2017年10月29日

覚園寺

鷲峰山覚園寺(じゅぶせんかくおんじ)

 天園ハイキングコースに続いて覚園寺にいく。この寺は古都鎌倉の面影をよく残しているといわれる。

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 案内人に案内されて、丁寧な説明を受けた。写真は禁止なので、いわゆる観光客は少ない。
 1830年に火災で伽藍を失い、関東大震災でも被害を受け、一時は荒れたという。1950年以後に復興した。
 ここも谷戸(やと)に沿って、堂宇が並ぶ。

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 この門から境内に入るが、左の方に自動車でも入れる道がある。

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 愛染堂
 この前で、案内の時間まで待つことになる。見学時間は50分程度。

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 こうして待っている参拝希望者。
 待っている間に前回のグループが出てきた。十人ほど。わたしの回も十数人だった。
 この寺は昔は4宗の修行場だったが、政策により明治以後は真言宗となる。
 薬師三尊像は見栄えがある。十二神将像、阿弥陀如来坐像など。また黒地蔵が知られているが、現在は地蔵堂が修理中で、鎌倉国宝館にある。それは後日に見てきた。
 照明は暗くほとんど自然光の中で見るので、悪天候の時は拝観中止になる。わたしの回は三時の最終回だった。
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2017年10月28日

天園ハイキングコース

天園ハイキングコース

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 建長寺の半僧坊から天園ハイキングコースは始まる。

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 建長寺で紹介した、海抜145メートルの勝上献展望台から。
 ハイキングコースはあまり展望はない。すぐそばに民家の屋根が見えたりする。鎌倉を守る城壁の上を歩いているようなものだ。

 ほとんど写真を撮っていない。ちょっとした高みを巻いてしまったのか、案内ではあるはずのものを見落としてしまったようだ。
 前に通ったとき、十王岩あたりで、鶴岡八幡宮を見下ろした記憶があるのだが、樹が茂ったせいか見えなかった。町並みがわずかに見えただけ。

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 十王岩を過ぎると地図にない道がある。戻っていくようだ。

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 通る人に訊いて確認する。指道標の一番上の字は左だが、なんか右のようにも見える。

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 もし雨が降ったら逃げ込めそうな所。

 途中の分岐から覚園寺の方へ向かう。分岐ははっきりしているので迷うことはない。

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 途中で紅葉の落ち葉を見つけた。

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 上を見ると少し赤みがある。

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 このハイキングコースの終点である。
 なお、分岐から大平山を目指すと最高点のあたりに達する。そこはゴルフ場である。その先は瑞泉寺に通じるが、通ったことはない。
 わたしが前にこのあたり(建長寺裏)を二度歩いたときは、道とはいえないような尾根道を歩いた記憶もある。住宅地に下りたかな。一度は別な道から登った。山の中を通ったのかもしれない。下草がなかったので通れた。小さな石像があって、道らしきものはあった。30年以上経つので詳しい記憶が無い。もちろんメインのコースは変わらないだろう。
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2017年10月25日

長谷寺(鎌倉)

海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)

 創建は鎌倉時代より古く、奈良時代といわれる。しかし、梵鐘など鎌倉時代の銘が多い。
 太平洋戦争終戦直後に、浄土宗から独立し単立となった。
 鎌倉の地は狭く、先に紹介した建長寺や円覚寺などは、谷戸(やと)といわれる、小さな谷に建立されている。そのため、門から奥まで、谷に沿って曲がっている。平地の寺院が幾何学的に配置されているのとは異なる。
 長谷寺は、門を入ると下境内で、庭園などがある。主要な堂宇は観音山の中腹の上境内にある。
 その堂宇は関東大震災で倒壊し、その後に再建された。だからどの堂も見るからに新しい。

2017.10.22.1.jpg  案内図

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 長谷の駅から近い。門前の松の剪定中であった。赤い提灯には長谷寺とある。
 左の方から入る。

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 妙智池 入ると正面にこの池がある。

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 この階段を使わず、左の方から坂道を登ってこの上にいく。

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 その途中にひっそりと良縁地蔵。

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 その脇にひっそりと灯籠。

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 地蔵堂は新しい。見には行かなかった。
 さらにひと登りすると、上の境内に出る。

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 鐘楼
 1264年鋳造の鐘は宝物館にて展示。鐘楼の鐘は昭和59年に鋳造。

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 阿弥陀堂
 はじめにも書いたように堂宇は新しい。

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 阿弥陀如来座像 伝承では鎌倉時代に造立された。他寺にあったものを移したという。

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 観音堂

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 観音堂内には本尊の十一面観世音菩薩がある。このため、通称長谷観音といわれる。
 奈良時代の作と伝わるが、未詳である。室町時代までは遡れるようだ。木造では日本最大級という。

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 見晴台。よく紹介されている場所。鎌倉一望とは言いがたいが、名所だ。

 さらに眺望散策路がある。あまり行く人はいない。山登りになる。

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 こんな整備された道だ。紫陽花が多い。紫陽花の咲く頃は、入り口で待ち行列になる。

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 当たり前だが、見晴台よりよく見える。由比ヶ浜の海岸線が一望で、三浦半島も見える。

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 転輪蔵 経蔵である。一切経が収められていて、観音御縁日などには、回すことが出来る。

 下の境内に下りて案内図の右に方へ行く。

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 弁天堂

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 弁財天の洞窟がある。窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られている。

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 出世大黒天 有名らしいが…

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 和み地蔵 誰もがケータイを向ける。どんな話をしているのか。

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 放生池 案内図の右側の池である。
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2017年10月21日

建長寺

臨済宗建長寺派 大本山
巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)

 本尊が地蔵菩薩であるのは珍しい。
 建長5年(1253年)の創建で、鎌倉五山の第一位。
 鎌倉五山の第一位とは、禅宗寺院の順位であって、鎌倉寺院の順位ではない。

IMG_1213.JPG 案内図
 最初の門(外門)を通ると駐車場であった。この案内図は駐車場にあった。
 右側に赤い点線で囲まれて地域がある。修行道場で立ち入りは禁止である。
 
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 駐車場から総門を入る。

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 山門(三門)、円覚寺では山門を通るとき、中央に高い敷居があった。ここではそれを削って平らにし、通りやすくしてあった。

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 国宝の梵鐘、山門の脇にある。

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 この寺も柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。

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 この崇山門内は立ち入り禁止、案内図の赤い点線で囲まれた地域である。

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 仏殿前の柏槇
 開山禅師のお手植えという。樹齢は約七百六十年。

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 仏殿
 この前で僧侶が団体の参拝者に、説明をしていた。わたしが聞いたときは徳川将軍家との関係など話していた。
 仏殿は1647年に芝の増上寺から移築した。

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 仏殿に入る。
 本尊の地蔵菩薩坐像。

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 天井や周りの絵はかなり傷んでいるようだ。

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 法堂(はっとう)
 他宗派では講堂という。修行の中心の建物であったが、現在は修行道場は案内図の赤い点線内の地域になっている。まあ寺全体が修行場ではあるが。

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 法堂に入る。
 手前の釈迦苦行像(レプリカ)は2005年にパキスタンから寄贈されたもの。
 付け加えれば、釈迦は、苦行は正しい修行方法ではないと苦行をやめ、中道を進むことになる。

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 天井画は新しい。小泉淳作筆の雲龍図。

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金ピカの唐門、この奥が方丈である。
禅寺にふさわしくないのは、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したものだから。

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 法堂を横から。

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 方丈庭園

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 少し戻って、案内図の左側の道をさらに奥へ行く。
 図の外になる。突き当たりから山登りになる。

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 寒山拾得(かんざんじっとく)
 山登りの前に、少し広いところがある。そこにある碑の一つ。

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 半僧坊
 階段の道を登ると、半僧坊大権現にいたる。建長寺の鎮守である。1890年勧請という。建長寺は何度かの火災で創建当時の建物を失っている。徳川時代に徳川家の援助で再建した。そんな歴史を思わせる。
 左上に天狗、その他あちこちに烏天狗の像がある。
 このあたりが建長寺の最上部か。

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 半僧坊からさらに登る。勝上献、海抜145メートル。

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 建長寺を見下ろす。右上の四角い建物は鎌倉学園。
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2017年10月17日

円覚寺

鎌倉 円覚寺
瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)

 久しぶりの鎌倉、何十年ぶりだろうか。
 今更紹介するのも無用の有名観光地だが、歩いた記録だ。
 北鎌倉の駅で躓いた。前の人に続いて出たらなんと臨時改札口。地図ではそのまま右に行けば円覚寺だが、仕切りがあって行かれない。そのため駅をほぼ一周してしまった。

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 いよいよ円覚寺、臨済宗円覚寺派総本山。そうは言っても臨済宗の特徴などは一切知らない。
 鉄道が境内を横切る。ここまで来てようやく思い出す。

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 入り口から総門へ

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 山門(三門とも)
 この山門が一番知られているか。

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 仏殿
 中心の建物である。関東大震災で倒壊し、昭和39年(1964)に再建された。

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 仏殿に入る。まずは敬意を表して合掌する。

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 天井には見事な龍の絵がある。

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 仏殿で金澤翔子さんの書に出会う。若い女性ながら豪快な字を書く。一度お会いしたことがある。藤沢秀行先生の書展を見に行ったとき、別室で個展を開いていたのだ。

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 境内では、柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。仏殿の前にも並んであった。おそらく開山時に植えられたもの。

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 この階段を上ると方丈。門は唐門(からもん)。

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 唐門の門扉

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 方丈前の柏槇(ビャクシン)。

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 方丈に入る。本来住職の住まいだが、多目的に使われている。

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 方丈庭園の一部。

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 方丈の外に出て、脇を通り上に行く。方丈庭園を脇から。右が方丈で、そちらから見るように設計されているはず。

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 妙香池(みょうこうち)
 2000年に、江戸時代初期の形に復元した。放生池(ほうじょうち)である。
 わたしは放生池を見る度に、そのために生き物を捕まえるのは目的に反するのではないかと愚考してしまう。

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 リスを見つけた。台湾リスかもしれない。

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 最後に高みにある鐘堂に登る。洪鐘といい国宝である。
 隣の弁天堂の脇で抹茶を頂く。

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 古い道、この左に新しい道がある。

 塔頭は十九ある。さすが大寺院。原則的に非公開である。
 今回は一眼レフカメラを持たずに行った。写真は全てiPadのカメラである。
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2017年10月12日

草津白根山から芳ヶ平

1997年10月。草津白根山から芳ヶ平方向へ下った。
フィルムを整理していて見つけた。
スキャナーにかけてみたら、案外はっきりしていて、当時を思い出した。
バスで白根山の峠まで行く。

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小さく見える建物は芳ヶ平ヒュッテ

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 芳ヶ平は湿原である。
 山は草津白根山

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 草津白根山は火山で、上部は植物が少なく荒れている。
 裾野はまばらな紅葉樹

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 これらの写真はポジフィルム、当時人気のあったフィルムだが、赤が濃く出やすい。
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2017年10月07日

賢帝と逆臣と

賢帝と逆臣と  小説・三藩の乱
小前 亮   講談社   2014.9
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 康煕帝が八歳で即位し十五歳にして親政し、三藩の乱を押さえて三藩を取りつぶす話と、雲南の呉三桂が反乱せざるを得なくなる過程が、この小説の二つの軸である。
 それを李基信という架空の人物の視点で描く。
 わたしは鹿鼎記などで、この小説の舞台(時代)を知っているので、結論が先に見えてしまう。

 本書では康煕帝を中国史上最高の名君と評価する。康煕帝が権力を計画的に取り戻す話と、三藩を取りつぶす決断。それに税金を上げないことは評価できるが、それで史上最高の名君といえるかどうか。
 清朝は建国の荒事はその前のドルゴンの時代にほとんど済ましているので、それに乗った面もあるのだ。残ったのが三藩だった。
 明朝最大の実力者でありながら、雲南で滅ぶことになる呉三桂。この呉三桂を、明から清に寝返った将軍と見ている。だがその視線は冷たくはない。
 この呉三桂は決して明から清に寝返ったわけではない。
 李自成が明を滅ぼし、清と対峙している呉三桂を後ろから攻撃した。呉三桂は明を滅ぼした李自成に下るわけにはいかず、やむを得ず清に投降した。今回の反乱も、康煕帝の三藩取りつぶしの意思を知って、仕方なく反乱している。
 この中で、庶民は異民族支配を受け入れているのが興味深い。決して漢民族王朝でなければ、などとは思っていないのだ。そう思うようになるのは、異民族支配が非道になった時。
 そのことを理解している呉三桂は、長江から北上出来ない。漢民族というだけでは庶民はついてこない事を知っていた。
 呉三桂は異民族支配に反対しても、一般の人たちは、異民族支配を助けたのが他ならぬ呉三桂、ということを知っている。異民族支配に反対なら李自成に投降すべきだったのだ。

 呉三桂が先に三藩の協力をと思っているうちに、勝機を逃してしまう。
 結局滅ぶことになる。
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2017年10月02日

月に捧ぐは清き酒

月に捧ぐは清き酒 鴻池流事始(こうのいけりゅうことはじめ)
小前 亮   文藝春秋   2014.3
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 山中新右衛門幸元。鴻池といえば大坂(大阪)の財閥だが、その始まりが、この人物である。なんと尼子一族の再興に生涯を捧げた山中鹿之助の息子とか。
 戦国の世に、山中新右衛門が武士をやめ、商人として生きていく感動の物語である。
 はじめ上質の木炭の販売を手がけ、それを横取りされると、酒の製造を始める。
 落語で、こんな話がある。
 不満を持った従業員が酒樽に灰を投入して逃げていった。それがなんと濁りが下にかたまり、清酒となっていた。これが清酒の始まりだ。
 この小説でも、途中で似た話が噂となった。だが山中新右衛門は放っておく。競争相手がそんな話を信じているようではうまくいかないと。

 徳川家が江戸を開発している。そこで、大坂で造った酒を江戸に運ぶ。ところが普通に運んでは痛んでしまう。その輸送にも苦心を重ねる。
 大坂では他の蔵と五分の味でも、江戸に持っていくと圧倒的な人気を得る。
 清酒造りの改革に成功し、物流の工夫も成功し、息子たちを分家したりして、大坂の財閥となる。
 特に幼なじみである妻のはなと、仲睦まじく協力していく様子は心が温まる。
 物を運ぶことは幸せを運ぶことだ。商人のこころである。
posted by たくせん(謫仙) at 11:55| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする