2024年08月20日

民主の国とは

 幸福な監視国家・中国 の続きを、加筆して独立させた。

 以下はわたし(謫仙)の考えていたことである。
 中国といえば共産主義国家と思う人が多い。だがそれは違う。支配する中国共産党は、組織の看板として共産主義を掲げているだけだ。
 中国共産党が共産主義になれない理由は判っている。
 共産主義にはまず民主化しなければならない。民主化が共産主義のスタート台だ。これができていない。そして国民の生活を支える経済力だ。
 日本はすでにそこから踏み出している。第一歩は、国民皆健康保険だ。第二歩は年金だ。それから失業保険。これら社会保障はソ連と向き合っていたころ充実させた。そして経済力が勝るため、ソ連を遙かに凌駕する共産主義政策となった。
 最近ではベーシックインカム(ベーシックインカムとは)が考えられている。しかし、そのマイナス面もあり、導入は当分ないだろう。
 将来生産は全てロボット化して、失業率が3割を超えるようになると、導入が必要となろう。もっと前かな。
 専制主義→ 資本主義→ 社会主義→ 共産主義、だが、自称「共産主義国」はいまだ専制主義のままである。共産主義社会は視界にも入っていない。
 西方極楽浄土や天国では、資本主義が機能しているとは考えにくい。共産主義に思える。当然ながら名前は異なるだろう。このことから共産主義は実現不可能に近い理想社会と思える。

 警察は無犯罪を目指し、消防は無事故を目指す。達成するのは不可能だが、無駄ではない。
 多くの人は自由平等を目指す。達成するのは不可能だが、その運動は無駄ではない。
 共産主義は社会の目指す理想でもある。しかし不可能ではないか。不可能であっても目指す意味はある。目指す努力を怠ると、専制主義に逆戻りしてしまう。

 漢民族の支配者は4千年(実際は3千年程度ではないか)の帝国主義思想に支配されていて、帝国主義の範囲でしか考えられない。民主でも法治でも、帝国主義の範囲内での話になる。
 もっとも台湾や香港や華僑は西洋的な民主を考えることができる。
 中国ではしばしば、警察組織が、反社的組織と親しく思えることがある。そのため地元警察は信用できなくて、中央に訴え出ることがある。
 ただし、中央政府も信用されているわけではない。

 現在では中国外の西欧的な市民社会にも、非民主の陰が忍び寄っている。民主疲れとでも言うか。負担軽減(つまり利益)を求めすぎてしまうのだ。原因はソ連が崩壊し、非民主国との競争の必要度が低くなったことだ。
 日本の総選挙では表面だけでも一千億円以上かかる。選挙を止めれば一千億円が浮く。全てにそう考えると、経済的負担は軽くなるが、国家機能に大きな傷ができる。民主化していない中国ではこの傷が大き過ぎるように思える。

 日本でも、国民の生活を支える経済力に陰りが出ている。放漫財政のためだ。企業の体力が弱くなると、株価は下がる。これを強引に株価だけ上げても体力は回復しない。原因と結果を取り違えたのが、現状ではないか。
 かつてインフレ率2%を目標にしていたが、仮にそれが正しいにしても、2%は経済を健全にした結果としてそうなるべきで目標ではない。
 インフレ政策の目的は、借金(国債)の事実上の返済だ。

 医者が熱を出している病人の温度計を37℃にしても、いや体を冷やして体温だけを正常にしても、病人は回復しない。病人を回復させた結果、体温が正常に戻らねばならない。

 間接的ではあるが、
 サピエンス全史 ホモ・デウス 続き に続く。
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2024年08月14日

ある会計処理

05.12.8記
24.8.14追記

ある会計処理

 わたしが経理の仕事をしていた会社がある。その会社の社長は経理のことを知らず、税金減らしのために元税務署員を経理責任者に雇った。ところが結果的に、150人ほどの会社で、20人分ほどの賃金に相当する金を毎月使われてしまった。それなりの金額が、社長の懐にも入ったのだが、それはまともに経営すれば入る金額より少ないのだ。
 社長は食い物にされてしまったことに気づき、わたしを経理部員にした。数年して、そして元税務署員を解雇し、公認会計士を依頼し、経理の改革をはかった。わたしには会計士に全てを話しなさいと言う。
 結果、決算では年間利益200万円の会社で、◯億円という追加の税金を払うことになり、裏の金も表の金もスッカラカンになってしまったのである。
    
 怒ったというか呆れた社長夫人が、経営者の一人として経営に口を出すようになり、経理責任者となり、リストラを敢行し、出るところを締めて経営を立て直した。
 無駄をなくせば儲かる会社だったのだ。それでいながら、慣れてくると、わたしには不正経理処理を要求した。もちろん会計士が見ればひとめで判るものである。わたしは拒否した。それからは、わたしと経営者の仲は少しづつ悪化した。
 たとえばある処理を要求された。
謫仙 「ここは会計上こう処理をしなければいけません」
社長夫人「わたしが、そう処理をするためにあなたに給料を払っているんです。あなたがわたしに給料を払っているのではないのだから、わたしの言うとおりにやりなさい」
謫仙 「そうですか」
 優秀な経理員ならきちんと説明し説得するところだが、あいにくわたしは優秀ではない。
 この件については、経緯を伝票の裏に書いておいた。あとで間違った処理をしたと糾弾されないためである。
 結局、会計士の前で糾弾されたが、裏に経緯を書いてあるので、会計士は逆に社長夫人をたしなめる事になった。
 そのあと、伝票の裏に経緯を書いておいたことを糾弾されることになる。
社長夫人「会社の恥を外に漏らすとは何事ぞ」だって(^。^)。

 ここまではまだよかった。ここで会社経営の味をしめた社長夫人は、自分で会社を設立したのである。十数人の工員を雇い会社を始めたが、たちまち倒産してしまった。
 その理由がなんと「売上」がなかったのである。出るを制することを知っていても、収入を計ることは知らなかったのだ。会社を起こすと自然に収入があると思っていたらしい。営業員が一人もいない会社である。もちろん、裏ではそれなりの話もあったのだろうが、営業を知らない社長夫人には、それを形にすることが出来なかった。
 結局、会社を再建した利益を、その新会社でそっくり失ってしまった。そのころわたしはその会社を辞めたのであるが、二年後には、わたしの知っている人はほとんどいなくなってしまった。特に営業部員がいなくなってしまった。見通しが暗く、見切りをつけたのか。
 間もなく会社は更に小さくなったという話を聞いたが、その後20年ほどした頃、会社はなくなっていた。十数年、よく保ったと言うべきであろう。
 仕事の縮小にリストラが追いついていたのだが、あまりに小さくなって、産業構造の変化を吸収できる人がいなくなってしまったと思われる。成功体験がリストラで、それ以外の経営手段を持たなかった結果と思える。親会社が海外に工場を移し切り捨てられたのかも知れない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
24.8.14追記
 今思い返してみると、貴重な社会勉強だったと思う。
 わたしは決して優秀な人材ではない。田舎から出てきて、社会の荒波に初めて揉まれたようなもの。
 特に学校で習った経理処理はいわゆる表の顔。それよりも重い裏の顔がある。プラス、苦手な未経験の庶務の仕事。
 社長夫人はあちこちで笑われていたと見えて、わたしを相手に愚痴をこぼす。そのうちにわたしを叱責する。話しているうちに、わたしに笑われたと勘違いしてしまったらしいのだ。わたしの態度にも出ていたのか。
社長夫人「そのうちわたしが言ったことが正しいと判る」
 
社長夫人「他社では経理が数十億円も稼いでいるのに、うちは一円も稼いでいない」
 数千億円を動かしている大会社の経理部と、一円も任されていない徒手空拳の一事務員を一緒にするな。そもそも経理の責任者はあんただろう。それにわたしにそんな能力があったら、ここには務めていない。
 その経理が稼いだという大会社は、後に大損して、会社が傾いている。堅実を旨とする経理社員に、博打をというより相場を任せたのが間違い。

 わたしは後任者にきちんと引き継いで退社した。ところが後任者は、一週間もしないうちに、社長夫人とけんか状態になり、退社してしまった。
 こんないろいろなことが、反面教師になって、わたしの視野を広くしたと思う。
 しっかりした優秀な経理マンがいれば、わたしの出る幕はなかった。同時に、そんな会社だから、わたしも伸びるチャンスは少なかった。それでもプラスの方が大きかったと思っている。
posted by たくせん(謫仙) at 07:51| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月13日

パワハラ

05.12.9記
24.8.13加筆訂正

 中学二年生のとき、教師を殴った事がある。学校が荒れていたわけではない。
 わたしはそのころ既に耳が悪かった。補聴器も持ない時だ。英語の発音など聞き取れはしない。特に無声音は一切聞こえない。先生の英語は聞き取れないから発音の真似などできるはずがない。できないと殴られた。他の男子は一回だけだが、わたしだけ授業毎に2回づつ殴られていた。ある時殴り返したのである。その教師は真っ青になって声が震えてしまった。ただしそれ以後はわたしの教室では、その教師は誰も殴らなくなった。
 その教師は震える声で、「あとで職員室に来い」と言った。
 わたしは職員が大勢いる時を狙って(二人だけではあとでごまかされる可能性がある)、行った。
「用事はなんだ」
 何も言われず無罪放免になった。クラスの担任の先生にはだいぶ面倒をかけたと思うが、詳しいことは知らない。
 わたしが高校を卒業したとき、すでに家は引っ越しして中学校のある村は、遠かったが、家に帰る前に回り道して、中学の担任だった先生に挨拶に行った。喜んでくれた。
  
 時は流れて、ある会社で、わたしはカッターナイフを持って仕事をしていた。とある上司が殴りかかってきた。事情はあるのだが、わたしから見ればその社員は“暴力用員”だった。

 数年後、わたしなど異常な残業に耐えられない何人かの社員が辞めて間もなく、その“暴力用員”は退職したという。
 その“暴力用員”はアルコールに弱かった。当時の同僚が、ボーナスの出た日に、その“暴力用員”「飲みに行こう」と誘われたという。
謫仙「あれは飲めなかったンでは…」
同僚「ほとんど飲まない」
 それでどうしたのかと言えば、ついた女にいきなり「やらせろ」
 そんなことを三軒つづけて、ボーナスの出たその晩にボーナスの半分は使ってしまうと言う。給与の一ヶ月分以上だ。そのボーナスも実は残業代の変形(一部)であった。残業代を正規の七割程度しか払わず、残り三割をボーナスにしたと見れば間違いない。

 その会社では長時間残業が常態であった。定時間は170時間程度なのに、最も多い人は残業が200時間を超えた。一ヶ月の残業である。普通の人でも120時間程度、わたしは最も少なくて80時間くらいであった。それが上の“事故”の遠因となるのだが、それはともかく。
 200時間を超えた人の曰く。
「俺の友人たちでは俺が一番給料が多い。うちの会社は恵まれている」
 わたしたちは陰で笑ってしまったのであるが、その仕事ぶりはこんなふうだった。
「土日の連休はほとんど出勤した、月に一度だけ休んだかな。毎日夜12時近くまで仕事で、終電車で帰ることが多い」
 その人の食事は、毎朝弁当を2食注文し、昼に届いた弁当を、一食は昼に皆と食べ、夕方にもう一食を食べる。朝はどうしているのか聞き漏らした。
 こんな仕事ぶりで、友人たちより給料が多いと喜んでいるのであった。

 わたしが退社したころ、社員数は150人ほどになっていた。その後、二年ほどして聞いた話では、3人ほど過労死しているらしい。表だって過労死とは言わないので実情は不明だが、巷の噂である。この3人の中に、上記の人は入っていない。

 順序は逆になるが、社長は「わたしはいつも全社員と話し合い、納得して貰っている」という趣旨の事を言っていたという。
 わたしが入社したころ、全社員(百人以上)をあつめ、ボーナスの説明をし、「質問はないか」と訊いた。
 これが「全社員と話し合い…」の正体だった。それまで質問者はいなかったという。その時、若い女性があるお願いをした。「一部定期預金とされますが、非課税の枠はまだ余っていますので、それを非課税扱いにして下さいませんか」と言ったのだ。そのあと社長は、全ての部課長を集め、2時間怒鳴りまくったそうである。
「お前等の管理がぬるいから、女のくせに質問するのが出てくるんだ。どんな管理してるんだ!」
 それ以降、社員を集めて説明することも「質問はないか」と訊くことも一切なくなった。
 質問がないと「全員と話し合って…」と言い、質問があると「文句あるか」と怒鳴る人のなんと多いこと。二度と言わなくなったところをみると、案外まともな社長だったのかもしれない。

 先日、ある人に「こんなブラックな会社で…」と話をすると、「給料を払っているならブラックではない」と言われた。
 わたしとは考え方があまりに違うのに愕然とした。
posted by たくせん(謫仙) at 07:31| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月12日

役名詐称

05.12.11記
24.8.12加筆訂正

 津山宏一の小説に「屋根屋狂躁曲」という本がある。
 主人公が勤めていた会社は鈴木重工業有限会社という。あの自動車会社と間違える人がいるかもしれないが、屋根屋なのである。会長の名前が鈴木重太郎で、鈴木重工業有限会社と名付けた。従業員は社長の息子が3人と主人公ともう2人の6人である。
 ある時、重太郎がつぎのような名刺を配った。重太郎が「会長」で、長男が「代表取締役社長」、次男が「業務及び営業担当常務取締役」、三男が「第一業務部課長」。そして、主人公が「第二業務部業務四課業務係り係長 杉並支社」、もう2人は「本社第三業務部部長」と「第七業務部業務七課業務係り主任 西船橋支社」。
 これでは役名詐称ではないか。これから考えても判るようにユーモアドタバタ小説だ。
   
 銀行に「支店長代理」という役職がある。支店長の次かと思うと、さにあらず、ほとんど平社員に等しい。支店長代理の上司が係長だ。
「支店長の代理として責任を持って営業をしている」というが、それは内部の話。外に出しては役名詐称に近い。

 鈴木重工業有限会社の会長は壊れた電気器具などを捨てることができない。修理すれば使えるが費用がかかる。あとで修理しようと、とりあえず故郷に倉庫をつくり、そこに収納してある。もったいないといいながら、更に大きな無駄をしているのだ。捨ててしまえば、倉庫は要らないし、そもそも修理して使うことはあり得ない。
 なぜ、こんな話をするのかと言うと、実はよく似た話があるのだ。

 わたしは、パワハラに書いた会社を退職して、ある小企業に就職した。
 小さな部屋にいる人は、
 代表取締役社長・登記上別会社の取締役会長・専務取締役・常務取締役営業部長・取締役総務部長・取締役第一営業部長・取締役第二営業部長・第三営業部長・営業第一課長・営業第二課長・2人の女子社員・そして入ったばかりのわたしである。そうそうパートが1人いた。別室があって、そこに女子社員が5人。
 頭でっかちの組織だが、鈴木重工業のように、ごく小規模の会社ではよくあることである。わたしの名刺を作るとき、製作係長にするという。意味がないので断った。それ以降も人の入れ替えがあったが、新入社員を課長だの部長だのにする。部長が入社3日目で辞めて、課長が2日目に辞めたりを繰り返していた。
 かなりの人が入れ替わったが、だんだんと売り上げが減り人も減り、わたしが退職した頃には別室はなくなっていて、会長(前社長)・社長・部長3人・課長2人・平社員4人になっていた。
 部屋は狭くて荷物置き場にも困っているのに、故障してしかも古くて使うことのなくなった電子機器を捨てられなく、5年も場所をとっておいてある。15年も前に製造中止になった電子機器だ。たとえ修理できたとしても、性能は悪く、使える人もいなくなっていた。これは経理的には少しは意味があるのだが、費用(家賃)をかけてとっておくほどのことはない。意味とは黒字の時に廃棄すればその分税金が安くなること。
 鈴木重工業会長を笑えません(^。^)。

 退職するころ、わたし自身は会社の倒産を願っていたほど。倒産ならば、早く雇用保険金がもらえ、退職金より多い。なかなか倒産しないので、こちらから退職願いを出したのが実情である。
 ある現場の嘱託は、ミスがあったと何回か費用を負担させられた。結局「時給300円にしかならないよ」と、会社の仕事をやめてしまった。
 わたしが退職のときにも、会長はなんと退職金をごまかそうとする。しかし新社長は、雇用保険金より少ない程度の退職金のさらに数分の一をごまかして裁判で争う気はなく、全額支払いに同意した。
 わたしが退職金規定を知っていたので、争う気が失せたのかも知れない。わたしはいざというときのために、弁護士の用意までしていた。結局五千円の相談料だけで済んだ。
 逆に、そんな会社だからわたしが就職できたとも言える。感謝しなくてはいけません(^_^)。

09年:先日当時の同僚から電話があった。わたしが辞めてから2年ほどで、全員が辞めてしまった。先日会長も亡くなって、知っている人は社長くらいしかいなくなったという。
 その亡くなった会長は自分では営業ができず、営業成績が落ちたら神頼み。狭い部屋に神棚を鎮座して、毎朝わたし以外の全員で神頼みするのだ。わたし一人が拒否していたので、会長とわたしの仲は冷え冷えだった。
会「君は創価学会なのかな」と下手に出てくる。
謫「いいえ違います」
会「創価学会でもないのになんで拝まないだ」といきなり恫喝された。
 宗教は創価学会しか知らないらしい。それとも創価学会が怖かったのか。わたしは−神仏は尊し神仏を頼まず−で通している。

 登記上別会社の会長が亡くなったときも、社長は花輪一つで、済ますつもりだったらしい。その家族は従業員数十人(実は取引先も含んでいる水増し)の会社の現役会長が亡くなったのだから、当然会社から…、というように思っていたという。実体は机一個のペーパーカンパニーで、毎週一度営業会議のためにその椅子に30分ほど座る程度で、あとは不在。登記上もう二人取締役がいて運営している。
 会長とは名刺に刷るだけで、実体は嘱託の営業マンのようなもの。家族が実体を知ったら唖然とするだろうな。

 会長が亡くなったとき、電話が入った。辞めさせられた元営業部長からである。おいおい、解雇されて泣きながら辞めた人が、葬式の手伝いなんかしているのかよ。呆れたが、それが世間の常識かもしれない。そうわたしは非常識な人間なのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:01| Comment(4) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月09日

グイン・サーガ・ワールド1

2011-6- 記
2024-07-08 追記

グイン・サーガ・ワールド 1
栗本薫ほか   早川書房   2011.5
 2009年に亡くなった栗本薫の代表作、グインサーガは未完のままになってしまったが、そのグインワールドを書き継ごうという人たちの、その外伝集の第一巻だ。

     guin11.6.27.jpg
 表紙の絵を久しぶりに加藤直之が描いている。初期辺境編は加藤直之だった。懐かしい。
 グインの豹頭が、なんとなく人らしい表情なのだ。呪縛が解けると人頭に戻る感じがする。他の人の豹頭は豹の頭をくっつけた感じで、(豹頭の)人らしい感じが弱い。

 ドールの花嫁 栗本薫
 遺稿発掘とある。若き日に途中まで書いて止めてしまった。若き日のナリス。
 その当時書いていた本編とはずれが生じたらしい。わたしには判らない微妙な差だ。
 文体が少し古く、初期のグインサーガを彷彿させる。

星降る草原 第1回  久美沙織
 草原の鷹スカールの、出生の秘話である。その母の数奇な運命を語る。
 小説道場で著者の名を知ったが、投稿は記憶にない。異常な愛を語ることができる。わたしには苦手な話だ。

リアード武侠傳奇・伝 第1回  牧野 修
 今日は特別な日だ。
 出だしの第1行がこれだった。これだけで栗本薫ではない、と思ってしまう。
 栗本薫なら、「今日は特別な日であった。」であろう。たったこれだけで、違和感が生じる。
 講釈師のような立場の語り手は、講談調でリアード武侠を語るが、いきなり現代口語が挟まってしまう。わざと入れたと思いたいが、読んでいて、いきなり調子が崩れてしまうのだ。その前に、講談調の文も調子が悪い。そのためいまひとつのめり込めない。そしてミステリー事件が起こるが、このミステリーは成立するのか。違和感が消えない。

宿命の宝冠 第1回   宵野ゆめ
 三話の中でこの小説が一番栗本薫に近い。栗本薫を詐称したら気がつかないであろうと思うほど。できは判断できないが、わたしの好みに合う。
 沿海州の男装の姫が中原を巡ってから、故国の危機を知り帰ってくる。しかし、素直には帰れない事情がある。語り手はパロからきた世間知らずの青年。
 これだけは続けて読みたいと思う。

日記より
 夫君今岡清さんが発表した、栗本薫の日記の一部だ。
 最初は中学一年。それから作家としてデビューするころまで。異様な精神状態を感じさせる不思議な文章である。

エッセイ
 そして今岡清さんが栗本薫を語る。
 文を書くことにとりつかれ、死の瞬間まで書き続けた、栗本薫のすさまじいと思える精神状態。これでよくあの大人の物語を書けたと思う。特に死の床に伏してからの、精神も病んでいたのではないかと思えるほどの異常な行動や言語。それを暖かく包む今岡清さんの感性。これで栗本薫は大人なのかと思えるほどだが、妙に納得できる話だ。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
2024-7-8 追記
 本編も語り継がれていた。130巻以後148巻まで出ている。
 著者は「五代ゆう」と「宵野ゆめ」の二人。宵野ゆめさんは体調が悪くなり、最近は五代ゆうさん一人で書いている。
 これだけ長いと、あちこちにある伏線が、正しく回収できているのか心配になる。(というような意味の著者のぼやきがあるほど)

 宵野ゆめさんは文体も栗本さんに似ている。五代ゆうさんは描写力がある。ありすぎる。そこが栗本さんに似ている。
  ↑ 気がついたと思うがこの文、わざとおかしく書いた。本文中に、このようなアレッと思わせるところが何カ所かある。

 久し振りに続きを読んだので、全体を整理してみた。
posted by たくせん(謫仙) at 08:03| Comment(2) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月08日

グイン・サーガ118 クリスタルの再会

07-12-26記

    栗本薫   早川書房     118巻 クリスタルの再会
 この物語も118巻まで来た。本来100巻の予定であったが、終わらずに続いている。当分終わることはないであろう。
 ほとんどの本は図書館から借りて読むわたしが、この本だけは今でもお金を出して読む。
       guin118.jpg
 初期は擬古文というこった文体で綴られていたが、今では普通の文体になってしまっている。また初めのころは度量衡などが定まっていなくて、矛盾が生じたりしたが、まもなく統一された。
 一度設定した都市が、話の都合によって移動したりしたこともある。もちろんSFといえども許されるはずがない。
 SFを知らない人は、もともと荒唐無稽だから、と考えるが、SFだからこそそのあたりは厳格に考えるものなのだ。
 ある条件を設定したら、たとえば重力が半分になったらなどと決めたら、最後までそれで通さねばならない。重さは半分になり、人間の体は現在の体格を維持する必要がなく、骨はカルシウムが溶け出し……、なとど矛盾しないようにするのだ。
 都市の移動の問題では、ファンレターで指摘し、愛読者プレゼントを頂いた。
 毎回3人に出していた愛読者プレゼントも今ではなくなった。

 さて、実は今回設定上の大問題(?)が発生した。
chizuguin.jpg
 一行が馬車と騎馬で右の湖の近くミトから国境の町サラエム向かっている。目的地はパロの都クリスタルだ。

p20
 …グインだけでも、船でランズベール川をさかのぼって、クリスタルに近づいたほうが……
 ここでは「さかのぼる」のではなくて「下る」とすべき。
p66
 ミトからランズベール川の下流をめざし……
 地図を見ると判るように「ランズベール川の上流」とせねばならない。ミトからサラエムに向かったので、このあたりは上流かあるいは中流であろう。ここでは単なる勘違いと思っていた。そして、p20の「さかのぼって」が気になりだした。
p76
 ランズベール川にそってのぼるようになり……
 とあり、ここで、作者の単なる勘違いとはいえない、と思えるようになった。
p132
 クリスタル・パレスの真後ろを流れるランズベール川もこのあたりまでくると、かなり幅の広い川となり、最終的には自由国境地帯の山中の湖に流れ込んでいる、ということだった。
 ここまでくると、作者はイーラ湖から山中へランズベール川が流れていると思っていることが判る。
 実は以前にも同じ記述があった。この地図が間違っていると考えるべきか。山中の湖にと言っているのでわたしは作者の勘違いだと思うが。
 ここ10巻ほど、登場人物の長広舌が気になる。回想も長い。今回はいつも口数の少ないヴァレリウスまで長広舌になっている。作戦的に長く喋っていると考えたいが、どうもそうではない。まるで人格の変換が起きたようだ。
 そのため内容がかなり薄くなっている。この10巻を3巻程度に縮めたら、普通の流れになったか。
 もうひとつ挿絵画家の問題。この画家は美人と言うと巨乳にしてしまうのだ。ほっそりとしたリンダまで巨乳。バランスがとれず醜い。115巻では男の恰好で傭兵稼業をしているリギアも巨乳にしてしまった。それで鎧を着る傭兵稼業ができるか!
 本文での描写力は相変わらず。この描写力があるから長くなってしまうのだ。
 小説は描写すること。美しいといわずに、どのように美しいのか、それを描写するのが小説である。というだけあって、描写力はずば抜けている。この描写力が仇となることもあるようだ。

   ……………………………………………………
 第97巻当時の紹介文
 今回は久しぶりに気持ちよく読めた。
 曖昧だったマリウスとオクタヴィアの関係を、お互いが納得して別れた。その納得の仕方が納得できたのだ。
 そもそも、オクタヴィアが皇族の身分にしがみつくのを、マリウスが、それを捨てろと言ったのが発端だった。反発すると、なんとマリウスは王子の身分を捨ててしまった男であったのだ。そこにマリウスの言葉の重みがあった。
 それで、オクタヴィアも皇族の身分を捨てて、二人で夫婦となって旅に出た。そして、それなりの幸せを得ることができたのだ。
 子供ができたり、その他の事情があって、オクタヴィアは皇族に戻ることになるのだが、そのとき、王子であることを捨てた夫が、皇族に戻ることをいやがることが理解できなかった。宮廷人たちもそうだ。マリウスが出て行ってしまって、そのことにオクタヴィアは気が付いたのだった。
 幸い、父の皇帝はマリウスの歌を初めて聞いて、そのことを理解したので、オクタヴィアは肩の荷を下ろすことができたのだ。
 マリウスたちがサイロンに戻って来たときに、その歌を披露させるべきだったが、その機会がなかったのはオクタヴィアのミスと言うべきか。
 本来、二人の発端はそうでも、それなりの事情によって戻ったのであって、夫はそれを理解し、協力しなくてはいけない。だがマリウスはそれができない人であった。だからこそ、王族の身分を捨てたのだ。
 今回はその再確認でしたね。
   ……………………
 黄金の輝き
 わたしはとても貴重な思い出がある。いまとなっては、それが本当にあったのか定かでない。
 あるクラシック歌手が、唱歌を歌っていた。そのとき、わたしのまわりにある諸々が黄金に輝いたのだ。その輝きは、歌声が止むと消えてしまった。そのとき、わたしは涙を流して感動した。
 それからクラシック音楽に興味を持ったが、あの感動は二度と味わえなかった。
 ある時、クラシック歌手が演歌を歌ったことがある。日頃「演歌は音楽にとって有害だ。法律で禁止すべきだ」と言っているクラシック界の人の歌は、と期待した。それがあまりの酷さに愕然としてしまった。
 演歌歌手より見事に歌って、その上で、「クラシックはもっと素晴らしい、皆さん聞いて下さい」と言うのを期待していたのだ。
 だが日本語の発音さえまともにできない歌手に演歌は無理だった。わたしの同僚でももっとうまい。
 それ以来、クラシック音楽への興味は全く消えてしまった。

 吟遊詩人マリウスは、まわりを黄金に輝かせることのできる歌手なのだ。そしてわたしは、マリウスの歌うシーンがあるたびに、涙を流して感動したことを思い出す。
 皇女オクタヴィアは、自分と娘マリニアを置いて出て行ってしまう夫マリウスに、失望したり弁護したりするが、やはり聡明な女であった。マリウスの生き方を納得することができたのだ。それもすべて、あの歌の魅力を知っているからではないか。
   ……………………
 今回は「マリニアちゃん」「勝ち組」という言葉があって、違和感を覚えた人がいる。
 もともとこの物語は擬古文の世界であった。
「…マリウスを伴っては、はかが行かぬ」と。
 それがいつの間にか普通の文体になっていった。この文体では皇族といえど、私生活では「マリニアちゃん」はあり得ると思う。
 だが、勝ち組はどうか。
「勝ち組」の意味をどう取るか。わたしは勝ち組の意味を、
 負けたのに、目をつぶってその現実を見ず「俺は見なかった、そんなことはない。勝ったんだ。絶対に勝った」と叫んでいる人たちの意味ととっているのだが。
 いまだ第二次大戦は「本当は日本が勝った」と言っている人がいるのだ。
逆に「負け組」は、負けた事実をしっかり見て再出発をする、「真実を見ることのできる人」の意味にとっている。

  …………………………………………………
 第83巻当時の紹介文
 この個人では世界最長の物語、全100巻を目指して、ようやく第83巻まで出た。約22年かかっている。
 外伝も16巻出ている。このまま100巻で完結するかどうかで、ファンはかまびすしい。
 一説に、「とても終わりそうもない。100巻は経過点で、最終的には全200巻を目指している」という。
 物語の特徴は、正義とは悪とはなにかが、絶えず問われることだ。昨日まで正義だったものが、今日は悪になる。
 人が変わる場合もあるが、人は変わらず世間が変わることもある。国により、時代により、立場により、入れ替わる正邪の概念をしめし、決して一方的に決めつけない。
 アメリカ育ちの過去のSFは、宇宙時代でも腰に拳銃をぶら下げていて、銃のうまい方が正義という、現在のアメリカの正邪の概念をそのまま引き継いでいることが多い。
 しかし、アポロ計画の宇宙飛行士が、拳銃は持たなかったように、航空機では武器の持ち込みが禁止されているように、おそらく武器を持ち込むことはなかろう。
 日本のSFはここから出発したため、わたしには日本のSFの方が優れているように思えた。また、グインサーガはこの象徴のように思えた。
 実際には外国のSFも同じように進化しているはずだ。
 現在、東方キタイの国のヤンダルゾックという竜王が中原への侵略を計画している。これをいかに防ぐかが、登場人物たちの主な関心事である。
 このキタイの、旧都がホータン、新都がシーアンという。漢字で書けば「和田」「西安」となるのだろうか。思わず笑ってしまう。
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グイン・サーガ122 豹頭王の苦悩

2008-8- 記

グインサーガ122   栗本薫   08.8
 王妃シルヴィアの病に悩み乱行を知ったとき、自分の力では王妃を救えないと悟り、別離を決意。別れの挨拶をして部屋を出る。

 それが、ケイロニア王グインが、その王妃とこの世であいまみえた最後であった。

 いやあ、なんとあっさり決めてしまったことか。グインではなく著者の話ですが。ここで話を聞いて、別れるならもう一冊くらいかけて別れを決意すると思うが、今回はたった3ページで決めてしまった。
 もっともそこに至るイントロで二冊近くかかっているので、それを考えると不自然ではないか。

 この巻ではローデス侯ロベルトの存在が輝く。盲目であり次男でありながら、兄の死で当主になったという。頭脳明晰で人の弱さを理解でき、シルヴィアの事を理解できるたった一人の人物である。宰相のハゾスが策を弄するのを批判し正しいと思う道を示すが、それでも最大の協力者となる。だからハゾスは苦悩を打ち明けることができたのだ。
「私は、もともと、なんでもよく出来る兄の下に生まれ、ローデス侯家の厄介者で終わるはずでしたからね。…略…。ですから、私にはシルヴィア姫のお気持ちもよくわかる気がするのです。―良くできたきょうだいを持って、おのれは何にもできぬとそしられているものの気持ちが」
 まさに哲学者だ。ケイロニアの苦悩、ハゾスの苦悩を引き受け処理をしてしまう。この人の存在でケイロニアは救われたのかも知れない。
 病の身とはいえ傑出した英邁なる皇帝アキレウス、軍神にして人情のわかるグイン王、各国の宰相では最も優れていると思える宰相ハゾス、軍事的には無力ながら心の支えとなるロベルトなど、優れた人物の多いケイロニアのたった一つの問題が王妃シルヴィアであった。
 この問題は終わったわけではないが、一時危機を回避した。
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グイン・サーガ129 運命の子 

09-10- 記

運命の子 グインサーガ129
栗本薫   早川書房   09.10

 著者2009年2009年5月29日に亡くなってから、127巻「遠いうねり」、128巻「謎の聖都」、129巻「運命の子」と三冊目だ。
 127巻の時は亡くなって間もなくだったが、それから二冊。長編小説さえ書きためる著者の速さに驚かされる。
 古い話だが、坂田栄男が「作家なら年に一冊くらい長編小説を書いたらどうか」という意味の発言をしたことがあるという。並みいる作家は顔を見合わせたが、川端康成は「年に一冊、そんなにかけますか」と言ったという。簡単に長編一冊というが、年に一冊書くのは大変なことなのだ。
 それを栗本薫は十日もかからず一冊書いてしまう。ワープロの普及もあり、内容の濃さも違うので、一概には言えないが、脅威の速筆である。このシリーズも、亡くなるとき間もなく発行される127巻に続き、二冊分も書き残している。聞くところによれば、まだ半冊分くらい残っているらしい。
 130巻も出るのではないか。小説の残された半冊分と梗概のような今後の予定などあれば載るのではないかと思われる。
        unmeinoko129.jpg
   
 さて、この巻は、スカールとヨナが、次代のリーダーとなるであろう運命の子スーティとその母フロリーを、ミロク教団から助け出そうとする話だ。まだ話は終わっていない。
 それ以外に、この巻はもうひとつ重要な意味がある。外伝第一巻、「七人の魔道師」の巻でもあるのだ。サイロンに病が猖獗するが、なんとか治まった。本伝の話と外伝の話に齟齬があると思われたが、なんとか形を付けた。七人の魔道師が書かれた1981年からすでに30年近くたつ。平仄が合わない部分があるにしても、ここまできてようやく、七人の魔道師にたどり着いた。
 これからこの物語が新しい展開をする予感かしたところで、未完のまま終わることになる。

 千人をはるかに超える登場人物にそれぞれ個性を持たせ、正邪は定かではなく、いろいろ謎を秘めて、未だ全体像が見えてこない物語だ。
 前後矛盾したり、(個人で書いた)世界一長い小説と自慢したり、内容が薄すぎる巻があったり、文体が変わったり、問題もいろいろあることはあるのだが、とにかく長い間楽しんだ。わたしは第10巻から買い始めた。
 挿絵画家もいろいろ変わった。最初の加藤直之と最後の丹野忍がいい。天野喜孝は絵が汚く美人が美人にならないので嫌いだった。
 丹野忍はこの表紙のように、普通の油絵として美術館に飾っておきたいような絵だ。
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グイン・サーガ130 見知らぬ明日

09-12- 記

栗本薫   早川書房   09.12
       guin130.jpg 
 ついに未完のまま最終巻となった。わたしは1〜9巻までは妹の本を借りて読んだ。第10巻から買い揃え、121巻持っていることになる。
 そしてその中には二冊持っている巻がある。一冊は読者プレゼントで頂いたもの。栗本薫のサイン入りである。
 それ以外に外伝もある。外伝は何冊になるだろう。

 外伝第一巻にサイロンの危機が書かれている。はじめ100巻で終わりにすると言っていたが、100巻を越えても、とてもサイロンの危機になりそうもなかった。ところが129巻になって、そのサイロンの危機が現れた。ようやくたどり着いたのだ。
 その間予定外の話も挿入されたと思うが、なんとか一周したように思う。そうして、続編とはいえ、また新たな物語が始まる。
 ゴーラ王の意外な行動は黒龍戦役の再現となるのか。パロの二粒の真珠の成長物語でもあるように、次のこどもたちの成長物語となるのか。
 いろいろ推測されるが、ともかくこの物語は終わった。
 小説とは自分の創造した世界を物語ること、という著者の面目躍如たる小説であった。これだけの長大な物語で30年も楽しませてくれたのだ。冥福を祈ろう。

 最後であるが、ある苦情を申し上げたい。
 グイン・サーガで言った川の話の再現である。
chizuguin2.jpg
 ユノから真っ直ぐに下りてくるあたりなので当然クリスタルの東である。
P124 イラス川とランズベール川、クリスタル市から流れ出てくる二つの大河を、
 地図でも判るように山間部から流れ出た川は、クリスタルを通ってイーラ湖に注ぎ込む。「クリスタルに流れ込む二つの大河を」とすべき。
P127 イラス川を渡ったらもうちょっと下流へ−場合によっては自由境地帯までも下りてみたほうがいいかもしれん。
 自由境地帯は川の上流、下りるのではなく登る。
P128 ランズベール川にそって下流に向かっておけ…
 これも上流であろう。
 この記述から、川の上下を誤解していることが判る。

 もうひとつ、これはカバーの絵だ。いくら女剣士といえ、乳房をそっくり再現させたような鎧があり得ようか。画いたのは丹野忍。絵はうまいのだが、こういう非常識なところがある。リンダやリギアを巨乳にしたりした。
 この物語でわたしの最も好きな登場人物は、魔道師宰相ヴァレリウスである。まだまだ引退はできそうもない。

 グインサーガ これは《異形》の物語であった。
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グインサーガ全130巻を読み返す

2017-  記

栗本薫   早川書房
 約2年かけてグインサーガ全130巻を読み返した。
 1979年(昭和54年)9月の第1巻『豹頭の仮面』以来、2009年(平成21年)5月26日、著者が亡くなるまで、30年間にわたり執筆されて、いまだ未完である。
 わたしは第10巻が出た頃に知り、一気に10冊読み、以後は出版の日を待ち焦がれて本屋に通った。
 外伝も22巻あるが、今回は本伝130巻だけを通して読んだ。

 地図上の問題
 グイン読本にカラー地図がある。前に紹介した地図を再掲する。
chizuguin-2.jpg

 海や湖や川は青、海岸部や盆地など低い土地はみどり、高くなるにつれて茶色が濃くなってくる。つまり普通の地図と同じなのだ。地図を見慣れない人でも判ると思う。登山地図になれた人には当然で何の疑問もない。
 ここでは、イーラ湖を底とするパロの盆地、オロイ湖を底とするクムの盆地があり、流れ込む川はあっても、そこから流れ出す川はない。
 ダネイン大湿原も盆地より高いところにある。
 イーラ湖に接続するランズベール川がある。パロの盆地がみどり、少し東に行くと、薄い茶色、そして川はたんだん細くなり濃い茶色のアルシア連山あたりで消える。どう見ても、アルシア連山から流れ出し、イーラ湖に流れ込むように見える。
 しかし、本文の記述は、イーラ湖から流れ出し、下流のアルシア連山の山中に消えると一貫している。水の流れの方向、上流下流の記述も、一貫している。
 アルシア連山の裾野は、イーラ湖より低いところにあることになる。
 わたしは今まで間違っていると書いたが、記述が一貫しているなら、むしろカラー地図が間違っていると考えねばならない。地図作者が誤解したといえる。ただ著者も目にしたと思うので、地図作者を責めるわけにはいかない。
 読み落としていたが、ダネイン大湿原は中原では最も低い土地にある、という記述があった。そうなるとこれもカラー地図が間違っている。パロの盆地の水はランズベール川で排水され、ダネイン大湿原にも排水されていることになる。
 草原地帯は少し高いところなので、ダネイン大湿原から流れ出るアルゴ川は大峡谷になっているのかな。もっとも草原の民は自由に移動しているので、切り立った崖ではないだろう。
 それよりここもカラー地図の間違いと考えた方が早い。
 おそらくパロの盆地は地図よりかなり高く、ダネイン大湿原や草原はかなり低いと考えるところだ。

 もう一つ。
 実際には30年130巻にわたって書かれた。主人公が何巻も登場しないこともあり、5年ぶり10年ぶりに登場する人物もいる。そんなとき読者は「この人誰だっけ」「あの当時の細かいことは忘れた」という状態になる。
 小説ではさりげなくそのあたりを説明している。会話であるとか、立場の違う別な人の述懐だとか、今までのあらすじ風の説明とかで、久しぶりの登場人物やその当時のことなどを読者に思い出させる。これが実に巧みである。
 巧みではあるのだが、今回のように一気に(と言っても2年)130巻を読むと、しかも2度目なので、その人や過去のことを覚えている。そうなると、前に読んだところをもう一度読んでいるような錯覚に陥る。この巧みさは長い間の連載の時は生きるが、一気読みでは逆効果でいらいらするほど。今までのあらすじ、過去の説明ばかりで、いっこうに話が進まない、という状態になる。これは意外だった。
 考えてみれば、初読当時もけっこうだれた感じがしていた。いつまで経っても話が進まない。どこかにそんなことを書いた記憶もある。
 このことで、十年後二十年後の三度目読みはないとみて、本の処分を決意した。

 未完で作者が亡くなった。この先の梗概のようなメモなどを期待したが、なかったらしい。
 その後、グインサーガワールドとして、他の作家がグイン世界を書いている。わたしはその第一巻を読んだが、第二巻以後は読んでいない。機会があれば…と思っていたが、なぜか積極的になれないのだ。本屋でも見ないし…、などと自分で自分にいいわけをしている。
posted by たくせん(謫仙) at 03:56| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする