「昔はコミ五目」について
囲碁 日本の名随筆1 中野孝次 編(1991年)を読んでいてある疑問が生じた。
p152に呉清源先生の次の文があった。
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昔はコミ五目と定められてをりました。近頃は大体、四、五目が行はれてをりますが、私はこの五といふ数は自然に適つてゐるのではなゐかと思ひます。
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わたしは今まで、昔はコミがなかったという前提でいろいろ書いていたが、間違っていたのだろうか。気になった。
ウィキでは
江戸時代には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。……略……連碁などでコミが採用される場合には先番5目コミ出しのケースが多かったことから、当時から先番の有利さはこの程度と見られていたことがわかる。
これをもって「昔はコミ五目と定められてをりました。」と言えるのか。
原文は1942.9砂子屋書房「随筆」である。(巻末に記載)これは名人戦のコミ5目の成立前である。
コミの歴史である。
1934年 試験的に導入されたが、コミ2目半であった。
1939年 第1期本因坊戦は、互先コミ出し制で対局する日本で最初の棋戦ともなった。コミは4目半であった。
1942年 「随筆」が書かれた。
1961年 名人戦が始まり、コミ5目ジゴ白勝ち、そしてジゴ白勝ちは通常の勝ちより劣る。俗に“半星”といわれた。
1964年 ほとんどの棋戦がコミ5目半になる。(本因坊戦は1974年まで4目半)
2002年から 順次コミ6目半となった。
韓国では2000年から6目半。中国では制度が違うが2001年から実質7目半である。米国では7目半。
それにしても1942年の段階で、「昔はコミ五目と定められて」と言い切ったことに驚く。そう言わせた何かがあったはずである。
当時は書き手が別にいて、呉清源先生が直接ペンを持つことはなかったという。
書き手が言葉の解釈を間違えたのかもしれない。