沿わなくなっていた。
 そこで、買い求めたのが、
   HTML&CSSのきほん 1980円
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 これで4日間、HTMLのお勉強。かなり難しいが、いままでのHPBでもHTML文は見ていたし、ブログを始めたときは、見本を選ぶと、そのCSS文も変えることができ、一ヶ月以上かけて、CSS文を変更し、ようやく今のブログを作ったのである。2007年のことであった。
 それから13年経つが改造はしていない。HTMLも5.2になったが、特に問題はないようだ。
 本題のホームページだが、HPBでは、いろいろと問題が生じていた。使えなくなる前に、HTML5 に準拠したホームページにしたい。
 「HTML&CSSのきほん」だけでは、とても無理だ(時間も、技能も)。そこで新しいホームページ作成ソフトを求めた。そして選んだのがSIRIUS(シリウス)である。
 普通なら、WordPressであろうが、なぜか気が向かない。
 余談だが、わたしがインターネットで物を買うのは今回が初めてである。いままでは、物は選んであって、流通経路としてインターネットを利用しただけだった。今回はインターネットで物を選び購入した。つまり中身が全く確認できない状態で、宣伝文だけで判断した。
 6月23日に購入。HPBよりかなり難しい気がした。しかし、他のソフトは使ったことがないので、易しいのか難しいのか判断はできない。ブログとHPBの経験とHTMLのお勉強があったので、なんとか7月3日に公開できた。
 まだあちこちを手直ししたい。それはゆっくり。

7/9追記
 このソフトは、HTML&CSSの知識がないと扱いにくい。
 ページ内リンクの仕方が判らず、ネットで調べて、タグ打ちでリンク処理をした。これでリンク問題は解決した。
 内蔵のアップロード機能は使いにくいので、FFFTPをインストールした。ところが問題発生。
 画像フォルダー名にimgを使うと、アップロード時に、ソフトが用意した100個以上の不要な画像ファイルが一瞬に滑り込む。何度か消したが、繰り返しなので、画像フォルダー名を変更し、アップロード時に工夫することで解決した。それでもimgフォルダーが入り込んでくる。こうなると「改訂ファイルのみアップロード」という機能が使えない。さらに訂正しても反映されないという事態が発生。扱っているファイルと実際のファイルが違っていた。どこかに秘密のファイルがある。エクスプローラーをいくら探しても見つからない。
 今日一日かけて、ようやくファイルの位置を探し出した。
 わたしはブラックボックスが嫌いだ。意味が判らないと心配なのだ。ファイルの位置が判ってみると、いままでの苦労のかなりの部分が不要となる。意味が判ると、すっきりするし、あちこちに応用が利く。画像の問題も意味が判った。何より「知らずに消してしまう」「知らずに壊してしまう」ことがなくなる。
 この点はHPBが勝る。

8/14追記
 今のFTPはシリウスのソフトを使っている。FFFTPはおやすみ。「更新されたファイル」のみ送るのであるが、送る寸前にimgフォルダーを削除して「更新されたファイル」を送る。毎回削除するので慣れたが、どこを見てもこれを回避する方法が判らない。そのうちシリウスに添付された、シリウスとは別のFTPソフトをためしてみよう。 
posted by たくせん(謫仙) at 09:22| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月06日

須弥山と極楽

2007.4.2 記
2020.6.6 加筆

      定方晟   講談社   昭和48年
「倶舎論」の須弥山(シュミセン)世界を解説している。宗教書ではないので、わたしのような素人にも判りやすい。
      shumisentogokuraku.jpg 

1 人間は宇宙をどうとらえたか
 古代社会では様々な世界観が考え出された。
 下の図はわたし(謫仙)がこの本を元にして書いてみた図である。
 まずこの地上世界の形だ。図の比率は不正確だが、イメージだけ。
 風輪の上に水輪が乗り、同じ太さの金輪がその上に乗る。その金輪上の表面に須弥山をはじめとする地上がある。
 金輪の一番下が金輪際である。落語などで、「金輪際いたしません」などと謝るあの金輪際である。
   (以下数字の単位はすべて由旬)



 さて、問題は円周の10の59乗である。原典は無数。これは無限大の意味ではなく、具体的な大きさを現す。
1光年が約10の13乗キロ(10兆キロ)であることを思えば、宇宙の中に入りきれないことが判る。実にバランスが悪い。おそらく考えた人は、具体的な形をイメージせず、やたらに大きい数字を並べたに違いない。
 金輪の上の表面は、たらいのような形をしている。
 中心に須弥山(しゅみせん)があり、その周りを七重の山が塀のように囲み、外側の海は塩水で、円形の鉄囲山(てっちせん)がその縁である。断面図で見ると、水面上はどの山も正方形である。



 図は大きさのバランスを無視している。
 南の贍部洲(せんぶしゅう、閻浮提(えんぶだい)ともいう)が、我々の住む世界である。
 中心付近に雪山(ヒマラヤ山脈)がある。言うまでもなく、インドの形がモデルであることが判る。三角形に近い。
 大きさは三つの長辺がそれぞれ2千由旬である。これによって諸説ある由旬の長さが推定できる。

2 仏教の地獄と天界
 地獄は「ナラカ」あるいは「奈落」といわれている。
 まず八熱地獄が贍部洲の下にある。あるというが、これは贍部洲よりはるかに大きい。
 一番下の無間地獄は特に大きく、二万由旬の立方体である。
 矛盾もあるようだが、ともかく地獄の説明はバカバカしいほどに詳しい。これは仏教ばかりではない。あとは略して、天界の話にしよう。
 上の図から判るように、須弥山は8万由旬の立方体を二つ重ねた形をしている。そして、下半分は水面下にある。水面上の部分を詳しく見る。



 仏教では、世界はこのように考えられていた。今から考えるとお笑いだが、インドではすべてこのように、数字的に整然と考える習慣があった。たとえば苦しみは四苦八苦と言うように。口伝によって伝えるときに、伝えやすいという利点がある。
 次は天界である。天は魔法の絨毯のように、須弥山の真上に浮かんでいる。そしてそこに住む有情も天という。◯◯天と言ったとき、場所か有情(神)か判断できなければ、意味を取り違えることがある。



 須弥山の頂上も天である。そこには帝釈天などが住んでいる。
 夜摩天は、つまり閻魔である。ここは死者の国であった。だが、後に閻魔は地下の国に行く(左遷かな)。死者の国が地下に移ったと考えるのか。
 有頂天まで行かなければ有頂天にはなれない。地上にいながら有頂天になる人がいるがめでたい事だ。(^_^)。
 こんな知識は、「へエー」で終わってしまうが、本を読んでいるときに必要になることがある。たとえば「百億の昼と千億の夜」など。参考にしていただければ幸いである。
 もう一つ大事な話がある。他化自在天から三層上に、大梵天があり、風輪から大梵天までを、小世界という。
小世界が千個集まって小千世界になる。(別名千世界)
小千世界が千個で中千世界(別名二千世界)
中千世界が千個集まって大千世界となる。(別名三千世界)
有頂天の広さは大千世界と同じである。
 俗謡に
   ♪三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい
という、あの三千世界である。
 風輪が1000×1000×1000個集まるのは、どのくらいの広さであろうか。想像もつかぬ。
 まるでパソコンの説明の数字を見るように二進法の世界であった。なお、数字の「0」を発見したのもインドであるといわれている。
 これでもかなり説明を端折っているのだ。説明の大きさの中に入るのかどうか、考えるのも面倒になってきた。

3 極大の世界と極微の世界
4 仏教宇宙観の底を流れるもの
5 西方浄土の思想
6 地獄はどう伝えられたか
7 仏教の宇宙観と現代
など省略するが、解脱について一言触れておく。

 輪廻という思想がインドにはある。人は死んでも生まれ変わって、生きていく。それは人に生まれるとは限らない。虫けらに産まれ、踏み潰され、他の虫や鳥に食われたりする。そうして様々な生を無限に繰り返すことを意味する。この世界も消滅生成を繰り返している。それは恐ろしいことであった。そこから逃れるのが解脱である。
 輪廻の思想を持たない日本人は、すでに解脱している。
 最近キリスト教が、人を救うと称しているが、その前に、人は罪があって罰を受けるという考え方のない日本人には、救われる必要性がない(^。^))。そこへ無理矢理キリスト教徒のやった罪を、人類全体に押しつけて、そこから救うという。
 輪廻の外にいる人を輪廻から解脱させる。罪のない人を罪から救う。日本に宗教は根付かないわけだ。だから他人の宗教心を理解できない、ともいえる。そうではなく、日本には、自分でも気づかないそれなりの宗教心がある、と言う説もある。
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2020年05月22日

宇宙叙事詩(上・下)

2007.7.24 記
2020.5.23加筆

光瀬龍 文  萩尾望都 画  早川書房   1995

 光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を萩尾望都が劇画化し、そのあとにこの作品が出た。これは二人の幻想的共作である。
 劇画というより絵本というべきであろうか。
 今までの劇画とは異なり、幼児の絵本のように、見開きの画の中に文をいれて、絵物語となっている。
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 この本は1995年発行の文庫版であるが、わたしは文庫になる前の本を見ている。
 もう一度読もうと思ったが、題名を思い出せない。北千住の中央図書館の係りの方に調べていただいた。
 話の内容からどうもこれらしいとなったが、庫内に見あたらない。そこで梅田の図書館に文庫本があることを調べてくれた。
 そして借り出したのが本書である。
 記憶とはかなり異なり、疑問を持ちながら読んでいたが、読み終わって間違いないと判った。記憶とはいかに曖昧なものか。
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     上
  宇宙船乗りの歌が聞こえる
  ルシアナ
  テラリアは遠く
  星と粘土板
  たそがれの楼蘭
  廃墟の旅人
  遠い決別
  ある記録

     下
  惑星アルマナ
  アヨドーヤ物語

 最後のアヨドーヤ物語が中編、それ以外は短編といってよかろう。

 青春の夢を追い求め翡翠座イオへの探検に旅立った夫を追いかけて異国の星に赴いた妻。

 凍土の平原に広がる惑星ルシアナの廃墟で探検隊員の前に夜毎に現れる謎の美少女。

 火星の東キャナル市に惑星探検の宇宙船建造を命じる地球政府。繰り返し、ついに火星の物資は底をつく。それでも作らねばならぬ火星人の苦しみ。その宇宙船が飛び立つ日、愛する男を奪われた女たちの決断は。

 心ない地球人の干渉が引き起こした、異星の悲劇。

 アトランティス王国滅亡の陰に隠されたヴァーラタ国の悲劇的終末。
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 特に「廃墟の旅人」を取りあげよう。

   天山山脈の北に不死の都があるという。
   遠いむかし、
   天から光り物が飛んできて砂漠へ落ちた。
   一人の神人があらわれ、
   近くの町に入った。
   それからその町はしあわせに満ちたという。


 その豊かな町では城門を閉じる必要もなく門の鎖は緑青をふいていた。
 王宮では王女の結婚式が行われていた。
 そこに白馬に乗って入ってきた美しい異国の娘がいた。サテンの帯に黄金の太刀をつり、五弦の月琴を背負っていた。
 式を主催する神官に言う。

……、不死の国があると聞いてやってきた。わたしは阿修羅王だ」
 神官の言葉を制して言う。
「帰って天帝につたえるがよい。生も、死の一つの象(かたち)。死もまた生のひとつの相(すがた)に過ぎない。人の情も夢も、限りある生命なればこそ。その生命が永遠ときそい合って何を得んとはするか」
 悲しみと怒りが広場を閉じた。
「この町を時の流れから切り離し、終わることのないくりかえしの中に封じこめるとは。こは永遠に似て永遠にあらず。ただ色褪せた昨日があるのみではないか」


阿修羅王は黄金の太刀をふりおろす。
一瞬にして城邑は消えた。
さえぎるもののない砂漠に……
白馬に身をゆだねた流離の娘がひとり、闇に消えていった。
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2020年05月18日

百億の昼と千億の夜

     光瀬龍   ハヤカワ文庫   1973.4

2007.4.7 記
2020.5.18 加筆
 
 わたしはこの本によって、SFに目覚めた。
 それまでも古典的な「冒険科学小説」は読んでいたが、この本はその壁を打ち破った。
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 日本のSFは発足当時からこれだけレベルの高い小説を提供していたのだ。
 野田昌宏さんはアメリカの初期SFを収集しているが、「ほとんどは屑だ!」と喝破した。それがレベルが高くなって読むのに耐えるようになった頃、日本のSFが始まった。そのため、助走なしにいきなりハイレベルの小説が書かれた。
 この本はその象徴と思っている。
 いま再読してみると、時代を映しているところがいくつかある。
 なお、著者は学校の理科の教師であり、科学的知識は素人ではない。
 漢語を仮名書きにしているところがある。当時、漢字制限が強く、その範囲外の漢字は使いにくかったのか。また、できる限り和語はひらがなにしている。
 コンピューターが登場するが、この記録はロッカーにパンチカードで収納されている。また、カタカナ書きである。当時は平仮名や漢字は表現できなかった。その影響か、漫画や小説では、コンピューターの言葉はカタカナで表現されることが多かった。
 ちなみにわたしが初めてコンピューターに触れたときは、入力はパンチカードであった。紙テープなども使われていた。記憶はオープンリールの磁気テープが多かった。これらは業務用である。
☆「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
 1由旬が100万光年と説明している。これは誇張しすぎ。
 現在では由旬がある程度判っていて、約7キロメートルである。人の住む世界がインド亜大陸の形をしていて、その大きさが記されていることから推測した(須弥山と極楽)。そして須弥山の高さが8万由旬である。

 さて、物語は天地創造から始まる。
 寄せてはかえし
 寄せてはかえし
 かえしては寄せる波の下で、生命は誕生し育っていった。
 そして人が誕生し、文明が発生する。
 プラトンがアトランティス王国の記録を見る。
 その都はオリハルコンで飾られていた。そして、
 大西洋に没したといわれるその王国の最後の司政官オリオナエこそプラトンであった。
 その王アトラス7世は惑星開発委員会の計画に沿って、王国の引っ越しを命ずる。だがそれは不可能であり、王国は滅亡する。

 釈迦族の王子シッダルタは4人のバラモン僧(目犍連・須菩提・摩訶迦葉・富楼那)に導かれ出家した。
富楼那(フルナ)が出家に反対する老ウッダカに説明する。
「梵天はこの長大無辺な宇宙をその手に観照する。万物流転の形相はすべて天なるものの意志、すなわち梵天王の意志である」
 そして、兜卒天に住む梵天に会いに行く。ここでは弥勒菩薩が五十六億七千万年後に衆生を救うために修行をしているはずであった。
 だがそこは荒れていてとても浄土といえるところではなかった。原因は阿修羅との戦いであった。
 シッダルタは阿修羅王との会見を望み、会見することになる。
 シッダルタと阿修羅王を逢わせたのは、世界を滅ぼそうとする四人の波羅門僧の失策であった。

 わたしはこの会見シーンをもう一度読みたくて、この本を買ったといえよう。

「悉達多(しっだるた)太子か」
 はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅(あしゅら)王か」
 少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
 少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
「阿修羅王に問いたい」
 少女は、ふとかすかに眉をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきな心の働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。
「波羅門(ばらもん)の説くところ阿修羅王は宿業によって、この兜卒(とそつ)天浄土に攻め入り、帝釈天の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦っていると聞いた」
「そのとおりだ」少女は唄うようにいった。
「阿修羅王よ」
 少女はふたたびかすかに眉をひそめた。見入るときにわずかに眉をひそめるのが、この美しい少女のくせらしかった。少女はだまって首にかけた瓔珞(ようらく)をもてあそんだ。それは何かの骨片を銀の糸でつなぎ結んだものだった。小さな乾いた音が、木鈴の鳴るように太子の耳にとどいた。
「なに故に梵天(ぼんてん)王のしろしめすこの天上界に攻め入ったのか。そののぞむところは何か。そして阿修羅王よ。王はどこからやってきたのだ。王の棲む世界はいずこにあるのだ」
 太子は砂の上に腰をおろし、上体を真っすぐにのばして少女をにらみつけた。
 少女は少し困ったように片方のくちびるの端に微笑を浮かべた。小さなくちびるから真白な糸切歯がのぞいた。
「阿修羅王よ」
「悉達多太子!」
 とつぜん、少女の声は天地の声になった。
 どっと吹きつけてくるはげしい風の中で、少女の髪がほのほのようになびいた。少女の怒りと悲しみが目のくらむようなすさまじい火花となって散った。
「太子! 弥勒に会え! 五十六億七千万年ののちに、お前たちを救うであろうといわれるその弥勒に会え!」
 太子は思わず砂の上に身を投げた。合掌する手が自分でもぶざまなほどふるえた。


この場面は、興福寺の阿修羅像を彷彿させる。
対話はまだ続く。
この世界の荒廃は戦争が原因ではない。戦争は、この世界はなぜ荒廃するのかという、危機に対する梵天の無策に対する攻撃であった。

「梵天王は今こそ転輪王の意図を知ることだ」
・・・
「梵天王があなたの言葉を聞こうとしなかったわけは?」
「わからぬ。これだけは言えると思う」
「思考コントロールを受けている、と」
「そうだ。初めてあなたと意見が一致したようだ」
・・・


 そして弥勒に会いに行くのたが、それは単なる像であった。
 ここに救いがあると勝手に信じた人が弥勒の救いを人に語ったのであろう、という。

 エレサレムではイエスが処刑されようとしていた。イエスのうさんくささを見抜いたユダの告発によるのだったが、処刑後、暗闇となりイエスの遺体は行方不明になる。
 そして…
 3905年
 砂漠と化したトーキョーに、シッタータの記憶を持つ者・オリオナエの記憶を持つ者・アシュラの記憶を持つ者、三者が集まった。
 そこでイエスなどの地球文明を破滅させた者たちの襲撃をうける。
 この後、三人は、ナザレのイエスを追い惑星開発委員会のあるはずのアスタータ50へ行くが、そこはすでに滅んでいた。そこで弥勒=大天使ミカエル=アトラスと戦うことになる。
 そこを抜け、転輪聖王のいるアンドロメダ星雲に行く。復元できたのはアシュラ王だけであった。
 ここから世界を支配していた転輪聖王の組織はすでに崩壊していた。
 二千億光年の宇宙全体が崩壊しようとしていた。
 アシュラ王はたった一人で残される。

さて、前に書いたこと。
「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
について。
 この広大な世界を(外から)管理する転輪聖王がいるところが、230万光年の距離にあるアンドロメダ星雲というのは近すぎ。そして仮に千六百億光年としても、下に書いたような、はるかに大きな世界が二千億光年の宇宙に入ることはできない。
 というわけで、1由旬が100万光年とするのは無理がある。1由旬約7キロメートルでよかった。
 ただし、当時は由旬の定説は見たことがない。またビッグバンの思想はなかったので、宇宙の大きさが二千億光年ということは問題ない。
 なお、結論が判りにくいが、仏教の宇宙論ではこの宇宙そのものが、滅んでは再生を繰り返している。その一回分(1大劫)の物語と考えたい。

参考
地上〜須弥山頂上        8万由旬
地上〜兜卒天         32万由旬
地上〜色究竟天 1677億7216万由旬


 天とは場所のことと同時にそこに住む者も表します。
 色究竟天は有頂天ともいいます。なかなか有頂天にはなれませんハイ。
 最後の数字はパソコンのプリンターの説明で見たことがあるような……。いま、インドのソフト技術が力を得ているが、こんな昔から二進法の数字の考え方を操っていたんだな、と妙に感心する。続きを読む
posted by たくせん(謫仙) at 08:30| Comment(47) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする