2021年01月10日

武媚娘傳奇の碁

武媚娘伝奇の碁
2019.8.01記
2021.1.10追記

 テレビドラマ「武媚娘傳奇」を視た。
 武媚娘(ブビジョウ)とは武則天あるいは則天武后といわれる人物である。諱を照、幼名は媚娘と名付けられた。
 生年624年−没年705年の物語。637年13歳の頃に入宮。
 今回の話は武媚娘の二十歳前の頃である。(第14回)
 時代は唐の太宗李世民(在位626−649)の時代。日本では飛鳥時代であった。平城京遷都が行われたのが710年であり、その前である。
 後宮では、様々な陰謀が渦巻いており、武媚娘もその攻撃の対象にされていたが、それはともかく、表では、外国の使節を集めた宴が開かれていた。
その中に東瀛国手・物部天守もいた。

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 東瀛とは日本を指す雅称。国手は日本でいう名人で、現在も使われている。

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 武媚娘は「東瀛第一は吉備真央」と指摘する。
 物部天守も吉備真央も人名がそれらしい。
 物部天守は「負けたら腹を切る」と言って碁を打つ。
 ここで問題が発生する。切腹である。切腹は平安時代の武士階級で始まったといわれるが、平安時代は名誉ではなかった。それなのに遙か昔の飛鳥時代の文官がするはずがない。

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 大盤で対局することになる。太宗の妃が相手をするが、毒により体調が悪くなり、途中から武媚娘が代わりに打つ。
 当時こんな盤石があったかどうかはともかく、問題点が2カ所。
1 四スミの置き石がない。当時は四スミの星に置いてから始めた。
2 碁笥の位置が逆である。二人とも右利き。このような埋め込み式の碁笥は、逆にしそうなもの。

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 まるでプラスチック製みたいだ。なんで作ったのか。この線はテープかな。
 この手で終局。どう見ても終局とは思えない。
 この後を省略したのか。

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 これは天龍八部城(大理)にあった物。実用とは言いがたいが、理にかなっている。

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 倒れた妃の看病をしている武媚娘に、太宗は「故意に“和局”にしたな」と叱る。

 和局とはジゴのことだが、ジゴとは異なる話し合いによる「打ち掛け」の終局も“和局”と言うのだろうか。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
21.1.10追記

なんと20路盤ではないか。正しくは19路だ。いくらいい加減でも、それくらい正確にして欲しい。
縁から4線目には星があり、それは正確。いま気がついた。
posted by たくせん(謫仙) at 13:38| Comment(2) | 武侠の碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月27日

千両かざり

千両かざり 女細工師お凜  (2009恋細工 改題)

西條奈加   新潮文庫   2020.10

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 江戸の時代、女性では職人になりにくく、才があっても難しい。そんな不自由な時代に、女の身で錺師(かざりし)をめざすお凜が、若くして錺職人の椋屋の責任者になる。
 四代目を継いだ義理の兄が、若くしてこの世を去り、遺言により三年後に五代目を決めるという責任を背負う。
 最初にしたことは、これも四代目の言いつけで、時蔵という錺細工の天才を迎えることだった。
 時蔵は自分独特の平戸という線細工の技能で、作りたいものだけを作り、周囲の職人には溶けこまない。職人ではなく、芸術家といえるかもしれない。
 天保の改革で金銀を使う細工が禁止になる。職人たちも熱がなくなってしまう。
 お凜には、お千賀という幼馴染がいた。ここから千両かざりの注文が来る。複雑な事情があるのだが、それはともかく。
 天才細工職人時蔵と、天才鑑賞者お千賀たちに囲まれて、お凜が技を習得し天才ぶりを発揮するが、最後は切ない。
時蔵とお凜という、方向性が違う二人の天才が共鳴して、千両かざりを作る様子がすばらしい。それを評価できるお千賀という三人目の天才がいる。しかも錺細工しかできない時蔵は、自分を天才だとは思っていない。

 いろいろな錺細工の蘊蓄があちこちにある。これだけでも興味を持って読んでしまう。
 天保の改革で贅沢品は禁止され、江戸の経済が疲弊してしまい、椋屋も倒産寸前になる。今のコロナウイルス下の日本経済を思わせた。
posted by たくせん(謫仙) at 15:13| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月01日

飛刀定石と羋氏飛刀

飛刀定石と羋氏飛刀
 先日、ふとしたことで知った名前、飛刀定石とは。
 検索したら、知らない人のための説明がなくて、何が何だか判らない。飛刀定石とは何だろうか。その中の「羋氏飛刀」、名前だけ気に入った。

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 この20手目が「羋氏飛刀(みしひとう)」だという。飛刀定石のひとつの型だと思うが名前のイメージが合わない。
 黒13や白14が飛刀なのかなと、勝手に想像してみた。
 わたしの知っている飛刀は、「多情剣客無情剣」の有名な話、
    小李飛刀に仕損じなし である。

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 この写真は横店の撮影所、「清明上河図」で撮ったもの。小李飛刀の的宛てである。台湾ばかりでなく、中国でも人気がある。
 さらに検索してみると、「羋氏飛刀」だけを集めたというコンテンスがある。

 図の20手目を「羋氏飛刀」と言います。「飛刀定石」(flying dagger定石)の中から「羋氏飛刀」のみを集めてみました。

 そうなると、羋氏飛刀ではない飛刀定石があると言うことになる。
 調べた結果、(羋氏飛刀- 维基百科)2018年8月1日、芈c廷と童夢成の対局で、下図が打たれた。その後この20手目が流行し、「羋氏飛刀」または「小羋飛刀」と言われた。簡称では「羋刀」とも。「小羋飛刀」なら「小李飛刀」が頭に浮かぶ。

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 それでは20手目と言っても前の図と違うではないか。本来はこちらであろうか。その前、2017年7月に李世乭が打ったのが最初という。

 先日の千寿会で、ゲスト講師の蘇耀国九段が「飛刀定石」の説明をしてくれたが、いまひとつ物足りない。ここまで書いて、わたしの疑問が明確になってきた。

  「羋氏飛刀」と「飛刀定石」の違いはなにか。

 蘇耀国先生にこういう形で問えば、説明も違っていたか。もっとも蘇耀国先生の説明がないとこの質問は出てこない。

 興味ないかもしれないが、「多情剣客無情剣」の著者古龍について。
 台湾の小説家。生年不明、戸籍では1941年、没年は1985年。ヤクザの出入りで大けがをし、輸血による肝炎で5年ほど苦しみ亡くなる。
 作品は160ほどだが、100以上は名前だけ。著作一覧を見るとほとんどが「誰々の代筆」となっている。
「多情剣客無情剣」は古龍自作である。
 翻訳者の岡崎由美先生は、「古龍の小説はまるで映画の台本のようだ。映画を見ると小説のシーンがそっくりそのまま出てくる。その点、金庸小説は映画にしにくい」と。
 誰が言ったか、「古龍小説の女性はキャバクラ嬢、金庸小説の女性は美少女」

 当ブログ 参考  多情剣客無情剣
posted by たくせん(謫仙) at 09:14| Comment(0) | 囲碁雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月19日

「昔はコミ五目」について

「昔はコミ五目」について
 囲碁  日本の名随筆1 中野孝次 編(1991年)を読んでいてある疑問が生じた。
 p152に呉清源先生の次の文があった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 昔はコミ五目と定められてをりました。近頃は大体、四、五目が行はれてをりますが、私はこの五といふ数は自然に適つてゐるのではなゐかと思ひます。
   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 わたしは今まで、昔はコミがなかったという前提でいろいろ書いていたが、間違っていたのだろうか。気になった。
 ウィキでは
 江戸時代には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。……略……連碁などでコミが採用される場合には先番5目コミ出しのケースが多かったことから、当時から先番の有利さはこの程度と見られていたことがわかる。
 これをもって「昔はコミ五目と定められてをりました。」と言えるのか。
 原文は1942.9砂子屋書房「随筆」である。(巻末に記載)これは名人戦のコミ5目の成立前である。

 コミの歴史である。
1934年 試験的に導入されたが、コミ2目半であった。
1939年 第1期本因坊戦は、互先コミ出し制で対局する日本で最初の棋戦ともなった。コミは4目半であった。
1942年 「随筆」が書かれた。
1961年 名人戦が始まり、コミ5目ジゴ白勝ち、そしてジゴ白勝ちは通常の勝ちより劣る。俗に“半星”といわれた。
1964年 ほとんどの棋戦がコミ5目半になる。(本因坊戦は1974年まで4目半)
2002年から 順次コミ6目半となった。
 韓国では2000年から7目半。中国では制度が違うが2001年から実質7目半である。米国では7目半。
 それにしても1942年の段階で、「昔はコミ五目と定められて」と言い切ったことに驚く。そう言わせた何かがあったはずである。

 当時は書き手が別にいて、呉清源先生が直接ペンを持つことはなかったという。
 書き手が言葉の解釈を間違えたのかもしれない。
posted by たくせん(謫仙) at 08:41| Comment(0) | 囲碁雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月28日

草加宿から草加松原

草加宿から草加松原

東福寺から旧日光街道を通り松並木まで。

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 おせん茶屋
 旧日光街道散策の休憩用の小公園。何もない。周りにはお茶を売っている店がある。

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 その案内。
 言い伝えによれば、草加煎餅を作ったのがおせんという女性。それが人気が出て、有名な草加煎餅になったといいう。

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 神明庵、草加宿で一軒だけ残った建物。裏の方は、現代風に改造されている。
 戸は閉まっていたが、休憩所らしい。売店もある。
 
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 旧日光街道が神明町の交差点で国道49号線にぶつかる。左右におせん公園がある。
 右にある曽良像
「奥の細道」の芭蕉の同行者。曽良の書いたものは、資料価値が高い。
 芭蕉は文学として「奥の細道」を書いているため、それなりに脚色されている。

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 旧日光街道を挟んで北側を見る。
 
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 北側のおせん公園には、おせんべいの碑

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 おせんべいの作り方。

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 芭蕉像
 松尾芭蕉は北千住で見送りの人たちと別れ、最初の宿泊地が草加宿である。
 国道49号線を神明町交差点から北へ二十メートルほどで、おせん公園を過ぎ伝右川になる。
 獨協大学脇を通って西から流れてきた伝右川は、綾瀬川まであと二十メートルほどで九十度ほど曲がって、綾瀬川と並行して南へ行く。

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 札場河岸公園望楼
 伝右川をわたると、伝右川と綾瀬川に挟まれた、小さな札場河岸公園があり、古い望楼がある。
 北は国道49号線と平行して綾瀬川が流れている。
 南へは伝右川と綾瀬川が並行して流れているが、交わらず分かれてしまう。
 
 国道49号線と綾瀬川の間は二十メートルもなく、松並木で有名な旧日光街道が通る。今は草加松原遊歩道である。

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 草加松原遊歩道(旧日光街道)をすこし歩くと大きな歩道橋がある。
 道も川筋もまっすぐだ。江戸時代に整えられたか。

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 歩道橋の上から見る。松原というより松並木だ。
 最寄り駅の獨協大学前駅は、元は松原団地駅といった。2017年に変更された。

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 国指定の名勝地「おくのほそ道の風景地」。歩きたくなる道だ。

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 まっすぐな遊歩道が約1.4キロメートル続く。地図で見ると、この間は綾瀬川の川幅も狭くなっている。

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 松は若い木が多く、江戸時代からの老木は少ない。
 昭和四十年代には、七十本程度にまで減っていたのを、昭和51年に保存会が発足して補植され、現在の景観となった。

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 名 勝
 おくのほそ道の風景地
  草加松原
     ドナルド・キーン書


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 松並木の案内板に詳しい説明がある。
posted by たくせん(謫仙) at 07:05| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月22日

東福寺(草加東福寺)

 草加には東福寺という寺がある。正式には「松寿山不動院東福寺」という。
 草加は宿場町だが、大川図書(おおかわずしょ)なる人物が、宿場町を開き、この東福寺も創建した。1606年というから、江戸幕府ができてまもなくである。
 この写真は6月14日、ようやく写真を整理して、紹介することになった。

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 山門

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 門脇の石灯籠はかなり大きい。

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本堂
 1993年(平成5)には大規模な改修が行われた。

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 鐘楼 文久二年七月再造立(1862)

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 三鈷の松 鐘楼の脇の松はなんと3葉の松。名は高野山で有名であるが、こんな近くにもあったとは。
 そういえばこの寺は真言宗。

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 五葉松は知っているが、3葉の松というのは初めて見た。

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 本堂の前、ここが墓ではない。墓地に大川図書の墓があるという案内である。

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 本堂内外陣の欄間の彫刻の説明。中は見なかった。

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 外の彫刻も優れている。

 草加八景という案内もある。
 東福寺本堂内外陣境彫刻欄間(市指定有形文化財)
 東福寺鐘楼(市指定有形文化財)
 東福寺山門(市指定有形文化財)

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 草加不動堂、「松寿山不動院東福寺」という名からすれば、こちらが寺の中心かな。
 手前の低い植え込みは、ハマナスだった。

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 関東でハマナスを見たのは初めて。八戸や函館で見たことを思い出す。

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 果実は食用になる。どんな味だろう。

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 白い花もある。

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 参道を日光街道に向かって歩くと途中に紫陽花が咲いていた。
 スマホでマクロ写真は難しい。

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 日光街道から振り返る。こちらが表参道である。
posted by たくせん(謫仙) at 08:03| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月14日

2050年世界人口大減少

ダリル・ブリッカー  ジョン・イビットソン (共著)   文藝春秋   2020.2.25
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2050年、人類史上初めて、世界人口が減少する。
いったん減少に転ずると、二度と増えることはない。


 名門調査会社イプソスのグローバルCEOらが、世界各国にてフィールドワークを敢行。統計に加えた貴重な証言をもとに警告する。

 国連の予測では今世紀末、地球の人口は110億に膨れ上がるとしているが、多くの人口統計学者が人口を多く見積もりすぎだと指摘している。
 国連の人口予測は誤っている。その原因は都市化であり、女性の教育である。そして、結論は2050年に世界人口が90億人近くなり、減少に転ずる。
 目次を見よう、この本の言わんとするところが見える。

序章 2050年、人類史上はじめて人口が減少する
1章 人類の歴史を人口で振り返る
2章 人口は爆発しない--マルサスとその後継者たちの誤り
3章 老いゆくヨーロッパ
4章 日本とアジア、少子高齢化への解決策はある
5章 出産の経済学
6章 アフリカの人口爆発は止まる
7章 ブラジル、出生率急減の謎
8章 移民を奪い合う日
9章 象(インド)は台頭し、ドラゴン(中国)は凋落する
10章 アメリカの世界一は、今も昔も移民のおかげだ
11章 少数民族が滅びる日
12章 カナダ、繁栄する“モザイク社会”の秘訣
13章 人口減少した2050年、世界はどうなっているか

 30年後には、世界中が今の日本のような少子高齢化社会を迎えることになる。
 農村などでは、こどもは労働力の一部であり、育てる負担が小さい。しかも家族や縁者からこどもを要求される。
 都市では、こどもは負債であり、生活を圧迫する。しかもこどもを要請されることはほとんどない。宗教的束縛も緩くなる。そして女性の教育が進めば、こどもを産む以外の道を見つけ、少子化となる。一度こうなったら、後戻りはできない。

 わたしは紹介していないが「未来の年表」という日本の未来予測の本がある。その国際版みたいな本である。
 著者は次のように社会の変化を考えている。
人工置換モデル
第1ステージ 出生率も死亡率も高い
第2ステージ 出生率は高く死亡率は低い
第3ステージ 出生率も死亡率も低い
第4ステージ 出生率は人口置換率に等しく、死亡率は低い
第5ステージ 出生率は人口置換率を下回り、平均寿命は延び続ける

 人口置換率とは、人口を維持する、出生率である。社会を維持するには2.0と考えるが、少年時の事故も含めて2.1が最低。
 各国各民族を調べて、急速に第5ステージにむかっているという。
 若者であふれかえるバンコクが、出生率1.5で人口崩壊途中である。第5ステージだ。
 ステージの変化の原因は、都市化と、女性の教育や社会進出である。女性の地位向上である。

 日本経済についても、三度の失われた10年で30年停滞しているが、その理由は生産人口の減少と同時に消費人口の減少にある。停滞は当然なのだ。それなのに経済成長をしようと躍起になっている。日本が混乱しないのは、高齢化が始まるまでに豊かになっていたこと。
 ブラジルのスラム街の現況は読んでいて驚くほど。それでもテレビドラマの女性像が見本となってこどもの数は減っている。
 著者はカナダ人で、カナダが移民受け入れで成功しているのを体感しているので、移民こそが人口減に対する最良の対策であると言うが、それも今のうち。まもなく移民を送り出す国はなくなるだろう。さらに日本は移民先としては魅力がないので、それも難しい。
 マルサスの「人口論」やローマクラブの「成長の限界」は、このままでは…という限定の理論だった。出生率の低下を読み間違えたことにある。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 人口減少の流れが止められないのであれば、その現実を素直に受け入れ、人類の知恵で乗り越えたい。
 わたしは、たとえば数百年後に世界人口が数億になるころには、人々の意識が変わってくると思うのだが甘いか。日本でいえば、国産の食料で全国民を養える程度の人数になれば、落ち着くと思う。そうなって日本国民の意識が変わることを願う。
 それまで、国が保つだろうか。
 日本は豊かというのは錯覚ではないか。多くのこどもが貧しさに苦しんでいるように思える。世界最大の借金国家でもある。
 たとえば景気がよくなると、株価は上がる。ところが安倍首相は、膨大な金をつぎ込んで、株価だけをつり上げて、景気がよくなったように見せかけている。そのための借金による、予想される未来の生活苦からも出生率の低下を招いているだろう。
 気候問題や公害問題や貧富問題も加わっている。これらが解決しないと、人口問題の解決は難しいか。
 概ね、わたしなどが普段思っている考えていることを、具体例を示して書いているようだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:15| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月03日

いただきたい

2014.1.12記
2020.8.3 追記

 先日ドジを踏んでしまった。気がついて、すぐにお詫びのメールを送った。

 あるEメールが届いた。
 始めはAさんからBさんへメールが行き、Bさんが「こういうメールがありました…」などと加えて、わたしなど多くの人に転送したのである。わたしは一目見てAさんからのメールと錯覚をしてしまったのだ。(Bさんは代理と思った)
 その内容は、問題のところだけを言うと、

「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待させていただきたいと思います。」

 AさんとBさんは◯◯◯であるが、その他の人たちは◯◯◯ではない。もちろんわたしも◯◯◯ではない。

 わたしは朝の忙しい時であり、Aさんからと錯覚して解釈してしまったのであるが、仕事から帰って、もう一度全体を読み直して、大変な間違いに気がついたのである。なによりBさんが追加した文を正しく読んでいなかったし、さらに悪いことに、錯覚してしまったので付随する文を詳しく読んではいなかったのだ。反省。

 錯覚の中心は「かぎりご招待させて」と「いただきたいと思います」がどうもかみあわないこと。
 わたしがまず間違えた(錯覚した)内容は次の如し。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待いたします。その他の方はお断りします。」

 夕刻にはこう思った。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待役とさせていただきたいと思います。」(招待する客の人選を任せます)

 正しくは
「…◯◯◯の方々にかぎり無料で(あるいは優遇で)ご招待いたします。その他の人たちは有料です。」
 ではないか。
 結局、「させて」の解釈と、「いただきたい」を、Aさんからわたしたちへ(Bさんではなく)の言葉と錯覚したのが問題だった。
 意味が判ったので、わたしも観賞に行くことにした。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 この誤解の中心は「いただく」の解釈である。
 XからYへ100万円贈与するとしよう。
 Xから見れば「与える」。
 Yから見れば「いただく」である。
 ここで、Xは何らかの事情によってYに与えねばならない義務があるとき、このときのYの催促が、「いただきたい」ということばである。別な言葉で言えば、「早く100万円よこせ」
「いただきたい」は、「よこせ」の別な言い方なのだ。強制の意味を持つ。つまり、いただくのは何か。この観点から考えれば、見えてくる。
「〜かぎりご招待させていただきたい」となれば、Aは何をいただきたいのか。
 無料ご招待は「◯◯◯の方々にかぎります」と、かぎることが自分の利益の人の言葉だ。
 この いただくもの が見えないと、珍妙な言葉になる。

 時代劇に(今でも)よくあるパターン。
「何々をいただきたい」
「駄目です」
「何だと、オレがおとなしく言っているうちによこせ。死にてえのか」
 会社勤めをしていれば、何度も経験しているパターンのはず。

 相手の負担を軽くするために言うこともある。それも、上に書いたような意味が判っていないと理解出来ない。
 たとえば若旦那が、父親のような番頭や年上の手代にいやな仕事を押しつけなければならないとき、ちょっと言い出しにくい。そのようなとき、誰かが「わたしがやらさせていただきます」といえば、言葉ではいただいたようで、実は苦労を引き受けて、若旦那の気持ちを軽くする。つまり忖度である。それが若旦那に判らないと、忖度のしがいがない。
 たんなる丁寧語ではない。


参考  雲外の峰−いただきます
posted by たくせん(謫仙) at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月14日

大江戸妖美伝

2010.12.6記
2020.7.14加筆

石川英輔   講談社   09.3

 大江戸神仙伝シリーズの七作目になる。単行本は06年2月に出ている。4年も知らなかったことになる。
        ooedoyoubiden.jpg
 速見洋介はいつもの如く現代から文政年間の江戸時代にタイムスリップ。粋な芸者いな吉との、春から初夏にかけての大江戸見聞録だ。
 今回の特徴は江戸の貧しい豊かさだ。矛盾するようだが、つまり江戸時代は、とくに文政年間は江戸時代の最も豊かな時代であった。それでも現代から見れば貧しい。しかし、誰もそれを苦にしていない。当然で、みんな等しく貧しいからだ。
 特に武士の貧しさは特筆される。決まった収入が米しかないのだから、増やしようがなく、内職で生計を立てていた。
 徳川270年間、反乱らしい反乱は初期の由井正雪の乱と天草の乱くらいなもの。文政年間になれば、実戦の経験のある武士は一人もいない。江戸の警察官で司政官にあたる与力同心も二十数名。信じられないくらい小さい政府(江戸奉行所)。御家人の貧しさも相当なもの。外泊もできない生活の息苦しさで、庶民は誰も支配者階級に憧れはしない。故に270年も政府が保てたのだ。
 当時の諸外国では反乱や革命がよくあった。支配者階級の豊かさは目が眩むほどで、比べて庶民の貧しさは信じられないほど。それでは反乱や革命が起こるのは当然だ。江戸では誰も、貧しい武士階級に憧れないので、反乱が起きようがない。一部には富んでいる武士もいたにしても。
 特に江戸の生活はリサイクルが完全で、いつまでも続けられる生活であった。
 現在、一億を超える人数なのに、まだ政府は人数が増え続けることを前提に政治をしている。増え続ければいつかは崩壊することが判りきっているのに。むしろ人口減少の兆しのある今は、人口が増えないことを当然として政策を立てるべきだろう。
 わたしなど今の生活に慣れて、いまさら江戸時代の生活に戻ることはできないが、初めからそのような生活であったら、それなりに幸せであったのではないか。世界中が江戸のような生活をしていたら、多くの動乱は発生しなかったであろう。
 歴史書に書かれたことは、その時代のとんでもない出来事ばかり。「人々が何事もなく平和に幸せに暮らした」、などということはほとんど書かれない。それゆえ、江戸時代を誤解する人も多いだろう。
 ただし、今から考えれば、異常で不幸なことも、常在すれば、それは滅多に記録されないだろう。だから幸せであったとは言い切れない。主人公は、生活に心配のない当時のエリートなので、それが見えていないと思える。
 そんなことを考えさせる江戸の生活事情を、小説の形で解説した江戸の案内書だ。
 そして、大事なことを見落としはならない。決して天国ではなかったことだ。
 過密地に行けば過密を褒め、過疎地に行けば過疎を褒めるような書き方が、引っかかる。
 地方から続々と若者を引き寄せながら、多くは若くして死んでいる。平均余命も短かった。健康に活きていた訳ではない。
 参照 本当はブラックな江戸時代
 そのようなマイナス面も承知で読んで欲しい。
 杉浦日向子さんは、 うつくしく、やさしく、おろかなり−私の惚れた「江戸」 と表現している。そう、愚かなところも見つめて、その上でよいところを見たい。
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2020年07月04日

ホームページの改造

ホームページの大改造をした。
 数年前から考えていたのだが、今では仕事でもホームページ作成をしたりして、それなりに深く知る必要が生じていたのだ。
 従来はHPBで作っていたが、時代に沿わなくなっていた。
 そこで、買い求めたのが、
   HTML&CSSのきほん 1980円
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 これで4日間、HTMLのお勉強。かなり難しいが、いままでのHPBでもHTML文は見ていたし、ブログを始めたときは、見本を選ぶと、そのCSS文も変えることができ、一ヶ月以上かけて、CSS文を変更し、ようやく今のブログを作ったのである。2007年のことであった。
 それから13年経つが改造はしていない。HTMLも5.2になったが、特に問題はないようだ。
 本題のホームページだが、HPBでは、いろいろと問題が生じていた。使えなくなる前に、HTML5 に準拠したホームページにしたい。
 「HTML&CSSのきほん」だけでは、とても無理だ(時間も、技能も)。そこで新しいホームページ作成ソフトを求めた。そして選んだのがSIRIUS(シリウス)である。
 普通なら、WordPressであろうが、なぜか気が向かない。
 余談だが、わたしがインターネットで物を買うのは今回が初めてである。いままでは、物は選んであって、流通経路としてインターネットを利用しただけだった。今回はインターネットで物を選び購入した。つまり中身が全く確認できない状態で、宣伝文だけで判断した。
 6月23日に購入。HPBよりかなり難しい気がした。しかし、他のソフトは使ったことがないので、易しいのか難しいのか判断はできない。ブログとHPBの経験とHTMLのお勉強があったので、なんとか7月3日に公開できた。
 まだあちこちを手直ししたい。それはゆっくり。

7/9追記
 このソフトは、HTML&CSSの知識がないと扱いにくい。
 ページ内リンクの仕方が判らず、ネットで調べて、タグ打ちでリンク処理をした。これでリンク問題は解決した。
 内蔵のアップロード機能は使いにくいので、FFFTPをインストールした。ところが問題発生。
 画像フォルダー名にimgを使うと、アップロード時に、ソフトが用意した100個以上の不要な画像ファイルが一瞬に滑り込む。何度か消したが、繰り返しなので、画像フォルダー名を変更し、アップロード時に工夫することで解決した。それでもimgフォルダーが入り込んでくる。こうなると「改訂ファイルのみアップロード」という機能が使えない。さらに訂正しても反映されないという事態が発生。扱っているファイルと実際のファイルが違っていた。どこかに秘密のファイルがある。エクスプローラーをいくら探しても見つからない。
 今日一日かけて、ようやくファイルの位置を探し出した。
 わたしはブラックボックスが嫌いだ。意味が判らないと心配なのだ。ファイルの位置が判ってみると、いままでの苦労のかなりの部分が不要となる。意味が判ると、すっきりするし、あちこちに応用が利く。画像の問題も意味が判った。何より「知らずに消してしまう」「知らずに壊してしまう」ことがなくなる。
 この点はHPBが勝る。

8/14追記
 今のFTPはシリウスのソフトを使っている。FFFTPはおやすみ。「更新されたファイル」のみ送るのであるが、送る寸前にimgフォルダーを削除して「更新されたファイル」を送る。毎回削除するので慣れたが、どこを見てもこれを回避する方法が判らない。そのうちシリウスに添付された、シリウスとは別のFTPソフトをためしてみよう。 
posted by たくせん(謫仙) at 09:22| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする