2018年11月19日

亀戸天神

 亀戸天神に初めて行った。藤の花で有名だが、天神社なので梅もあるはず。
 わたしが行ったのは神無月、当然だが藤の花も梅の花もない。一ヶ月以上たって写真を整理したとき、わたしの誕生日だったことに気づいた。
 菊まつりもあるので、今ならギリギリ間に合うか。行く気が沸かないが。
 天神社といえば九州太宰府天満宮だが、亀戸天神は東宰府天満宮といわれていた。現在は亀戸天神社が正式な名称である。

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 亀戸駅から、亀戸梅屋敷まで行き、左に折れて亀戸天神通りを亀戸天神入り口まで、七百メートルくらいか。そこからすぐ前にこの鳥居がある。

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 この朱塗りの太鼓橋は江戸時代から変わらず。浮世絵にもある。
 こちらは男橋。社殿の手前にもあって、そちらは女橋。

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 橋の向こうは池に囲まれた島になっていて、藤棚多い。

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 社殿は思っていたより大きかった。

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 境内には中江兆民の碑もある。
 中江兆民を調べてみたが、亀戸天神との縁は不明。

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 紅梅殿、天神様なので、梅は必須だ。

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 入り口近くの灯籠、中途半端な位置だ。棚のせいかな。
 ここからはスカイツリーも遠くない。
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2018年11月13日

金庸さん死去

 10月30日に、金庸老師が亡くなった。享年九十五、九十四歳であった。
 もう二週間もたってから知った。このことから判るように、わたしは生のニュースに疎い。
 二十年ほど前に金庸(本名:査良縺jの武侠小説を読み、のめり込んだ。その後も繰り返し読んでいる。現在、書剣恩仇録を読んでいるが、5度目である。金庸ドラマのDVDも集めた。
 杭州に近い海寧が生地であり、香港で活躍した。
 私たちは岡崎由美先生と一緒に、海寧の生家に行ったこともある。
 執筆の期間は意外に短い。1955年に『書剣恩仇録』を発表し、1972年に『鹿鼎記』を書いて断筆した。いろいろな人物や恋愛を書き切って、重複させないという。
 他の武侠作家は、架空の王朝で架空の話を書く。金庸は史実を巧みに取り入れて、歴史小説のように書くのが特徴である。
 長編12、中編1、短編2。全部で15編の小説を書いた。
 日本では岡崎由美先生を中心に翻訳し、全55冊になる。このブログでも書庫で紹介している。

 残り1冊分の翻訳原稿があるが、発表される機会はなさそうである。それは鹿鼎記の前章であり、金庸先生の祖先が「文字の獄」にあって、壊滅的な打撃を受けた話である。
 清の雍正帝の時代、科挙の試験に「詩経」から「維民所止」が出された。これが雍正帝を呪っているという。「雍正」という二文字の頭である「亠」と「一」切っているというのだが。
 小説の執筆以外にも、いろいろと活躍した。
 ご冥福を祈る。
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2018年10月11日

鴫山城趾と旧南会津郡役所

鴫山城趾と旧南会津郡役所

 会津線経由で東京へ帰ってくる。線はどうなっているか知らないが、電車は会津田島で乗り換え、特急で北千住まで。ここでも前に書いたような理由で、運賃計算は簡単ではない。

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 この電車は、会津田島と会津若松の間。

 さて、田島では、前回とは違った方向に歩いた。駅から右手の方である。前回は左手の方へ歩いた。
 ここで鴫山城趾の文字が目に入る。前回は気がつかなかった。iPadの地図でも出てくるのだが山の中。

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 観光地図によくあることだが、南北が逆転している。そのため位置関係に錯覚を起こす。このときも、地図の駅から北側ばかり注意していたが、実は南側である。南北は割合理解しやすいが、東西は何度も錯覚する。
 ついでに言うと、距離も錯覚しやすい。AB間を20分で歩いた。ではBからCまで30分で歩けそうだ。と思っていると、それは2時間かかった。なんてことが若いときはよくあったのだ。

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 愛宕神社の鳥居、神社は山頂にある。
 ここでも熊の出没注意。
 奥を見るとまさに城趾、言われないと気づかないほど。

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 大門の石垣、真新しい。

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 御平庭

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 上千畳はこんなところ。こうして説明がないと、ただの空き地。公園として整備はしている。

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 西側ルート、城趾の一部である。

 鴫山城は南北朝時代にはあったらしい。
 1598年に上杉景勝の会津移封に伴い、上杉家執政直江兼続の実弟・大国実頼が二万一千石で城代となった。
 その後、徳川三代将軍家光の時、1627年に一国一城令により廃城となった。
 参考http://www.aizu-concierge.com/map/spot/10653/ 南会津鴫敷山城趾
 こんな案内図があったら、もう少し歩いてみたかった。

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 旧南会津郡役所。福島県指定重要文化財である。
 ここに向かったとき、左の建物から出てきた女性が挨拶をする。それだけだが、ほっとする。
 ここから見ただけで、和洋折衷の様式だと判る。
 受付の方が、館の説明をしてくれた。館はロの字の形で、中庭があり、手前の部分だけが二階建てである。
 入り口と二階ベランダは円柱であり、ステンドグラスも使われている。明治十八年のころでは最新様式であったであろう。

 見終えて駅の方に向かうと、途中に目立たないが料理屋の表示がある。
 説明には、正確ではないが、次のような意味の文がある。
   ゆっくり作りますので、お急ぎの方は向きません。
   中に犬がいますので、苦手な方は、教えて下さい。

 ガラスの障子戸はかなり空けにくい。壊れているのかと錯覚するくらい。
 そこは民家の入り口のようであった。靴を脱いでスリッパを履いてあがる。ご夫婦で、趣味でやっているような感じである。他にも客が3人いた。
 日本的料理だと思って入ったのだが、イタリア料理であった。わたしはイタリア料理は暗いので、お勧めの料理を訊く。
 喫茶店で休むような感じで、料理を待った。
 昔は旅館を営んでいた。その当時の台所を利用して、イタリア料理店を始めたという。
 パスタを中心とした料理なので、高価なものではない。
 おとなしい犬が寄ってきて、足下にしゃがみこむ。触っても動かない。ぬいぐるみを置いたようだ。いつの間にかいなくなっていた。
 次に行く機会があったら、駅の北側(裏側)を歩いてみよう。
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2018年10月01日

大川ダム

 東京から会津若松までは、新幹線で郡山まで行き、乗り換えて会津若松に行くのが早い。
 わたしは前回も今回も、浅草発の東武伊勢崎線で行った。
 ふしぎなことに通した切符はない。わたしが買ったのは、北千住から西若松まで、東武伊勢崎線から東武日光線・東武鬼怒川線を通り、会津鬼怒川線・会津鉄道線の終点まで。そこが西若松である。電車は会津田島で乗り換えて、会津若松まで直通である。
 会津若松駅で、西若松から二駅の会津若松までの乗り越しを精算する。とにかく会津鉄道線の運賃は電子化されていないのだ。

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 旧白川街道を歩いた次の日、大川ダムに行った。ダム湖は若郷湖という。

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 会津鉄道線はこんなかわいい電車が通る。
 PASMOで若松駅から乗った。会津鉄道線に入ると車掌が来る。
「どこまで行きますか」
 iPadで「芦ノ牧温泉南」を出して「ここまで行きます」
「えっ、何もありませんよ」
 駅があるのだから、道路はあるだろう。もちろんiPadで確認済み。
「ここから、大川ダムまで歩こうと思っていますが」
 距離は1.5キロメートルほど。
 そこで、西若松から芦ノ牧温泉南までの切符を買い、「会津若松から西若松までは、帰ったとき精算して下さい」ということになるのだ。

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 無人駅である。降りたのはわたしひとり、乗った人はいない。

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 駅前は小さな集落であるが、それぞれの家はかなり豊かに思える。そして新しい。
 もとの集落はダム湖の底になり、ここに新しい集落を作った。狭い農地なので、農家ばかりではないだろう。

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 駅から百メートルほど歩くと、鉄道を跨ぎ、地図の道に出る。
 時々ダム湖が見える道をダムに向かう。

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 熊に注意の標識をみて、自動車道を歩いていたら、大きな(小さな?)木が電線に引っかかっている。先の嵐で落ちてきたのか。

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 ダムが近づいたら、近道らしき道が見えた。歩いてみたら大川ダム公園に降りることができた。

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 この曲線は流れてきた樹木などを止めるためのもの。専門の業者が処理をする。

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 大川ダム管理支所であるが、大川ダムの説明案内の展示室もある。
 
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 ダムの上を歩こうととしたが交通止めであった。スズメバチが巣を作っているという。

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 水力発電にも使われているが、あまり高くはない。

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 ダムから流れ出た水は、ここで直角に方向を変えて会津盆地に向かう。

 大川ダム公園の中を通り大川ダム公園駅に行く。公園内では作業をしている人の他は誰にも会わなかった。
 途中で道は分岐する。iPad地図では、どちらが駅への道か判らない。

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 この太陽光発電の記憶があったので、分かれ道では右の山側の道を選択した。駅からのこの写真では、左端に見える道である。

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 小さな駅舎があるが、ここも無人駅である。この左側つまり山側にも太陽光発電の設備が広がっている。あたりには人家はない。ここでも利用者はわたしひとりであった。
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2018年09月22日

旧白河街道

旧白河街道

 白虎隊は滝沢本陣から出陣し、白河街道を通って、猪苗代湖に近い戦地に向かった。今では新しい道がある。
 この道は一応地図には載っているので、歩いてみようと思う。
 飯盛山下で昼食を摂り、訊いてみた。
「この旧道は歩けますか」
「石畳の道はありますけど、熊が出没するので、今では通る人はいませんよ」
「歩いてみたいのですが、バスは通っていますか。帰れますか」
 親切にもバスの時刻表を調べてくれた。
「全部歩くと、帰りが大変ですが、途中の金堀までならバスがありますよ。2時間くらい」
 旧滝沢本陣から緩やかに登り始める。

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 この地図にはないが、滝沢峠を過ぎてまもなく金堀であり、山を巻いて滝沢本陣に帰るバスの通る道がある。

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 ここから左の旧道に入る。

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 広い歩きやすい道である。

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 出会い頭に熊に遭遇しなければよいが……、遠くに見えたなら熊の方が隠れると聞く。だから熊に対する恐怖心はない。

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 舟石
 神が天下ったとき乗った舟が石になったとか、説明板にあった。さらに唄も。会津盆唄らしいが聞いたことがない。検索でも出てこない。

〽 ハァー恋(鯉)の滝沢 舟(鮒)石超えて 親は諸白 子は清水

 意味が判りませんが。諸白とは上等の酒です。
 金堀からさらに猪苗代湖の方に行くと、強清水(こわしみず)といわれるところがある(行政上の地名ではない)。そこには清水が湧き出ている。
 むかし樵の親子がいて、実直な父親が湧き水を飲むと諸白であり、ぐうたら息子が飲むとただの清水だったという伝説がある。


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 こんな休憩所もある。それなりに人が整備している道のようだ。芭蕉の句碑もあるが、芭蕉はここを通っていない。
 ここには明治の初めころまで茶屋があった。

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 まもなく最高点を超える。急に道が草深くなった。

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 振り返る。この道を歩いてきた。この先には「私有地」の文字が見えるが、全く利用されていない。通る人も少なそう。交通止めの表示も倒れたまま、長いときがたっているようだ。

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 戦死十八人墓
 慶応四年八月二十三日、つまり新政府軍がここを通って会津盆地に入った日である。この日の戦いで、この近くで死んだ会津兵の墓。

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 金堀の集落が見えてきた。ここまで一時間半。

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 バス停留所。金堀は終点で、若松駅に引き帰す。
 この日は水曜日、かろうじて、14:00のバスがある。
 まだ二十分の余裕があった。もし山道で二時間以上かかっていたら、次のバスまで二時間以上待つことになる。それなら歩いて帰ることになるか。

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 目の前には田畑が広がる。稔りの秋を控えている。

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 山側は蕎麦畑で花が咲いていた。
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2018年09月15日

会津戦争の鶴ヶ城

会津戦争の鶴ヶ城

 昨年の春に行った会津若松に、今年の九月も行ってきた。団体で東山温泉に二泊し、その後ひとりで駅前のホテルに三泊した。

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 ひとりになってから訪ねた御薬園のガイドから、会津戦争の話を聞くことができた。
 会津武家屋敷で書いた疑問の答えである。
 新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
 西郷の家族の自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。

 答えは「入っていた」のである。

 小田原城は町全体を囲む堀をもって戦ったため、豊臣秀吉軍も落とすことができなかった。のちに大阪城も外堀を構え、秀吉は「この掘がある限り大阪城は落ちない」と、豪語したという。江戸城も鶴ヶ城も真似て外堀を構えた。
 鶴ヶ城の外堀は、今では埋め立てられてしまったが、会津戦争当時はあったのだ。
 その外堀が役に立たず、その日のうちに無抵抗で破られてしまった。その理由である。

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 当時会津軍は各地に散っていた。8月21日の母成峠の戦いで敗れ、最後に残された少年の予備軍である白虎隊まで投入したが、それも一撃で敗れ、23日には新政府軍は城下に突入した。
 白虎隊とは、数え16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。現代なら中学生だ。
 外堀で戦うにも、もはや兵はいない。その日のうちに外堀の内側まで入られたのである。
 城の中に残っていたのは、女性・老人・怪我などで戦えない男・城主守護役の白虎隊員や白虎隊にも入れないこどもだけであった。
 本来ならここで落城である。しかし、落ちずに一ヶ月後に降伏することになる。
 鶴ヶ城が落ちなかったのは、攻める新政府軍の事情もあったにしても、この人たちで一ヶ月も保ったのだから奇跡的である。

 会津城下の庶民は、疲労と食料不足で疲弊していた。会津藩は将軍家の軍として平時から強力な軍を保持していた。そのため酷税であったので、戦になっても庶民の支持はなかった。庶民は新政府軍の侵入を喜んだともいう。会津藩が斗南に移るときも、見送る庶民はひとりもいなかった。

 この会津藩の武士をどう評価したらいいのか。
 建前と本音が違う時代に、建前を愚直に貫いた精神は尊敬に値する。
 朝敵といわれながら、実は天皇が信頼するたった一人の武士が、会津藩主松平容保であった。勤王であるにもかかわらず、将軍にも裏切られて、佐幕派の象徴になった。その精神は下級武士にまで及んでいた。その精神は明治時代を支える柱の一本であったといえよう。
 ただ、そのために犠牲にされた庶民には、違った評価があると思う。
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2018年07月15日

山本邸

山本邸

 柴又帝釈天の後方、江戸川の近くに、旧山本邸がある。
 大正末期に、故山本栄之助氏の住居として建てられた。増改築している。
 葛飾区が昭和63年に買い取り、平成3年4月から一般公開された。
 和洋折衷の建築というが、基本的には和風である。現在は葛飾区の登録有形文化財に指定されている。

   案内図 山本邸サイト
 

 参考図  P6039851.JPG

   
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 入口であるが、本来は裏口である。案内図では右下。

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 左が茶室、右が本邸
 ここを通って右に行けば旧玄関から長屋門に至る。案内図の長屋門は位置が違うので注意。
 わたしは先に本邸を見学した。見学順とは逆になるが長屋門から紹介。

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 長屋門、ここが正門であった。入ると正面が玄関である。

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 旧玄関。閉まっているが、なかには人力車が置いてある。

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 旧玄関に向かって左側は日本庭園である。この門は日本庭園の門。

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 鳳凰の間(応接室)の外側にはこの庭が広がる。

 邸内に入る。

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 玄関の間。閉じられている旧玄関から入ると、正面にこの花菖蒲の絵が目に入ることになる。

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 鳳凰の間。山本亭唯一の洋間であり、応接室である。

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 ここが玄関前の日本庭園の入り口。
 以下、左から順にみていく。

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 受付の隣の部屋、四方を廊下に囲まれている。
 
 この日は琴の演奏があった。抹茶をいただきながら聞くことができた。いろいろと催し物が計画されている。
 なお、茶室は借りることかできる。
posted by たくせん(謫仙) at 13:28| Comment(2) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

柴又帝釈天

柴又帝釈天
久しぶりに柴又の帝釈天にお参りした。
経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という。
江戸時代初期の1629年創建。
日蓮宗の寺である。司馬遼太郎は「法華経とは愚にもつかぬ教典であるが、……」 と言っていた。わたしと同じ考えだ。ただし、信仰と教典は別物である。わたしは法華経の信者に対して、尊敬も侮蔑もしない。宗教活動は他の宗派を攻撃しない限り尊重する。
  参考 司馬遼太郎と法華経
 わたしは、我が家の先祖代々の寺の、宗派の経典を読んだことは、一度もないのだ。それなのに法華経は読んだ。
 だから、信者としてのお参りではなく、観光である。

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 柴又駅は、小さな駅である。

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 駅舎にはツバメの巣がある。注意書きもあった。

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 なんと言っても柴又は「男はつらいよ」の寅さんである。
 毎回、騒動を起こしては、柴又に居られなくなって出ていく寅さん。このシーンは何度見たか。

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 寅さんをひとりで見送る、妹のさくら。
 本当の主人公はさくらではないか。団子屋の店員として、妹として、主婦として、母親として、一家をなんとか結びつけていた。上手くいかなくても絶望せずに、毎回こうして寅さんを見送っていた。

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 帝釈天の参道は、いつも人が溢れている。

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 私 生まれも育ちも
 葛飾 柴又です
 帝釈天で産湯をつかい
 姓は車 名は寅次郎
 人呼んで
 フーテンの寅と発します
   山田洋次

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 二天門
 参道途中の写真はなく、門前に着いてしまった。
 あとの二天は帝釈堂の中。四天王は須弥山の四方を守る。

案内図
 適当な案内図がないので、帝釈天の案内図を紹介。
 左上の駐車場が、元ルンビニー幼稚園の跡。ルンビニー幼稚園は近くに移った。

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 瑞龍松と帝釈堂。帝釈堂には内殿が続く。
 二方に延びた枝の長いこと。

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 大鐘楼。映画ではなんども出てきた。ここに寺男の源さんがいた記憶がある。

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 祖師堂(本堂)。元帝釈堂だったが、江戸時代に移築した。

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 釈迦堂

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 塔供養の図 金子光晴作
 帝釈堂内殿の外側には大きな10枚の彫刻が並んでいる。そのうちの2枚を紹介。小さい彫刻は数え切れない。

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 三車火宅の図 木嶋江運作
 10枚は大正から昭和初期にかけて彫られた。このため、柴又帝釈天は彫刻の寺としても知られている。
 案内図の喜見城は内殿も含めた帝釈堂の別称か。
 喜見城とは、須弥山の頂上中央にある帝釈天の住まいである。善見城とも。

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 邃渓園(すいけいえん)
 永井楽山 作

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 なかなかに趣のある庭園である。屋根付きの回廊が一周している。
 
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 回廊を通って、反対側に来ると池がある。

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 回廊を一周した。

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 帝釈天附属 ルンビニー幼稚園
 初めて帝釈天に来たときは、回廊の後ろにあって、回廊から見えた。いまは少し離れた場所に引っ越していた。
 なお、ルンビニーとはゴータマ・シッダッタ(釈迦)の生誕の園地である。

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 幼稚園の生け垣、なんだろう。柏(コノテガシワ)と思ったが、断言できない。
posted by たくせん(謫仙) at 10:14| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月06日

小岩菖蒲園

小岩菖蒲園

 小岩は、恋は小岩と下手な洒落で有名だったらしいが、わたしには縁のない世界。
ここは小岩でも江戸川河川敷。最寄り駅は「江戸川」であって、小岩ではない。
江戸川駅の隣といえるほどすぐ近くである。

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 左の方に紫陽花もあるが、菖蒲一直線。

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 菖蒲園は思っていたより広かった。花の色は全体的に白っぽい感じがした。

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「アヤメ」「花菖蒲」「杜若」「イチハツ」の区別はわたしには難しいが、この黄色い槍先のような模様が花菖蒲の特徴である。

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 小町娘
 もちろん園芸種である。いちいち園芸種の名は付けない。

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 野花菖蒲(原種)
 花菖蒲は江戸時代に野花菖蒲から園芸種に改良された。それが「江戸ハナショウブ」だが、その改良系統が「肥後ハナショウブ」「伊勢ハナショウブ」である。
 上の小町娘は江戸ハナショウブである。
 ご存じのごとく、花菖蒲はアヤメと同種で、菖蒲とは別種であるが、通称は区別しないことが多い。ここでも花菖蒲園であるが、名は菖蒲園である。

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 静かな水面があると、花菖蒲らしい。

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 おとなしい色合いだが、見飽きない美しさがある。

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 花菖蒲を見るのは何年ぶりか。
 久しぶりにカメラを持ち出した。わたしは絞りは開けて、シャッタースピードは速くする傾向がある。そのような写真はiPadでは難しい。
posted by たくせん(謫仙) at 09:17| Comment(4) | 探花・探鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

清澄庭園

 清澄庭園(きよすみていえん)は、池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園であり、東京都指定名勝である。
 三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が1880年(明治13年)に竣工した。1891年に岩崎弥之助が回遊式築山林泉庭園に改造した。
 関東大震災で大きな被害をうけ、東半分を公園として東京都に寄付。1932年(昭和7年)に清澄庭園として開園した。
 西半分は東京都が1973年に購入し、清澄公園とした。
 もとは紀伊國屋文左衛門の屋敷があったところといわれている。
 最寄り駅は清澄白河駅。

 中島を持つ広い池が中心にあり、まわりは岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。庭石ではあるが、石の庭園ともいえよう。石の名も付けてある。

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 入り口から入ると、この石が目立つ。名札に「伊豆磯石」とある。
 覚えていないのでカンニングするが、伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石。その他。よくぞこれだけ集めたものだ。

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 前方は、この小さな高みが視界を遮る。

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 これは大正記念館、休憩所である。軽食もある。

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 飛び石を歩いて磯に出る。

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 かなり広い池だ。こうして池の中を石伝いに歩く事ができるのが、この庭園の特徴である。

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 池の反対側には高みがある。富士山だ。芝生の山の中腹に横線のような茂みがある。富士山の雲を表現しているとか。

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 左の方へ時計回りに歩くと、この土橋がある。歩きたくなる橋だ。島へ渡る。

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 さらに先に進むと、入り口の反対側に来た。富士の裾野だ。

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 池の中に突き出るように涼亭がある。事前に申し込めば利用できる。

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 紫蘭(シラン)の時期であった。

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 この石伝いに歩いた。

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 入り口方向に向かう。

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 島には数羽の鷺がいるが、物陰になってよく見えなかった。五位鷺らしき影も見たが、特定できない。

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 これは別ルート、通らなかった。

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 園内には、青鷺が住み着いていて、遊歩道を歩き、人の目の前まで来る。入園者が鷺に道を譲っている。

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 この青鷺も慣れているというより、人は襲わないことを知っているからだろう。餌は池の魚を自分で捕まえている。近くには隅田川があり、海もある。
 昔の日本には、白と黒の外、赤と青しか色の名前がなかった。だから、この灰色は青である。
posted by たくせん(謫仙) at 06:56| Comment(0) | 探花・探鳥 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする