07-12-26記
栗本薫 早川書房 118巻 クリスタルの再会
この物語も118巻まで来た。本来100巻の予定であったが、終わらずに続いている。当分終わることはないであろう。
ほとんどの本は図書館から借りて読むわたしが、この本だけは今でもお金を出して読む。
初期は擬古文というこった文体で綴られていたが、今では普通の文体になってしまっている。また初めのころは度量衡などが定まっていなくて、矛盾が生じたりしたが、まもなく統一された。
一度設定した都市が、話の都合によって移動したりしたこともある。もちろんSFといえども許されるはずがない。
SFを知らない人は、もともと荒唐無稽だから、と考えるが、SFだからこそそのあたりは厳格に考えるものなのだ。
ある条件を設定したら、たとえば重力が半分になったらなどと決めたら、最後までそれで通さねばならない。重さは半分になり、人間の体は現在の体格を維持する必要がなく、骨はカルシウムが溶け出し……、なとど矛盾しないようにするのだ。
都市の移動の問題では、ファンレターで指摘し、愛読者プレゼントを頂いた。
毎回3人に出していた愛読者プレゼントも今ではなくなった。
さて、実は今回設定上の大問題(?)が発生した。
一行が馬車と騎馬で右の湖の近くミトから国境の町サラエム向かっている。目的地はパロの都クリスタルだ。
p20
…
グインだけでも、船でランズベール川をさかのぼって、クリスタルに近づいたほうが……
ここでは「さかのぼる」のではなくて「下る」とすべき。
p66
ミトからランズベール川の下流をめざし……
地図を見ると判るように「ランズベール川の上流」とせねばならない。ミトからサラエムに向かったので、このあたりは上流かあるいは中流であろう。ここでは単なる勘違いと思っていた。そして、p20の「さかのぼって」が気になりだした。
p76
ランズベール川にそってのぼるようになり……
とあり、ここで、作者の単なる勘違いとはいえない、と思えるようになった。
p132
クリスタル・パレスの真後ろを流れるランズベール川もこのあたりまでくると、かなり幅の広い川となり、最終的には自由国境地帯の山中の湖に流れ込んでいる、ということだった。 ここまでくると、作者はイーラ湖から山中へランズベール川が流れていると思っていることが判る。
実は以前にも同じ記述があった。この地図が間違っていると考えるべきか。山中の湖にと言っているのでわたしは作者の勘違いだと思うが。
ここ10巻ほど、登場人物の長広舌が気になる。回想も長い。今回はいつも口数の少ないヴァレリウスまで長広舌になっている。作戦的に長く喋っていると考えたいが、どうもそうではない。まるで人格の変換が起きたようだ。
そのため内容がかなり薄くなっている。この10巻を3巻程度に縮めたら、普通の流れになったか。
もうひとつ挿絵画家の問題。この画家は美人と言うと巨乳にしてしまうのだ。ほっそりとしたリンダまで巨乳。バランスがとれず醜い。115巻では男の恰好で傭兵稼業をしているリギアも巨乳にしてしまった。それで鎧を着る傭兵稼業ができるか!
本文での描写力は相変わらず。この描写力があるから長くなってしまうのだ。
小説は描写すること。美しいといわずに、どのように美しいのか、それを描写するのが小説である。というだけあって、描写力はずば抜けている。この描写力が仇となることもあるようだ。
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第97巻当時の紹介文
今回は久しぶりに気持ちよく読めた。
曖昧だったマリウスとオクタヴィアの関係を、お互いが納得して別れた。その納得の仕方が納得できたのだ。
そもそも、オクタヴィアが皇族の身分にしがみつくのを、マリウスが、それを捨てろと言ったのが発端だった。反発すると、なんとマリウスは王子の身分を捨ててしまった男であったのだ。そこにマリウスの言葉の重みがあった。
それで、オクタヴィアも皇族の身分を捨てて、二人で夫婦となって旅に出た。そして、それなりの幸せを得ることができたのだ。
子供ができたり、その他の事情があって、オクタヴィアは皇族に戻ることになるのだが、そのとき、王子であることを捨てた夫が、皇族に戻ることをいやがることが理解できなかった。宮廷人たちもそうだ。マリウスが出て行ってしまって、そのことにオクタヴィアは気が付いたのだった。
幸い、父の皇帝はマリウスの歌を初めて聞いて、そのことを理解したので、オクタヴィアは肩の荷を下ろすことができたのだ。
マリウスたちがサイロンに戻って来たときに、その歌を披露させるべきだったが、その機会がなかったのはオクタヴィアのミスと言うべきか。
本来、二人の発端はそうでも、それなりの事情によって戻ったのであって、夫はそれを理解し、協力しなくてはいけない。だがマリウスはそれができない人であった。だからこそ、王族の身分を捨てたのだ。
今回はその再確認でしたね。
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黄金の輝き
わたしはとても貴重な思い出がある。いまとなっては、それが本当にあったのか定かでない。
あるクラシック歌手が、唱歌を歌っていた。そのとき、わたしのまわりにある諸々が黄金に輝いたのだ。その輝きは、歌声が止むと消えてしまった。そのとき、わたしは涙を流して感動した。
それからクラシック音楽に興味を持ったが、あの感動は二度と味わえなかった。
ある時、クラシック歌手が演歌を歌ったことがある。日頃「演歌は音楽にとって有害だ。法律で禁止すべきだ」と言っているクラシック界の人の歌は、と期待した。それがあまりの酷さに愕然としてしまった。
演歌歌手より見事に歌って、その上で、「クラシックはもっと素晴らしい、皆さん聞いて下さい」と言うのを期待していたのだ。
だが日本語の発音さえまともにできない歌手に演歌は無理だった。わたしの同僚でももっとうまい。
それ以来、クラシック音楽への興味は全く消えてしまった。
吟遊詩人マリウスは、まわりを黄金に輝かせることのできる歌手なのだ。そしてわたしは、マリウスの歌うシーンがあるたびに、涙を流して感動したことを思い出す。
皇女オクタヴィアは、自分と娘マリニアを置いて出て行ってしまう夫マリウスに、失望したり弁護したりするが、やはり聡明な女であった。マリウスの生き方を納得することができたのだ。それもすべて、あの歌の魅力を知っているからではないか。
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今回は「マリニアちゃん」「勝ち組」という言葉があって、違和感を覚えた人がいる。
もともとこの物語は擬古文の世界であった。
「…マリウスを伴っては、はかが行かぬ」と。
それがいつの間にか普通の文体になっていった。この文体では皇族といえど、私生活では「マリニアちゃん」はあり得ると思う。
だが、勝ち組はどうか。
「勝ち組」の意味をどう取るか。わたしは勝ち組の意味を、
負けたのに、目をつぶってその現実を見ず「俺は見なかった、そんなことはない。勝ったんだ。絶対に勝った」と叫んでいる人たちの意味ととっているのだが。
いまだ第二次大戦は「本当は日本が勝った」と言っている人がいるのだ。
逆に「負け組」は、負けた事実をしっかり見て再出発をする、「真実を見ることのできる人」の意味にとっている。
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第83巻当時の紹介文
この個人では世界最長の物語、全100巻を目指して、ようやく第83巻まで出た。約22年かかっている。
外伝も16巻出ている。このまま100巻で完結するかどうかで、ファンはかまびすしい。
一説に、「とても終わりそうもない。100巻は経過点で、最終的には全200巻を目指している」という。
物語の特徴は、正義とは悪とはなにかが、絶えず問われることだ。昨日まで正義だったものが、今日は悪になる。
人が変わる場合もあるが、人は変わらず世間が変わることもある。国により、時代により、立場により、入れ替わる正邪の概念をしめし、決して一方的に決めつけない。
アメリカ育ちの過去のSFは、宇宙時代でも腰に拳銃をぶら下げていて、銃のうまい方が正義という、現在のアメリカの正邪の概念をそのまま引き継いでいることが多い。
しかし、アポロ計画の宇宙飛行士が、拳銃は持たなかったように、航空機では武器の持ち込みが禁止されているように、おそらく武器を持ち込むことはなかろう。
日本のSFはここから出発したため、わたしには日本のSFの方が優れているように思えた。また、グインサーガはこの象徴のように思えた。
実際には外国のSFも同じように進化しているはずだ。
現在、東方キタイの国のヤンダルゾックという竜王が中原への侵略を計画している。これをいかに防ぐかが、登場人物たちの主な関心事である。
このキタイの、旧都がホータン、新都がシーアンという。漢字で書けば「和田」「西安」となるのだろうか。思わず笑ってしまう。