2017年03月23日

高山1979年

高山1979年

 初めて飛騨高山に行ったときである。駅でもらった観光案内を見ながら歩いた。
 今となってはどこをどう歩いたか、はっきりしない。

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 まず、見に行ったのが飛騨民族村。高山駅から南へ下り、陸橋を渡る。

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 飛騨民族村へは1キロ半ほど歩いただろうか。
 合掌造りの家がある。

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 一階が住まい。2階3階は養蚕のための屋根裏のようなもの。

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 古民家らしく、木製の車輪が並んでいた。

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 円盤状の板もある。

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 右端の小さな家は水車小屋だったか。

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 高山陣屋
 飛騨が徳川幕府の直轄地となってからは、江戸から来た代官や郡代が、ここで飛騨の政治を行った。この役所は陣屋と呼ばれ、城ではない。残っているのは高山だけという。

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 形はきれいに残っている。

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 倉庫。かなり広い。

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 宮川にかかる中橋
 宮川の朝市で、珍しくアケビを見つけた。
「わーおいしそう。これください。おいくらですー?」
「値段のつけようがないので、差し上げますよ」
 大勢歩いているが、これを欲しがったのはわたし一人だけとか。
 無料でもらったのに、喜ばれた。

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 古民家の頭上、見事な木組みである。

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 別な家だがこれも古民家。

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 照蓮寺、尼さんが福来博士(文学博士)の説明をしてくれたが……。
 福来博士は月の裏側の写真を撮ったと言っていた人物。

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 国分寺の塔、ここは入らなかった。

付録
 白川郷まで足を伸ばした。数コマの写真を載せておきます。

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この谷間の風向きを考えて家の向きを決めている。そのため位置によって少しづつ向きがずれる。
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2017年03月18日

落日の譜

落日の譜   雁金準一物語
団 鬼六   筑摩書房   2012.12
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 雁金準一といえば、碁好きにとっては、伝説的な人物であった。
 この本で、具体的な人物像を知ることができた。
 明治・大正・昭和初期の囲碁界は混乱の時代である。明治維新によって幕府の庇護がなくなり、自分の力で生きる道を探さねばならなかった。
 囲碁界の重鎮である本因坊家も明治のはじめには断絶の瀬戸際まで追い詰められながら、なんとか命脈を保った。
 雁金準一は伊藤博文に才能を認められ、庇護を受けながら専門棋士として成長していった。本因坊秀英を尊敬しながらも、対立的団体である方円社に所属し、同時代の棋士の信望を集めていた。
 本因坊秀英の希望と秀英没後は秀英未亡人の要請もあり、次の本因坊の声が高かったが、アクの弱さが災いし、田村保寿(21世本因坊秀哉)にとられてしまう。結局、実力的にも棋界の頂点を極める前にプロ棋界を去ることになる。
 本因坊家以外では、方円社・裨聖会・棋正社・瓊韻社などが設立されては潰れていき、それに関わる人たちを、良くも悪くもいきいきと書いている。
 高田民子の囲碁界への援助には驚く。それによって明治の碁会が保たれたようなものである。
 棋士の品格も、人間としての品格と同じで、決して別な世界の話ではないことを示している。

 この本は著者の死去により未完である。高木祥一九段が「その後の雁金準一」を書き加え完成させた。
 著者は高木祥一九段の紹介で、瓊韻社(けいいんしゃ)の富田忠夫八段に面会し、話を聞き資料を集めている。

参考
雁金準一 1879〜1959、1941年に瓊韻社を創設。
本因坊秀栄1852〜1907
本因坊秀哉1874〜1940 本名は田村保寿(やすひさ)。
富田忠夫 1910〜2002 雁金準一門下。学習院大学卒。1941年飛付三段、1997年名誉九段。門下に王銘エン、鄭銘瑝、鄭銘g、郭求真、渋沢真知子など。1994年大倉喜七郎賞受賞。
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2017年03月14日

壺阪寺1977年

壺阪寺1977年
 壺阪寺は高取町にある。明日香村の南である。

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 人形浄瑠璃『壺坂霊験記』で有名なところ。
 浪曲でも、「妻は夫を労りつつ夫は妻に慕いつつ〜」 と、ちょっと日本語としておかしいが。
 盲目の沢市と妻お里の夫婦愛の奇跡の舞台。
注:寺の名は「阪」、浄瑠璃は「坂」を使っている。

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 現在はこんなに余裕はなさそう。びっしりと建物が建っているようだ。

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 思えば初めて牡丹を見た記憶がある。

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 匂いの花園、盲人のために香りの強い花ばかり集めたという。

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 この椅子は座ると歌が流れる。
 今でもあるのかな。検索すると全体的に当時なかったような物ばかり。

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 五百羅漢。高取城趾への途中にある。壺阪寺の所属らしい。

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 高取城趾は石垣のみ残っている。典型的な山城で、城が壊れると江戸幕府に許可をもらう前に修理をすることができた。他の城では許可をもらってからにしないと、お家取りつぶしにあったという。規模はかなり大きかった。
 
 壺阪寺からとは別な道を高取町に下った。2キロ以上あったかな。細い登山道である。しかもその道は城趾でもあった。
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2017年03月09日

明日香1977年

明日香1977年

 明日香村(あすかむら)といえば、日本古代史の地である。
 奈良県の中央付近にあり、中央集権律令国家の誕生の地であり、飛鳥時代の宮殿や史跡が多い。
 いまだ村であるのは、村全体が史跡であり、開発が制限されているからだ。
1977年5月、そのときは、まだ村についての詳しいことは知らなかった。わたしが初めてカメラを持ったときだった。
 岡寺駅で降りて、バスで村役場近くまで行った。その近くの民宿に泊まった記憶がある。
 第一の目的は岡寺(龍蓋寺りゅうがいじ)であった。この寺には掌にのるほどの小さな観音像があるはずだった。しかし、それは京都博物館に貸し出されていて、見ることはできなかった。後に京都博物館で見ることができた。
 いま岡寺を検索しても、この像の話が出てこない。どうなったのだろう。

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 岡寺は少し登る。

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 仁王門、西国七番霊場岡寺。

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 ここも岡寺と思うが記憶にない。上記の観音像がなかったのですぐに退散した。今ならじっくり見るだろう。見所は多いようだ。
 小さな寺だという記憶がある。とんでもない、大寺らしい。当時は寺や宗教に対する知識がなかったのだ。

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 石舞台古墳
 バスに乗って石舞台古墳へ。封土がなく、石が露出している。蘇我馬子の墓ではないかといわれているが、被葬者は不明である。
 最大級の方墳であり、天井石は約77トンもある。
 当時は農地の中にぽつんとあって、訪れる人もほとんどいなかったが、今では整備された公園になっている。

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 川原寺(かわらでら)跡。国の史跡に指定されている。礎石を見ると、大寺院であったことを実感する。
 向こうの寺は弘福寺(ぐふくじ)で、川原寺の金堂かあったところ。

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 川原寺(かわらでら)は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であった。
 向こうに見えるのは橘寺。
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 川原寺跡のすぐ近くに聖徳太子ゆかりの橘寺(たちばなでら)がある。

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 橘寺の本尊は本堂に聖徳太子、観音堂に如意輪観音。

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 天武天皇9年(680年)4月に火災に遭っている。つまりこのときには寺があった。
 史実としては、橘寺の創建年代は不明である。
 この寺には五重塔の心柱の礎石がある。このとき心柱は礎石の上に乗っているだけと知った。それまでは地中に埋まっていると思っていた。

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 有名な亀石。製作意図は不明で、未完成説も有力。

 以下の石は猿石と呼ばれている。

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何のために作られたのだろう。
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2017年03月05日

室生寺1977年

室生寺1977年

 室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある山岳寺院で、真言宗である。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。機会があったらシャクナゲの時季に行ってみたい。
 室生口大野からバスに乗って山に登る。バスの時間はたいしたことはないが、このとき乗り物酔いで目的地の少し手前で降りた。

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 仁王門から入る。

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 金堂へ階段(鎧坂)を上る。全体的に山の中腹にあり、坂道と階段が多い。

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 金堂
 雨が降ってきた。こうなるとカメラを出すのも面倒になる。
 中には国宝や重文の像が並んでいるが、記憶にない。暗くて見えなかったか。

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 屋外にある五重塔では最も小さいという国宝の五重塔(平安時代初期)。法隆寺五重塔に次ぐ古塔でもある。
 1998年に台風で一部破損した。もちろん修理された。いまの写真を見るとイメージが一新。まるで新品のようだ。
 特徴は小さいこと以外に、屋根の大きさが一層目と五層目であまり変わらないこと。にもかかわらず、塔身は上層がかなり小さいこと。

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 奥の院への長い山道の途中。

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 門から出て、室生川の下流方向。

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 同じく上流方向。

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 小雨になった。
 バスで山を下りる。

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 駅の近くにある大野寺の弥勒磨崖仏。

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 川の向こう側であり、像ははっきりしない。晴れていればきれいに見えたか。
posted by たくせん(謫仙) at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする