2018年09月22日

旧白河街道

旧白河街道

 白虎隊は滝沢本陣から出陣し、白河街道を通って、猪苗代湖に近い戦地に向かった。今では新しい道がある。
 この道は一応地図には載っているので、歩いてみようと思う。
 飯盛山下で昼食を摂り、訊いてみた。
「この旧道は歩けますか」
「石畳の道はありますけど、熊が出没するので、今では通る人はいませんよ」
「歩いてみたいのですが、バスは通っていますか。帰れますか」
 親切にもバスの時刻表を調べてくれた。
「全部歩くと、帰りが大変ですが、途中の金堀までならバスがありますよ。2時間くらい」
 旧滝沢本陣から緩やかに登り始める。

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 この地図にはないが、滝沢峠を過ぎてまもなく金堀であり、山を巻いて滝沢本陣に帰るバスの通る道がある。

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 ここから左の旧道に入る。

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 広い歩きやすい道である。

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 出会い頭に熊に遭遇しなければよいが……、遠くに見えたなら熊の方が隠れると聞く。だから熊に対する恐怖心はない。

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 舟石
 神が天下ったとき乗った舟が石になったとか、説明板にあった。さらに唄も。会津盆唄らしいが聞いたことがない。検索でも出てこない。

〽 ハァー恋(鯉)の滝沢 舟(鮒)石超えて 親は諸白 子は清水

 意味が判りませんが。諸白とは上等の酒です。
 金堀からさらに猪苗代湖の方に行くと、強清水(こわしみず)といわれるところがある(行政上の地名ではない)。そこには清水が湧き出ている。
 むかし樵の親子がいて、実直な父親が湧き水を飲むと諸白であり、ぐうたら息子が飲むとただの清水だったという伝説がある。


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 こんな休憩所もある。それなりに人が整備している道のようだ。芭蕉の句碑もあるが、芭蕉はここを通っていない。
 ここには明治の初めころまで茶屋があった。

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 まもなく最高点を超える。急に道が草深くなった。

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 振り返る。この道を歩いてきた。この先には「私有地」の文字が見えるが、全く利用されていない。通る人も少なそう。交通止めの表示も倒れたまま、長いときがたっているようだ。

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 戦死十八人墓
 慶応四年八月二十三日、つまり新政府軍がここを通って会津盆地に入った日である。この日の戦いで、この近くで死んだ会津兵の墓。

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 金堀の集落が見えてきた。ここまで一時間半。

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 バス停留所。金堀は終点で、若松駅に引き帰す。
 この日は水曜日、かろうじて、14:00のバスがある。
 まだ二十分の余裕があった。もし山道で二時間以上かかっていたら、次のバスまで二時間以上待つことになる。それなら歩いて帰ることになるか。

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 目の前には田畑が広がる。稔りの秋を控えている。

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 山側は蕎麦畑で花が咲いていた。
posted by たくせん(謫仙) at 08:22| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月15日

会津戦争の鶴ヶ城

会津戦争の鶴ヶ城

 昨年の春に行った会津若松に、今年の九月も行ってきた。団体で東山温泉に二泊し、その後ひとりで駅前のホテルに三泊した。

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 ひとりになってから訪ねた御薬園のガイドから、会津戦争の話を聞くことができた。
 会津武家屋敷で書いた疑問の答えである。
 新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
 西郷の家族の自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。

 答えは「入っていた」のである。

 小田原城は町全体を囲む堀をもって戦ったため、豊臣秀吉軍も落とすことができなかった。のちに大阪城も外堀を構え、秀吉は「この掘がある限り大阪城は落ちない」と、豪語したという。江戸城も鶴ヶ城も真似て外堀を構えた。
 鶴ヶ城の外堀は、今では埋め立てられてしまったが、会津戦争当時はあったのだ。
 その外堀が役に立たず、その日のうちに無抵抗で破られてしまった。その理由である。

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 当時会津軍は各地に散っていた。8月21日の母成峠の戦いで敗れ、最後に残された少年の予備軍である白虎隊まで投入したが、それも一撃で敗れ、23日には新政府軍は城下に突入した。
 白虎隊とは、数え16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。現代なら中学生だ。
 外堀で戦うにも、もはや兵はいない。その日のうちに外堀の内側まで入られたのである。
 城の中に残っていたのは、女性・老人・怪我などで戦えない男・城主守護役の白虎隊員や白虎隊にも入れないこどもだけであった。
 本来ならここで落城である。しかし、落ちずに一ヶ月後に降伏することになる。
 鶴ヶ城が落ちなかったのは、攻める新政府軍の事情もあったにしても、この人たちで一ヶ月も保ったのだから奇跡的である。

 会津城下の庶民は、疲労と食料不足で疲弊していた。会津藩は将軍家の軍として平時から強力な軍を保持していた。そのため酷税であったので、戦になっても庶民の支持はなかった。庶民は新政府軍の侵入を喜んだともいう。会津藩が斗南に移るときも、見送る庶民はひとりもいなかった。
posted by たくせん(謫仙) at 06:36| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする