2017年05月29日

会津若松 余録

会津7 会津若松 余録
 順序は逆になったが、4月30日(日)は会津若松に1時半頃到着した。ホテルに荷物を預け、バスで県立博物館を目指した。停留所は鶴ヶ城三の丸口である。ここは月曜は休館のため、先に見ておこうと思ったのだ。

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 三の丸口の八重の像、女ながら鉄砲隊を率いた。先の大河ドラマ“八重の桜”で有名になった。

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 県立博物館、まるで無人の如し。中はけっこう充実していると思った。

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 廊下橋。三の丸口から入り、二の丸を過ぎると、この橋に出る。二の丸は右側。

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 酒蔵、市内には酒蔵(酒の醸造所)が多い。

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 野口英世青春館。一階は喫茶店である。

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 野口英世青春館の前の通りは歩道を広くして、車は一方通行。
 まっすぐ行くと会津若松駅前に出る。まだ歩道を広げる工事中のところがある。
 この百二十メートルほど南に野口英世像がある。そこは外堀だった。

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 七日町駅、バスの停留所でもある。この道の向かいに阿弥陀寺がある。

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 阿弥陀寺は、会津軍の墓地である。長い間埋葬が許されなかったが、ようやく二カ所に埋葬が許された。
 
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 ここにまとめて葬られた。

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 ここには大仏があったが、第二次世界大戦のとき、軍に供出させられた。今は台のみ。

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 御三階(ごさんがい)、城内にあったものをここに移築した。
 唐破風の入り口は付け加えたもの、元は本丸の玄関。二層と三層の間にも部屋があり、4階建て。
 向こう側の本堂が出来るまでは、これが阿弥陀寺の本堂だった。
 城内では再建の予定がある。“おさんがい”と言っている。

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 御薬園
 会津藩の薬草園である。江戸時代にここで朝鮮人参の栽培に成功している。今では庭園が有名だ。
 中心となるお茶屋御殿が、工事中であった。
この写真の中央の建物が楽寿亭。島にある。今は橋が架かっているが、昔は船橋だった。

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 戊辰戦争当時の刀傷とあるが、ここでは戦闘は行われていない。

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 楽寿亭をお茶屋御殿側から。
 この当時かなり雨が降ってきて、傘を差した状態で撮っている。見事な大木もあったが写真にない。

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 秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの重陽閣がある。希望すれば中も案内してもらえたが、大雨になったので、遠慮して見学をやめにした。

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 長い間、朝敵扱いされた会津は、松平容保の孫の勢津子さまが秩父宮さまに嫁ぐことで、心の重荷を下ろしたという。天皇家と親戚になったわけだ。そのためにこうして記念している。

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 明治6年に、若松の豪商など多くの人が、官有の御薬園を買い、松平家に献上した。会津戦争が終わって間もない時である。全くの不人気というわけではなかった。
松平容保一家は明治16年から数年間ここに住んでいた。

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酒蔵末広
 酒造工程の見学が出来る。最期の回に間に合った。試飲もできる。四合瓶を買い求めた。

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 石部桜、樹齢六百年といわれるエドヒガン。江戸時代からすでに名木として知られていて、囲いもあった。


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 石部桜は大河ドラマ“八重の桜”のオープニングでも使われたことでさらに有名になった。
 散り終わる寸前であった。写真では花は判別できない。
 
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 旧滝沢本陣、参勤交代や領内巡視の際の、歴代藩主の休憩所。若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにある。
 会津戦争のおり、ここまで来て指揮を執るつもりだったが、まもなく城に帰った。
 白虎隊もここで命をうけて、戸ノ口原戦場へと出陣した。

城の外側も歩いた。

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 三の丸口から堀の外側を南に行く。八重桜が満開だった。

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 内堀。堀の幅は矢の届かない距離、しかし鉄砲や大砲は越えてしまう。

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西出丸
 今では駐車場になっている。

 北と西には出丸、東には二の丸・三の丸があるが、南にはない。
 南には湯川があり、その間には外堀があり三重の防御とした。
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2017年05月26日

会津武家屋敷

会津6 会津武家屋敷

 会津武家屋敷というが、家老西郷頼母の屋敷を再現したものが半分。旧中畑陣屋を移築した建物や、くらしの歴史館などが半分である。

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     案内図

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 城の北側、北出丸停留所のそばに、西郷邸があった。今ではこの石碑のみ。外堀の中である。

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 ここから入る。

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 入って左に折れ西郷邸に行く。

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 西郷邸の塀に沿って入り口に向かう。

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 門の脇に西郷四郎の像がある。姿三四郎のモデルである。得意技は山嵐、西郷頼母の養子となった。

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 表玄関である。ここから右は領主などの“お成りの間”。写真では見えないが左に塀が有り、その左には家族や西郷邸使用人の玄関があった。

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 こうして賓客を迎えた。

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 ここが領主などの部屋。廊下の向こうは次の間で有り、一の間はその奥になる。

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 玄関を入ったとなりの部屋“使者の間”で有り、領主などはこの廊下を通ってお成りの間(一の間など)に行く。

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 案内図、上が玄関、左の黄色い部分がお成りの間である。

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 裏庭から

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 図では青い部分、当主の部屋である。

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 左が子ども部屋、右が女中部屋、案内図では右の方。この右が次の奥玄関。

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 奥玄関、この右に台所がある。台所以外は火は厳禁なので、風呂の湯も、台所で沸かして風呂場まで運んだ。

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 中の口玄関、家臣たちの出入り口である。右の塀を隔てて、はじめの表玄関が並んでいる。

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 片長屋、第二資料館としている。戊辰戦争で西郷頼母が登城のおり、女たち21人は足手まといにならないよう自刃した。新政府軍が入ってきたとき、死にきれなかった女が介錯を頼んだという。
 後ろの屏風が逆になっているのが、決意を表している。

自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
西郷は8月26日に容保の使者として城を脱出。
開城は9月23日
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。
 西郷頼母は松平容保が京都守護職に就くのを反対している。それもあって一時家老職を解かれている。会津決戦にも反対した。新政府軍が容保親子の首を要求したため、それを拒否し、会津戦争となった。

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 旧中畑陣屋

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 旧中畑陣屋を裏から

 ここの土産物屋ですてきな茶筒を見つけた。買おうと思って蓋を開けたら、中蓋が開けにくい。プラスチックで、それはいいのだが摘むところが無いのだ。残念だがこれでは使えない。

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 会津藩は将軍家の守りを自認していたため、領民に対しては過酷であり、全く人気が無かったという。軍備を整えるのは平時でも金がかかるのだ。
 戊辰戦争のおりも、多くの民は協力を拒否したらしい。現在、会津の民が松平容保や白虎隊を自慢(とは言いすぎか)するのはおかしいはず。
 愚直に朝廷の守護をして朝敵といわれたが、賊ではないはず。会津戦争などの戦いの様子は郷土の誇れるところであった。
 いま冷静に考えて、苛政もあったが、それを乗り越えて郷土の誇りとしよう。という状況と思える。
 次回に述べるが、明治初期にも松平容保を支持する人は多くいた。明治維新の後、会津からは新時代の優れた人材が続出している。教育に力を入れた結果である。

 インターネットなどで調べるのであるが、諸説ある。意見の表明とはことなり、歴史的事実は? と訊かれると、判らないとしか言いようがない。
 苛政と書いたが、他藩と比べたわけではない。そんな時、わたしの考え方に合致する意見を採りやすい。
 常にそんなことを考えながら書いている。
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2017年05月23日

飯盛山

会津5 飯盛山
 会津若松市は観光地を巡って循環しているバスがある。
 まちなか周遊バス、左回り“ハイカラさん”、右回り“あかべぇ”である。一周55分。30分ごとに通る。1日乗車券(500円)を買えば何度でも乗り降りできる。なお1回だけは210円。
 これ以外のバスもある。わたしはこのまちなか周遊バスを使った。
 市内は片道通行が多く、工事中もあって、バスの駅(観光案内所)の説明図と実際の通行路が違うので注意。印刷されたカラーのバス路線図で、現在の通行路を確認する。裏には時刻表がある。
 会津若松駅前の、ハイカラさんの第一便は8:00。あかべぇの第一便は9:15。

 5月2日、晴れたので飯盛山に向かうことにする。あかべぇは待てないので、駅前から歩いて飯森山に行く。約2キロメートルなので、30分ほど。

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 駅前から東へまっすぐに歩くと、飯盛山の前に出る。バスなら5分。

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案内図、楽な参拝順路を行く。

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 白虎隊記念館の前を通り厳島神社の鳥居で右に曲がる。

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 厳島神社は小さい。

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 戸ノ口堰洞穴
 猪苗代湖の西岸戸ノ口から水を引いた。トンネルの水道である。

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 あの白虎隊20名は戸ノ口原の戦に敗れ、この洞穴を通って、ここまで来た。洞穴の長さは約150メートル。

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 水神社、この水道を守っている。

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 水の少ない会津盆地を潤す。

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 この階段を上れば栄螺堂(さざえどう)だ。

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 栄螺堂、この狭い建物に、登りと下りの二重の螺旋階段が組み込まれている。全体像が特異な形をしていることで栄螺堂という。正式名称は三匝堂(さんそうどう)。個人の所有物。

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 宇賀神、来歴も諸説あり、わたしには意味不明である。

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 ここを上がれば白虎隊十九士の墓に至る。

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 白虎隊十九士の墓所。20人が自決しようとしたが1人は助けられた。

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 そばにある慰霊碑

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 ローマ記念碑
 昭和3年、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたローマ市から寄贈された。柱はポンペイの廃墟から。

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 自決の場、この少年の見ている方向に鶴ヶ城がある。自決のとき、まだ城は落ちていなかった。
 通説では、戸ノ口原の戦に敗れ、疲れた身体で水道を通り、城の煙を見てこれまでと思った。
 実際は、城が落ちていないことは知っていたが、圧倒的な兵力の差があり、生き恥をさらすのを望まず、自決したという。その前に城に戻るか玉砕するかで激論があったという。

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 ちょっと見ただけでは、鶴ヶ城の建物はどこにあるか判らない。城の樹木に阻まれてこの写真では判別できない。城まで2キロほどだが、当時でもはっきりは見えなかったのではないか。見慣れているし、城の樹木の位置で、建物の位置は一目で判ったはず。

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 白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。五隊で合計343名である。白虎隊は本来予備軍だが、全兵力が出払い、援軍要請に対してこの少年部隊しか残っていなかった。
 装備も旧式の銃であり、火縄銃よりましという程度。官軍の新式銃の前になすすべもなかった。
 ローマ記念碑も、イタリアでは話もないのに、こちらから要請したとか。
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2017年05月20日

麟閣

会津4 茶室麟閣

 麟閣(りんかく)は鶴ヶ城公園の東南の隅にある。前回紹介した荒城の月碑の近くだ。千利休の子、千少庵が建てたと言われる茶室である。
 戊辰戦争後、城下に移築され保存されていたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内に移築復元した。

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 お堀に沿った盛り土の上から麟閣を見る。
 遅咲きの桜があちこちで咲いていた。

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 出口の隅で枝垂れ桜が満開だった。

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 この入り口から入る。

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 最初に目に入る茶室、寄付(よりつき)。
 茶道に暗いので、寄付と待合と茶室の区別を知らない。

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 客はこの門を通って、腰掛待合(写真なし)に行くことになる。

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 こちらは中心となる建物
 左の女性がのぞき込んでいる部屋が鎖の間。右が麟閣。

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 説明図 横1000ピクセル

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 普通の茶室とは異なり、控えの間もある。鎖の間といい、茶室につけられた書院的一室。ここから麟閣に行く。

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 茶室麟閣の躙口(にじりくち)。

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 入り口にあった受付の後ろの建物で一休みし、お茶をいただき、外へ出る。
 出口の枝垂れ桜を下から見る。
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2017年05月17日

鶴ヶ城

会津3 鶴ヶ城(若松城)

 5月1日、雨の降る日であった。
 会津若松といえば鶴ヶ城。戊辰の戦役で新政府軍の猛攻を受けた。

   ♪二十日籠りて城落ちぬ

と歌われたが、実際は一ヶ月の籠城で落ちなかった。結局降伏する事によって、戦は終わった。取り壊されたのは明治7年である。石垣は残された。
 昭和40年9月に天守閣が再建され、会津若松市のシンボルとなっている。

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 地図の外側に大きく外堀があったが、外堀は埋め立てられて今はない。
 北口から入ると北出丸を通り、椿坂を通って管理事務所に至る。
 西出丸からは梅坂を通り、二の丸からは廊下橋を通っても、やはり管理事務所の前に出る。
 今は“旧表門”から入場券売り場に行き、天守閣に上れるが、本来の登城の道は南に下り、表門から本丸に行ったのであろう。

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 椿坂
 さくらまつりの表示があるが、もう普通の桜は散ってしまった。いわゆる葉桜である。
 傘を差しての登城となった。

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 椿坂の突き当たり、この辺りの石垣は、きちんと整形された石で組み立てられている。

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 ここを曲がると、天守閣は近い。

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 上の石垣の内側にはこのような階段がついている。“武者走り”という。

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 鶴ヶ城(若松城)の天守閣の石垣は傾斜が緩い。

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 旧表門を通って、天守閣に入る。

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 天守閣は最上階しか展望がきかない。
 真ん中辺りの手前の山が、飯盛山である。

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 本丸跡、藩政の中心部である。天守の東側。

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 南走長屋、このような構造は他の城では見たことがない。天守の南側。
 中程の門が“鉄門”といわれる表門である。

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 天守の西側、桜の木に囲まれている。何だったのだろう。

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 登城の道である。天守の北側、武者走りが見える。

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 天守閣内は一方通行で、下りるときは南走長屋を通って外へ出る。
 出口より表門(鉄門)を見る。

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 真ん中辺りがもう一つの出口。南走長屋を通らずに出たい人はここから。

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 荒城の月碑。南東の隅にある。
 昭和22年に、作詞者土井晩翠夫妻を迎えて、除幕された。荒城の月碑は鶴ヶ城・青葉城・竹田城址の三カ所にある。

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 本丸側から天守を見る。
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2017年05月13日

塔のへつり

会津2 塔のへつり

 会津線の途中に“塔のへつり”という駅がある。塔の岪(へつり)という観光地があるのだ。途中下車して見に行く。駅から300メートルほど歩く。

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 “岪”はちょっとお目にかかれない珍しい字だ。へつりとはこの地方の方言で、危険な崖の意味だという。

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 塔の姿ははっきりしない。説明板がないと判りにくい。

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 この吊り橋を渡って、向こう岸へ行く。

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 削られてへこんだ部分は人が通れる。

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 下流方向、谷の深さが判る。

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 危険というほどではないが、気をつけて通る。

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 対岸つまり、向こうからこちらに渡ってきた。

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 上へ行く。

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 虚空像菩薩

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 茸の傘を思わせる。
 それほど広いところではないので、時間はかからない。戻ることにした。

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 ちょうど桜が満開だった。

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 土産物屋の飾り。何軒か店がある。
 昼時なので、ある店で、(会津の)名物だという、“ソースカツ丼”を食べてみた。ご飯の上に申し訳程度に薄くキャベツの繊切りを載せ、とんかつを載せ、ソース(市販のとんかつソース)をかけただけのもの。うわー二度とごめん。これなら普通に別々に出せば良い。ソースの量だって自分で調整したいし、キャベツも食べたい。
 キャベツが少なくて済む、使う食器が皿一枚省略できるか。まさか。なんかのいきさつがあったんだろうな。お新香が多種で、汁はかけそば。
 会津市内にもあるメニューだが、二度と食べる気がしない。
 トンカツそのものはおいしかったので、この出し方はもったいない気がした。
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2017年05月10日

会津鉄道会津線

会津1 会津鉄道会津線
 何年ぶりだろうか、会津若松へ二度目の旅である。
東武鉄道の新型車輌“リバティ”で、北千住から会津田島まで3時間ほど。そこから会津鉄道会津線に乗り換える。

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 まだリバティが運行して10日しか経っていない。会津田島ではみんながカメラを向けている。

 乗り換えて、“塔のへつり”で途中下車して2時間ほど過ごし(後述)、再乗車して会津若松に向かう。

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 特別列車である。2輌のうち1輌がお座敷車輌で、こうして靴を脱ぎ、布団に腰掛け、車窓を眺めながらの旅になる。4月30日、日曜日ではあったが、5月1日2日は平日なせいか、この車輌の乗客は5人だった。
 「お座トロ展望列車」というのがこれか。1輌はお座敷だったが、もう1輌はトロッコだったのか。そのようには見えなかったが。

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 会津線はかなりの高地を走る。だが山岳列車ほどの勾配はない。トンネルが多く、線路は直線が多いので、案外速い。45キロメートルの区間を70分。列車によって異なる。

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 沿線はあちこちで桜が満開であった。駅ではこうしてこの特別列車の写真を撮る人が大勢いる。
 外装の絵と桜が重なっておもしろいのかな。
 なおほとんどの駅は無人駅である。

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 こうした景色の良いところに出ると、しばらく停まってくれる。

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 トンネルに入ったら車内の照明は行灯スタイル。

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 ダム湖である若郷湖(わかさとこ)。阿賀川(阿賀野川本川)の上流にある。1987年(昭和62年)に竣工した。
 前回、バイクでこの橋の上を通ったときは、中程で身体がふるえた。

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 こちらは谷が深い。
 こうして駅以外でも停まるため、時間はかかる。この線はこうして車窓の景色を楽しむ旅だ。
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2017年05月07日

へび道と谷中銀座

へび道と谷中銀座

 地下鉄千代田線の千駄木駅の近く、千代田線の東側にほぼ並行して、へび道と呼ばれる細い道がある。なんとか車一台が通れる程度の道幅である。
 根津神社に躑躅を見に行き、その帰りに日暮里まで散歩した。

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 根津神社の北口から東へ向かって不忍通りを横切り、200メートルほどで、へび道に至る。ただし直線ではない。

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 この角に来た。振り返ったところ。
 ここから蛇のようにくねくね曲がった道が続く。

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 道は曲がって見通しはきかない。住宅街なので(といっても、しゃれた店などあります)、写真はこの2コマだけにする。
 この道は藍染川という川であった。大正10年(1921)に暗渠にされた。今でも下には流れているらしい。
 へび道が終わって、その延長の広い道をさらに進むと、急に外国人(と思える人)が多くなった。

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 まもなく、谷中銀座の道にぶつかる。

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 この狭く短い160メートルほどの商店街が、なんと国際色の豊かな街であることよ。多くの人が食べ物を持って歩きながら食べている。まるでお祭りのようで、不作法には見えないのだ。

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 「夕焼けだんだん」と言われる階段。
 この階段を上れば、まもなく日暮里の駅である。

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 谷中銀座を見下ろす。ここから日暮里駅まで300メートルもない。
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2017年05月04日

話せばわかる!

話せばわかる!
養老孟司対談集 身体がものをいう
養老孟司   清流出版   2003.9
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 20年近く前の各界の著名人との対談集である。
 それぞれが、一家言のあるひとばかり、蘊蓄に富む話をしている。
 次に記すのは、ほんのわずかの例であるが、対談の中に出てくる。本人が言ったというわけではない。
★山本容子 肖像画は似ていないからいい。似ていてはつまらない。
★竹宮惠子 ひとを描くとき、はじめは骨から描く。絵や文は最初は観察して書く。後のひとはそれを写すが、繰り返している内に内容が異なってしまう。
★岩城宏之 モーツァルトでも日本人が演奏すると、日本語になる。チャイコフスキーの曲を演歌のように歌えるのは日本人だけ。
★米原万里 同時通訳は本当なら透明人間であるべき。
 ひとつの言葉でくくれるいろいろな現象が、民族によって微妙にズレている。(ヨーロッパ系言語と)日本のように歴史や文化が異なる言語ともなると、そこら中にある。
★天野祐吉 昔は本を読むとき、声を出して読んでいた。それを黙読するようになった。日本語は視覚でも意味がとれるので黙読しやすい。
 天野さんは、黙読を発見した人に「考えたらスゴイ人ですね。耳を通さないで意味がわかるようになった。でもね、僕は黙読するとわりあい意味がとりにくい人間なんですよ。無意識のうちに声に出してみたり、頭の中で音読している」
 養老「僕は英語の本を読むとき音読になっちゃうんです」

 この本が発行された頃、著者は バカの壁 という本を出している。
 バカの壁では「話してもわからない理解できない壁がある」ということが主題だ。
 この題名と矛盾している。
 さらに 老人の壁 でも「薬は飲むな、害があるだけ」と非常識なことをいっている。(常識については「バカの壁」参照)。それでわたしは著者の見識を疑っているが、相手の話を導き、内容を理解できる能力はさすがと思う。
 双方の言いたいことの急所は十分に伝わってくる。判りやすく話している。
posted by たくせん(謫仙) at 06:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする