2019年10月30日

甘利俊一さん文化勲章

甘利俊一さん文化勲章

 今日の新聞で、甘利俊一さん(83)に文化勲章が贈られると発表された。おめでとうございます。
 甘利さんは、東大名誉教授で、理化学研究所栄誉研究員。そしてわたしの碁友であり、毎月2〜3度碁席をともにしている。わたしより強い。アマ六段くらいである。
 脳科学と情報科学の二分野の研究者であり、海外では別人と思われたこともあったという。現在AIが急速に発展していて、特に囲碁界では人を超えたと、注目されている。
 
 このAIの基になった研究者であり、大げさに言えばAIの生みの親である。
 2年ほど前に、英語で本を書いたが、去年今年と印税が……、と言うと堅いお人のようだが、いつもニコニコしている、気さくな方で、知らない人は気づかない。
 先日帰国したアメリカの青年が、帰国のとき甘利さんを検索して「大変な人だった」とびっくりした話もある。
 わたしは二つの碁会に参加していたため、甘利さんの碁敵となった。
 この甘利さんと先日ある会話をした。

 AIが発達し、家中の家電やら何やらが、全部AIで動くようになると、生活がしにくくなりそう。
 どれかが故障を起こす度に、自分では処理できなくて、大騒ぎになるのでは。
 便利になるのか、不便になるのか。

 もちろんその頃には、そのことも工夫されるだろうが、こんなことを甘利さんに言われると、不思議な気がする。
posted by たくせん(謫仙) at 09:56| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

円通寺

円通寺(えんつうじ)

 東京都荒川区南千住にある曹洞宗の寺院。あまり知られていないが、無名でもない。
 791年に坂上田村麻呂将軍によって開かれ、八幡太郎義家が再建した、と伝わる。

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 門前からも見える観世音菩薩が古い寺にしては珍しい。
 仏塔のような外観が異彩を放っている。

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史跡
 彰義隊士の墓、旧上野黒門、小塚原旧跡。
 わたしは黒門があるので見に行った。
 本来は百観音で知られていた。ただし、安政の地震で観音堂が倒壊、現在は三十三体が本堂にあると言う。それは見なかった。

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 黒門
 これは上野寛永寺の総門であった。寛永寺は上野公園のほぼ全域を境内としていた。その南の正門で、官軍と彰義隊の激戦の中心となったところだ。
 冠木門であり、正門にしては質素な作りである。

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 たくさんの弾痕がある。

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 戊辰戦争は鉄砲の戦争であり、弾丸の量が勝敗を分けた。

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荒川区指定の有形文化財となっている。

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 裏側

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 八幡太郎義家が、奥羽征伐のとき、賊の首48をここに埋め、四拾八塚を築いた。
 それでこの辺りが小塚原と呼ばれるようになった。
 石造七重の塔には銘があり、現存する荒川区最古の石文である。遠くて判らなかった。

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 元からの石像か?

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 円通精舎、榎本武揚の書。

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 黒門とその後ろの彰義隊士の墓などは大きく囲われている。
 中に入る。

    さかるほと 見あける人や ふちの花

 と読めたが? (2字目自信なし)

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 曼珠沙華

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 自然に傾いたのか?

 慶応四年(1868)五月十五日に戦死した、彰義隊士の遺体が放置されていたのを、円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野に行って斬首覚悟で供養した。拘束の後、埋葬の許可が出た。
 これが縁で、明治40年10月に、帝室博物館より黒門が円通寺に贈られた。

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 余録
 東京オリンピックの前の年(1963)、吉展ちゃん誘拐殺人事件があった。
 2年3ヶ月後、埋められて白骨化した遺体が円通寺で見つかった。
 その供養のため、「吉展地蔵」か建立されている。

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 古い写真とは異なるので2代目の像か
posted by たくせん(謫仙) at 07:26| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月26日

小田原 土塁

小田原 土塁

 土塁の前に小田原を潤した上水道を見る。

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 早川に堰を作り、一部を分流させた。
 右が城下への分流である。

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 取水口の様子である。現在はほとんど流れていなかった。

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 取水口から下流を見る。

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 ここから土手(国道)の下をくぐり、城下へ続く。
 写真を撮り損ねたが、狭い水路であった。
 この水路が江戸の上水道の原点という。

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 小田原城は総構(そうがまえ)で知られている。城下全体を守っている。秀吉の小田原攻めに備えた。これを知った諸将は、小田原の戦いの後、自らの城下にも総構を施した。
 会津では役に立たなかったことは前に書いた。守る兵がいなかったのだ。

 ところでわたしは何度か中国旅行をしているが、中国の城とはこの総構である。それはレンガや土の塀である。だから城とは総構の都市を指す。戦国時代の人も知っていたはずで、これまで総構の考え方がなかったのが、不思議に思えるほど。日本なりの事情があった。
(以下、グーグル地図を見ても判りにくいが、★印で検索すると出てくる)
 
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 国指定史跡 小田原城跡 総構 城下張出(平場)★
 小田原の前は海、後ろは丘陵。その丘陵に施した総構(そうがまえ)の一部である。
 城下張出(しろしたはりだし)とは、突出した部分で、総構に取り付く敵を横から攻撃した。

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 ブラタモリで見たような…、ここから堀を見る。

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 総構 城下張出(堀)
 調査の結果、総構の土塁の一部がある程度判ってきた。
 一帯は立ち入り禁止である。ポリの紐で囲っているだけなので不心得者は入ることができるが、あえて入る気はしない。このときはわたしひとり。

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 違った位置から。

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 大きく巻いて、下に降りて、脇から見る。
 民家が映り込むのは申し訳ない。

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 近くの畑であるが、ここは堀を埋めた。その跡が階段状の農地になっているが、判りにくい。

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 三の丸外郭 新堀土塁 ★
 ここは総構を構築する前からあった。総構ができて、その内側の堀となった。

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 段になっている。

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 一番上はこんな石がある。建物の礎石だろうか。

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 高低差はさほどではない。上からは見晴らしはよい。鎧武者が歩いて上るのは無理だが、もう鉄砲の時代である。
 見張りと砲台の役目であろう。

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 四角くへこんでいるのは建物の跡か。

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小峯御鐘ノ台大堀切東堀 ★
こみねおかねのだい

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 三の丸外郭 新堀土塁に隣接して総構の堀切がある。

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 この空堀の説明。

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 かなり急な空堀だが、秀吉の大軍を前にして、役に立ったのだろうか。
 秀吉には、一夜城を作る土木力があり、戦いに備えていても、戦闘のない十万を超える兵士がいる。その力で数ヶ月かければ、これら堀を埋めて崩してしまえるのではないか。
 そもそも秀吉の戦いは、兵を死なせない戦いである。戦闘はできるだけ避けた。兵糧攻めや水攻めである。そのためには金を惜しまない。
 それまでの戦いは遠征軍は補給が続かないため、短期決戦で乗り切ろうとした。しかし秀吉軍は補給は問題ないので、決戦はせず、にらみ合うのみである。却って籠城軍の方に補給の問題が生じる。
 こういう空堀は、短期決戦のときには役に立つだろうが、長期に渡ってにらみ合う場合は効果が薄い。もしかすると秀吉は、逆に城を包囲する堀として利用した可能性も考えられる。

 この右が、城山公園である。なんと立ち入り禁止になっていた。

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 大外郭堀 ★
 少し戻って西へ行くと、未調査の空堀がある。
 大外郭堀である。
 下は山道らしき道があるようだ。行きたいと思わなかったが、写真で見るときちんとした道がある。降りて見ておくべきだった。

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 堀の土を盛り上げた。

 引き返すと、森のの中にも堀があると説明があるので入ってみた。

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 小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北の端か。
 これが堀の土を盛り上げたのであろう。この左が堀である。右側は民家である。
 
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 急な斜面の下は堀であるが、山道らしい。さほど深くはない。

 ここから民家の前の道に出た。
 一時間ほど山の中をさまよったような気になったが、地図で見ると、民家と畑の間にある細い藪を歩いていたようだ。(^_^)。

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 山ノ神堀切 ★
 未調査である。当然もっと深かったはず。

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 山ノ神堀切の向こう側、脇に詳しい説明がある。

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 先に触れた城山公園だが、立入禁止になっている。これもポリひもで囲んであるのみ。自由に出入りしている。
 禁止理由は、「先の台風で枝が折れたりしていて落下の危険がある」という。
 一目見て、こんな安全な山は滅多にないと思うが、実はここは山の中ではなく、住宅街の中の公園であった。
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2019年09月22日

小田原

 9月14日小田原に行く。

 小田原の手前の駅で、派手な衣装で派手なメイクの若い女性たちが乗り込んできた。衣装の背側には「疾風乱舞」の文字が躍っている。
 小田原の駅で、9月14〜15日の二日間、「第21回えっさ“ホイ”おどり」のイベントがあることを紹介していた。

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 ホテルに荷物を預け、小田原城へ向かう。

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 お堀の外側を正門の方へ歩いて行くと、様々な衣装の人たちに会う。その人たちは、この「学橋」から入っていく。
 わたしは少し先の馬出門から入る。

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 この辺りに来ると、あの歌をアレンジした、歌声が繰り返し流れてくる。
♪えっさほいさっさ
♪えっさほいさっさ
♪えーさ、えーさ、えっさほいさっさ

「えっさ“ホイ”踊り」はこの歌を基調にした踊りだったのだ。

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 馬出門から馬屋曲輪へ

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 住吉橋

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 銅門を通ると、ここが第二会場だった。

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 100チームを遙かに超える予定表があるが、1チームが2回ないし3回出ているので、チーム数は判らない。50チーム以上と思える。4年前に50チームを超えたという。

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 銅門に上る。

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 木立の向こうが二の丸跡で、第一会場。
 
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 第一会場には屋台が多く、テントの向こうに舞台が設置されている。
 お堀端通り会場(15日のみ)と栄町会場もあるが、様子は判らない。

 イベントはここまでにして、天守閣へ向かう。

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 イヌマキの巨木の脇を通り

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 常磐木門

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 新しくなった天守閣
 城が大きいのに天守閣は三層なので、小さく見える。しかし、各地の天守閣と比べると、小さくはない。
 手前の広場は本丸の跡。

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 手前の松に気をとられたが、向こうの巨木は何だろう。写真を見て気がついた。

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 天守閣に入る。模型があった。これで見ると昔は学橋はない。

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 手前の鉄塔が建っている山が一夜城の石垣山。
 実際には築城は約八十日かかったらしい。それを隠していたのが通説らしいが、本当に北条方は気づかなかったか、疑問に思っている。

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 真鶴半島、その向こうに霞んでいるのは伊豆半島。
 大島ははっきりしなかった。

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 遊園地の近く。天守の裏の方の石垣や土塁。

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 正面とは趣が異なる。

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 北入口の道の脇、よくぞここまで育った。


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 城内の郷土文化館前のクスノキ
 郷土文化館の見学者はわたしひとり。

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 市中も歩いた。ここはかまぼこ通り。趣のない街だった。
 昔はこの通りが繁華街だったのではないか。工場は残っても販売所は移動したか。
 浜が近い。浜は砂ではなく小石の浜であった。

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 これは実用の鐘であったが、わびしく立っている。
 昔日の大手門に近い辺り。本来の位置からここに移した。

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 山王川
 この川に沿って歩き、途中から駅に向かう。
 途中は細い道が不規則に通る。古い区割りだが、家は新しい。
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2019年09月06日

倚天屠龍記

2008年8月2日 記
2019年9月6日 訂正追記

   倚天屠龍記 全五巻
   金庸   徳間書店   2001
 時代は元順帝(在位1333−1368)の至元二年(1336)、南宋が滅びて五十余年後。神G侠侶の最後の年(1259)から77年後である。
 その前に神G侠侶から三年後、冒頭で郭襄が江湖をさすらい楊過の行方を尋ねて少林寺に行く。少年張三豊や覚遠と再会する。そして三人は少林寺を出る。そして一気に年月を飛ばし、太極拳の始祖張三豊の九十歳の誕生日を巡る話になる。
 張三豊は伝説上の人物で、実在は疑わしい。しかし、相当するモデルがいたことが知られている。太極拳はかなり後にできたので、始祖説はもちろん怪しい。ただ太極拳の原型は張三豊の頃といわれている。

 張三豊の九十歳の誕生日以後に生まれた張無忌が大人になって活躍する。となると、張三豊は百十二歳を過ぎてしまうか。最期は駆け足で、明朝成立までを説明するが、それは物語のその後であろう。
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 主人公がなかなか決まらない。なにしろ普通の小説なら終わってしまうころ、第一巻約400頁のうち、340頁目で、ようやく呱々の声をあげるのだ。
 主人公だと思っていた張翠山は、第二巻目の104頁で自決してしまう。
 そこでようやく、張翠山は主人公ではないと判る。そして子の張無忌が主人公らしいと気づくことになる。
 波瀾万丈の生涯で、半ば偶然のようにして武技を身につけるのは、いつものパターンである。とにかく、あっちで騙され、こっちで騙され、騙され続けた。これはこども時代に孤島で育ち、友人がいなかったせいか。この主人公は指導者として優れているとはいえないが、多くの協力者をえて、明王朝成立の礎を築く。そこでも朱元璋に騙されて、朱元璋が明朝皇帝となる。
 張無忌は優れた人物ではないが、いい友人となる人物と評価されている。

 倚天剣と屠龍刀という武林の宝がある。屠龍刀を手に入れれば、武林の盟主になれるという。武林の有力者が血眼になって探している。そのためには家屋敷さえ燃やしてしまう者がいる。鉄でさえ豆腐のように簡単に切ってしまえる名刀だ。
 倚天剣と屠龍刀を作ったのは、襄陽城の戦いで戦死した郭靖・黄蓉夫婦。将来モンゴルに対する反乱が起こることを予想し、そのために作った。倚天剣は娘郭襄に伝え、屠龍刀は息子郭破虜に伝えた。郭破虜は戦死し、屠龍刀は江湖をさまよう。郭襄は四十歳の時、出家して、峨嵋派を興す。そして倚天剣は峨嵋派に伝わる。
 郭靖夫妻は戦死し、屠龍刀を持っている者もいっこうに芽が出ない。そのことを考えれば、屋敷を焼き払ってまで、手に入れるほどの物かと思う。結論を言ってしまえば、屠龍刀には岳飛の遺書(兵法書)が入っていた。これが手に入っても普通の人には使い道がない。江湖の人間ではまず役に立たない。倚天剣には武術書、これは江湖の人にはのどから手が出るほど欲しい物。
 屠龍刀は何度か火に入る。しかし中の書は何ともない。楊過の持っていた玄鉄剣が材料だ。加工するときは、特殊なやり方で溶かした。炉に入れても溶けないのはともかく、中の物が無事だった理由の説明はない。この玄鉄は熱を伝えないのか。赤熱はするのだ。

 この中に庶民の歌が出てくる。それを「戯れせんとや生まれけん……」といったうまい訳をしている。この訳者はかなり日本古文に造詣が深いと思われる。

 ここは本の紹介のみ、以下あらすじなどは別に書きます。

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 次の言葉は、使い方が気になった。訳者は飛狐外伝と同じらしい(倚天屠龍記は訳者が2人なので、違うかもしれれない)。
 第一巻P207 張翠山が女に「お名前をうかがってもよろしいてすか」と訊く場面がある。
 返事はないのだが、それはともかく、返事をしたとして、次のような会話が予想される。
「訊いてもいいですよ」
「あなたのお名前はなんとおっしゃるのでしょうか」
「教えられません」
「訊いてもいいですよ、と言ったではありませんか?」
「訊くのは構いませんが、教えるとは言っていませんよ」
ということになりそうだ。
 何を言いたいかというと、「訊いてもいいか」と問いながら、それで訊いたつもりでいる、不思議な言葉だと言いたいのだ。
 平成語ではないが、昭和も後半になって、多く使われるようになった政治言葉と記憶している。
「謝りたい」、この後はなく、謝らないで終わる。
「注意したい」、注意致します、と言ってもらいたい。

 昔の江南でこんな言い方をしたのだろうか。金庸の原文はどうなんだろう。

 誰だったかある作家が、電話で言伝(ことづて)を頼んだら、「お名前をうかがってもよろしいてすか」と訊かれ、「名前を訊かずに、どう伝えるんですか」とあきれていた。
 わたしもある受付に訊かれ、「訊かずにどう名簿をチェックするの」と思わず訊いたことがある。
 おそらく訳者にとっては、これが普通の言葉で、疑問に思わなかったに違いない。婉曲的な言い方らしいが。

参考:たくせんの中国世界−倚天屠龍記
posted by たくせん(謫仙) at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

飛狐外伝

   飛狐外伝全三巻
   金庸  訳 阿部敦子  徳間書店  01.11
2008.9.7記
2019.8.16追記

 この小説は雪山飛狐に続くが、雪山飛狐が先に出た。雪山飛狐の少年時代である。プロットには一致しない部分があるが、新聞小説を本にするときも、そのままにしたという。
 初めて読んだのは2001年、もう7年になる。再読した。当時は本の紹介しかしていないが、今回は少し詳しく書いてみよう。
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 清の乾隆帝の時代。まず、「書剣恩仇録」で、カスリーが死んで、紅花会が紫禁城を騒がしたときから、6年くらいたったころ、山東武定の商家堡で物語が始まる。そこで胡斐(こひ)が登場し、一波乱あって胡斐が大きく成長するきっかけとなる。ここでの諸々は本題への伏線となる。

 4年後、広東仏山鎮で、鳳天南一族の悪事に苦しみ死んだ農民の仇を討とうとする。この小説は、逃げる鳳天南を追う胡斐の話ともいえる。
 時はカスリー(香妃)が死んで10年後である。この時、胡斐は18歳。

 一面識もなかった農民のために…、これが「侠」だ。
 ふつう武侠小説といっても、武の小説で、侠の小説は少ない。この小説ではこの「侠」の部分を強調して書いてみたという。侠はある意味で私設警察に近い。その人の考え方でどうにでもなる。日本でも侠客といえば、建前は「侠」でも、実体は「ならず者」だったりする。
 武侠小説は、実体はならず者小説でもある。
 鳳天南はその地方一帯の実力者で、地方官では手が出せない。今日的に言えば警察も手が出せないほどのヤクザ組織。もっとも軍と対抗できるほどではないので、地方官が言い訳ができるように、表面的にはもっともらしくする。

 胡斐は義憤を感じて、一面識もなかった農民を助けようとして、鳳天南の縄張りを荒らすが、若さ故の甘さがあり、助けることができず、鳳天南には逃げられてしまう。
 北京では乾隆帝の私生児福康安が、在野の武林の抹殺を図り、福府(福康安の邸宅)で武林の掌門を集めていた。武林掌門人大会を開くという。ここに鳳天南が来るはずと、胡斐は北京まで行くことになる。
 その間にいろいろな話がある。実の親を母の仇と狙う少女円性の話や、田帰農の毒で目が見えなくなった苗人鳳を治すため、毒手薬王のところに急行する話が柱。鳳天南の話は隅に追いやられているが、忘れたわけではない。毒手薬王の少女弟子程霊素はいろいろと胡斐を助ける。
 その武林掌門人大会は、武林の勢力争いで自滅するよう仕掛けたものだったが、胡斐たちは見破り、大乱闘になったりして大会を壊してしまう。鳳天南はその場で死ぬ。

 表面的にはこのように話が流れるが、著者によれば、続編の「雪山飛狐」の本当の主人公は亡くなった胡一刀であるという。胡斐が生まれた頃に亡くなった胡斐の父親である。だから胡斐の性格描写はあっさりしている。それを細かく書いたのがこの外伝だ。
 胡斐は父の武技書を受け継ぎ刀法を身につけ、父の仇を捜し父の死の真相を知ろうとする。様々な登場人物が、胡一刀の故事にからんでくる。胡斐に恋して犠牲となる少女程霊素の操る毒も、胡一刀の死に関係があるのだった。

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 初めて読んだとき、次のように書いている。

 第2巻 愛憎の父娘 
 この中に気になる文があった。
「…負けたら、……をさせていただきます」
 この言い方があちこちに出てくる。お互いに譲り合っている場合ならかまわないが、そうではない。
 本来「勝ったら…をさせて頂きます。負けたら…を致します」と言うべきところである。
 賭は勝った方が我を通し、負けた方が譲るものだが、これでは逆になってしまう。
 言葉は変化するので、今の時点では間違いと言い切れないが、この言葉が出てくるたびに、前後を読み返して、「いただく」のか「いたす」のか意味を確認している。

 この話、今回は全然引っかからなかった。この使い方を目にすることが多くなり、抵抗感が薄れたし、ここでは話の流れで、意味がはっきりしているからだ。前は「意味はこういう意味なのになぜわざと逆にいうのだろう」と念のため「わざという」理由を確認したのだ。
 江戸の時代劇でも商人が多く使っている。してみると商人言葉が始まりか。

 射G三部作といわれる作品群があるが、書剣恩仇録・飛狐外伝・雪山飛狐をもって、反清三部作と名付けたい。
 主人公の胡斐は「こひ」と読む。「こい」ではない。わたしはこの本を再読するまで「こい」と記憶していた。甲斐武田の「斐」だったからだ。

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2019.8.16追記
 いままで何度も読んでいるのに、記憶にない文がある。もちろん覚えていないという意味でなく、当然覚えていなければならない状況である。

文庫本第一巻 P70  苗人鳳は、
 その隙に逃げようとする人足の後頭部を掴むと、気合いもろとも抛り投げる。人足は糸の切れた凧のように、数十丈もすっ飛んだあげく、雪の上にしたたか叩きつけられた。
 いままで読んでいたときは、数十丈がどんな距離か判らず、漠然と遠くへ投げたと思っていた。
 ところが当時の丈は、ほぼ日本と同じである。約3メートル。すると三十丈でも90メートルである。人足なので、六十キロくらいあるだろう。それをこんな距離を投げたのだ。もちろん筋肉の力ばかりではないにしても。
 ここには出てこないが、それなら、幅跳び百メートル高飛び三十メートルは軽い軽い、ということにならないか。

文庫本第一巻 P401
 袁紫衣は白馬の鞍を軽く叩き、胡斐を振り返ってにっこりすると、キリッと手綱を引き絞った。白馬は助走もつけず、いきなりひらりと飛び上がると、十余輌の塩車を飛び越え、北に向かって、駆け出すや、たちまち影も形も見えなくなった。
 ここでいう塩車がどんな車か知らないが、古い言葉に「驥服塩車」(きふくえんしゃ)がある。これと同じなら、馬に引かせるほどの車である。かなり大きい。幅1メートル以上はあるだろう。十余輌なら十余メートル。二十メートルもあるか。
 袁紫衣の白馬は助走なしで、十余メートル飛び超えたのだ。馬まで内力があるのか? 袁紫衣の軽功によるのか。

 その後を読むためには、知っていなければならないのだ。それを意識していなかった。

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あらすじなどはこちらに 雪山飛狐・飛狐外伝
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2019年08月01日

武媚娘傳奇の碁

武媚娘伝奇の碁

 テレビドラマ「武媚娘傳奇」を視た。
 武媚娘(ブビジョウ)とは武則天あるいは則天武后といわれる人物である。諱を照、幼名は媚娘と名付けられた。
 生年624年−没年705年の物語。637年13歳の頃に入宮。
 今回の話は武媚娘の二十歳前の頃である。(第14回)
 時代は唐の太宗李世民(在位626−649)の時代。日本では飛鳥時代であった。平城京遷都が行われたのが710年であり、その前である。
 後宮では、様々な陰謀が渦巻いており、武媚娘もその攻撃の対象にされていたが、それはともかく、表では、外国の使節を集めた宴が開かれていた。
その中に東瀛国手・物部天守もいた。

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 東瀛とは日本を指す雅称。国手は日本でいう名人で、現在も使われている。

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 武媚娘は「東瀛第一は吉備真央」と指摘する。
 物部天守も吉備真央も人名がそれらしい。
 物部天守は「負けたら腹を切る」と言って碁を打つ。
 ここで問題が発生する。切腹である。切腹は平安時代の武士階級で始まったといわれるが、平安時代は名誉ではなかった。それなのに遙か昔の飛鳥時代の文官がするはずがない。

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 大盤で対局することになる。太宗の妃が相手をするが、毒により体調が悪くなり、途中から武媚娘が代わりに打つ。
 当時こんな盤石があったかどうかはともかく、問題点が2カ所。
1 四スミの置き石がない。当時は四スミの星に置いてから始めた。
2 碁笥の位置が逆である。二人とも右利き。このような埋め込み式の碁笥は、逆にしそうなもの。

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 まるでプラスチック製みたいだ。なんで作ったのか。この線はテープかな。
 この手で終局。どう見ても終局とは思えない。
 この後を省略したのか。

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 これは天龍八部城(大理)にあった物。実用とは言いがたいが、理にかなっている。

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 倒れた妃の看病をしている武媚娘に、太宗は「故意に“和局”にしたな」と叱る。

 和局とはジゴのことだが、ジゴとは異なる話し合いによる「打ち掛け」の終局も“和局”と言うのだろうか。
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2019年07月22日

世界の囲碁ルール

        6月29日記
        7月22日訂正
世界の囲碁ルール
 王銘琬   日本棋院   2019.4

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(本の紹介で、書評ではありません。感想も入れてありますが)
 この本はわたしの予想とはかなり違った。
 世界の囲碁ルールではなく、「囲碁ルールの世界」というべきだろう。
 中心となるのは、いわゆる日本ルールと中国ルールの話である。

 日本ルールといえば地を数える、中国ルールといえば石を数える、といわれているが、それは誤解で、両方とも地を数えている。その数え方が違うのだ。
 日本ルールでは最後にアゲハマを盤上に戻す。結果、盤上の石数は同数か黒が1目多い。判っているのでいちいち数える必要はなく、地だけ数えればよい。
 中国ルールではアゲハマのかわりに、石全体を数えて地の差を数える。

 昔、切賃というルールがあった。
 最後に生きるための2眼(2目)を残さねばならない。石群ごとに2目必要になる。
 最後まで打って石を数えればよいが、それは面倒なので地を数え、そこから生きるための2目を引く。それを切賃という。
 つまり石数を数える便宜的な方法である。この切賃のあるルールが、石を数えるルールだ。日中ともに古い碁にある。
 ところが現在は、中国ルールといっても、生きるための2眼まで数える。つまり、地を数えるに等しい。
(これらの話は、中国ルール側で逆に考えても、成り立つように思える。「日本ルールも石を数える」に等しい)

 王銘琬先生は台湾で育った。台湾では碁会所によって、日本ルールだったり中国ルールだったりする。それどころか人にもよる。いちいち、対局前に確認しなければならない。それはアゲハマを戻すか確保するかの差になる。だから環境がよければ日本ルール、悪ければ中国ルールだ。
 環境が悪いとは、たとえば、まわりで遊んでいる子供がアゲハマをひっくり返す。あるいは遊びのために持って行ってしまう。しかも賭碁が多い。こんな環境では中国ルールだ。
 ところが日本では賭碁は滅多になく、碁の環境が整い楽しみで打っている。楽しんで打つ環境では、日本ルールが優れている。

 ここで、中国ルールの場合、最後に黒が打った場合は黒は1目減らす。これを「収後」といい、結果は日本ルールと同じになる。全く問題はない。
 現代の中国ルールは「収後」を廃止した。そのため、日本ルールとは差が生じるようになった。

 これら以外の差は、混乱を防ぐための便宜的なルールだ。
 例えばセキの扱いとか、スミの曲がり四目とか。
 昔は、「取らず三目」というルールがあった。日本ルールの不合理さの象徴といわれている。しかし、かなり前に改訂されて現在は存在しない。このことは日本でもあまり知られていない。日本国内に限らず、世界に向け強く発信すべきだ。

 滅多に起こらない特殊ケースは、ルールで説明できなくてもよいではないか。
(重要な対局のためには、ルール化してほしい。できれば世界共通に。わたしなどは問題の意味さえ理解出来なくて、一度も体験したことがないので、ルールで説明できなくてもよいにしても)

 今、囲碁AIが碁界を席巻しているが、これは中国ルールで開発されている。囲碁AIには日本ルールは理解が難しいらしい。
 日本ルールは相互の合意によって終局とする。合意を取ることがAIは苦手なのだ。
 中国ルールは最後まで打つことを前提にしている。そのため、終局の合意を求めてパスすると、中国ルール育ちのソフトは、パスできず自滅する話は興味深かった。
 日本ルールで開発すれば問題ないと思える。
(王銘琬先生は、情緒的に考える傾向もあるようだが、アマには判りやすい説明だ)

 連続3回パスで終局とするのが論理的。劫立てでパスすることがあるので、連続2回では問題が起こる可能性があるのだ。
(日本棋院「幽玄の間」では、連続2回で終局できるようになっている。問題が起こったという話は聞かないにしても)

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 わたしは今までいろいろと、碁のルールの疑問を取り上げてきた。それらの集約的なルールの考え方の本であった。

中国の碁のルールの変遷   http://takusen2.seesaa.net/article/199633254.html
中国の碁のルールの変遷 追記 http://takusen2.seesaa.net/article/377295340.html
還珠格格の碁 http://takusen2.seesaa.net/article/196216473.html
還珠姫の碁  http://takusen2.seesaa.net/article/198636016.html
時間切れ負け制の終局問題 http://takusen2.seesaa.net/article/178300376.html
アジア大会で時間切れを狙うプロ棋士がいた
      http://takusen2.seesaa.net/article/170248272.html
終局の仕方 http://takusen2.seesaa.net/article/132071655.html
中国ルール http://takusen2.seesaa.net/article/132154166.html
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2019年07月21日

奈良12 余録

奈良余録

 まとまった量はないが、残った写真を並べてみます。

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 円窓亭
 博物館の南、浮見堂の近く。

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 荒池から鷺池へ行く。鷺池を横切って浅茅が原・浮見堂がある。

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 元興寺に行く途中の街角。

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 入江泰吉記念奈良市写真美術館。新薬師寺の近くにある。

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 下の禰宜道(ささやきの小径)の古藤。
 春日大社の神官の通勤路であった。

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 春日大社に参拝した。

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 境内の大杉、樹齢は約千年。
 根元にあるのは岩本神社、これ以外にも垣内に十五神社あり、若宮辺りにも15社
 全部併せて春日大社である。わたしのような不信心者には理解不能。法人格は別々だろうか。

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 若宮神社への道。奥からから春日大社方向を見る。

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 周辺には大木が多い。

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 東大寺戒壇院の庭。

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 戒壇院の四天王像には圧倒される。厳しく整って、個性がある。
 塑像である。前に見たときと比べて埃が目立つ。
 戒壇院を管理している女性に訊いてみた。
「国宝なので、触ることはできないンです。うっかり触って剥がれ落ちたら大変です。風を当てることもできません。乾燥して、目に見えないほど小さな部分が吹き飛ぶかもしれません。だからいくら埃がたまっても、そのままにしておくように言われています。大仏の様な金属なら掃除できるのですけど」
 あちこちの塑像を見るとき、いつも埃がたまっているのを納得した。

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 春日野園地。若草山下の広場は、東大寺南大門の東、百メートルほど。
 鹿には煎餅より若草が似合う。

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 帰りに見つけた出店。中国語と日本語を並べている。ビールの文字が楷書体にないので明朝体を使っている(^_^)。

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 郡山城を目指す。

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 天主台が復元補修されている。戦国の世にこの城を作るとき、石の地蔵まで石垣に使っている。

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 逆さの石地蔵が、わずかに見える。いかに急造だったか判る。

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 今でも堀の石垣を補修している。

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 歩いて大池に来た。

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 グーグル地図の写真だが、大池から見た薬師寺。
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2019年07月18日

奈良11 唐招提寺

唐招提寺

 薬師寺を出て、唐招提寺に行く。
 鑑真和上(がんじんわじょう)で名高い寺である。

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 この道を通り北へ五百メートルほど歩くと、唐招提寺につく。

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 門にも円柱が使われている。

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 金堂
 国宝である。重厚で質素なイメージがした。鑑真没後に建てられている。
 ここでは若い中国人らしき人が多かった。中国人は仏閣には興味がないと聞いていたが、意識が変わったのか。例外か。

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 ギリシャの宮殿のような円柱が特徴である。
 もちろん木の柱である。

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 経蔵
 日本最古の校倉、宝蔵とともに国宝。

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校倉造りの建物が二棟並んでいる。向こうが宝蔵で、その先を右に行くと、新宝蔵がある。
 新宝蔵はかなり充実している。ガイド(?)がいて、説明してくれた。
 開館期間が限られる、というより、夏と冬は開館しないので、見たい人は確認してください。正月は開館します。

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 礼堂と東室が続いている。
 僧坊であった。北と西にもあったが、現在は東だけが残っている。

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 鑑真和上御廟

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 御廟前

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 戒壇であるが、台の上の建物は火災により焼失、1978年(昭和53年)に宝塔が築かれた。インド様である。

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 金堂の前面、八本の円柱が目立つ。

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 時間がなく、ここまでで終わりにしたが、講堂や鼓楼なども他にもいくつか見たいところがあった。
 急ぎ足のため、写真を撮り損ねたところが多く、自分ながら満足できない紹介になった。この寺も前回見た記憶と一変している。いかに記憶とは曖昧なものか。
posted by たくせん(謫仙) at 06:59| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする