2008年07月24日

<こども> のための哲学

   永井均   講談社   1996.5
 これは哲学の入門書だ。批評家養成書ではない。スポーツにたとえれば、観戦者ではなくプレイヤーになるための入門書である。
 著者は哲学を4つに分けている。
 こどもの哲学・青年の哲学・大人の哲学・老人の哲学。
 年代により扱う問が異なるのだ。
        kodomonotamenotetugaku.jpg
 こどもの哲学は存在そのものの疑問。ものごとがこうあることの不思議さ。問は「どうなっているか」という形をとる。書名や本文に<こども>としているのはこの意味である。
 青年の哲学は人生どう生きるべきかを考える。わたし(謫仙、以下同じ)は今までこれが哲学だと思っていたが、それは哲学を自覚したのが青年時代で、哲学書はこれを扱ったのが多いかららしい。
 大人の哲学は社会の在り方、世の中の仕組みはどうあるべきか。理想の社会を問う。
 老人の哲学は死や無を考える。同時にこどもの問「存在」も再び考えることになる。
 そして、青年・大人・老人の哲学は文学・思想・宗教で代用できるが、こどもの哲学は代用できない。
 ソクラテスは、「世の識者たちは、自分が大事なことを知らないことに気づいていない……、それに対して自分は知らないということを知っている」と言った。
 ところがこどもは、「自分は知らない」ということを知っているので、常に疑問を持つ。
 著者は「こどもの哲学」の「存在」に対して、二つの問を立てて、思考する。

  なぜぼくは存在するのか。
  なぜ悪いことをしてはいけないのか。


 読んでいると、わたしもこどもの時代や青年時代に漠然とであるが、同じようなことを考えたことに気づく。大人になって忘れてしまったことだ。
 哲学は思考過程が大事で、結果つまり答えは重要ではない。まるで数学のようだ。答えよりも、どうしてその答えが導かれたかが問題なのだ。
 このことを敷衍すると、哲学は問いを立てることが大事で、その問いの中に答えが含まれているともいえる。
 上記の二つの問も、問の意味を考えなければ立てられない。
 「ぼく」とは、「存在」とは、「悪いこと」とは、「してはいけない」とは。
 そしてその思考が答えになる。
 著者は大人になってもそのことを考え続けた希有な人なのだ。同時に他の人が考えないことに愕然としている。大人は「そんなあたりまえのことを」「そんなたてまえを信じる人がいるとは」と、正反対の反応があるが、すでに思考を止めている。

 わたしは以前、某氏の発言「お金で買えないものなんて、あるわけないじゃないですか」に対して反論するのを読んでいて、話がずれているなあ、と思ったことがある。残念ながら、発言者はそれだけのお金がなかったため、夢を実現できなかったようだが、言っていることは正しいと思った。ただし、それだけ(どれだけ?)のお金を手にすることは不可能なのだ。たとえばなにか目的があって、日本人全員を10億円づつ使って買収するとすれば、必要なお金はいくらになるか? その時、そのお金は価値を維持できるのか。
 わたしは「お金で買えないものはないが、そのお金を手にすることは不可能」と思った。「もしお金を手にすれば……」という、手に入らないものがあたかも手に入る可能性があるような言い方を、詐欺師の発想だと思ったのだ。
 普通の人はわたしの発言に対して、「それを『買えないものがある』と言うのだ」と言うかも知れない。だからわたしの思考方法は哲学的かもしれない。ここに「現実=お金が手に入らない」と「理論上=買えないものがある」のせめぎあいがある。ネット上でもこの両者を一緒にしたかみ合わない発言反論が飛びかっている。

 そんなことを根本に立ち返って考えさせる本だった。
posted by たくせん(謫仙) at 06:35| Comment(6) | TrackBack(1) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の弟は哲学専攻で、何冊か、哲学の本を書いています。
入門書というか、哲学を主題にしたエッセイに近いものなのですが・・・

彼は大学を修士課程に進みますが、そこでの現実は、語学を学び、哲学書を
翻訳して、生きていくための学問だったそうです。
彼は中退して、趣味として哲学を楽しむことにしたそうです。

哲学は人の考えの根本・・・
いろいろな考えがあって・・・
だから楽しいのかもしれません。

「ソフィーの世界」という本がありましたね。
子供の手ための哲学入門・・・
ノルウェーの子供は読めるのでしょうか。
読みましたが、子供には無理ですね。
読み飛ばして、小説としてなら別ですが・・・
Posted by オコジョ at 2008年07月25日 18:38
<そこでの現実は、語学を学び、哲学書を翻訳して、生きていくための学問だった

 わたしは中学時代、音楽は「3」でした。今でも音痴で歌は歌えないんですよ。ところが学校は実技(歌や演奏)ばかりでなく、音楽の歴史とか、その構成とか、標記の仕方とかいう、知識も学ぶわけで、だから音痴でも「3」だったンです。
 哲学もそうではないかと思います。哲学的思考を学ぶことと、その背景、つまり歴史や世界などの知識を学ぶことと。
 弟さんはプレイヤーになりたかったのに、大学院は観戦者としての知識を教えた、ということでしょうか。
 わたしは、今の日本で哲学のプレイヤーとして生きていくのは難しいのではないかと思います。そうなると哲学で生きるために知識を教えざるをえないのか。

「ソフィーの世界」は構成が複雑で、こどもには無理ですね。大人でもなかなか難しい本です。わたしは書庫に紹介することもできませんでした。当時はHPもありませんでしたが、もう一度読んでからと思いながら10年以上になります。興味を持たせるため小説形式にしたので、こどもには難しい本になりましたか。
言葉の問題があるかも知れません。
Posted by 謫仙 at 2008年07月26日 05:58
昨日、某氏の二審での実刑判決が出ました。
「悪いことをやったとは思っていないし、なぜ悪いと言われるのか理解できない」と言ったそうです。
これは「悪いこと」の世間常識は自覚していて、自分のしたことはその悪いことに該当しない、と思っているという発言でしょうか。
それとも「世間で悪いというが、自分は悪いとは思わない」、つまり世間常識が間違っていると言っているのでしょうか。
どちらでしょう。そんなことを考えてしまいました。
Posted by mino at 2008年07月26日 10:17
某氏の場合、悪いこととは「法律に違反すること」でしょうか。だから「道徳律に反しても法律には反しない」を、いいかえたように思います。
世間の批判は、道徳律が多い。道徳律なら見解の分かれるところでしょう。
宗教律なら行動も求められるか。
道徳律では悪いことはしてはいけない、ことは自明の理。哲学的には、そこで「なぜいけないのか」と考えます。わたしも読んでいながら答えられませんm(__)m。
Posted by 謫仙 at 2008年07月27日 10:48
なるほどいろいろな考え方があって面白いです。

某氏の善悪の概念。・・・主観によるものさしにおいての善悪判断というパターンではないかと私は考えました。
他人がどうゆう考えであろうとも、世間が善悪の基準を道徳、法律で決めていようが、自分が正しいと思ったことはすべて正しい。
しかしながら、最終的に善悪を決定づけるのって自分の主観的ものさしですよね。
なぜなら他人がどれだけ自分が間違っているということを、誰もが否定できないほど完璧な論理的に説明されたとしても、自分がそれに納得できない限りは{自分}にとってその{他人}は正義ではないんですから。

主観的判断における善悪概念・・・彼の思考展開の推測をするにおいて可能性は無きにしも非ずだなぁとぼんやり考えていました。
Posted by kokko at 2009年04月30日 19:42
kokkoさん。
道徳律がどうあろうとも、法律がどうあろうとも、わたしは……。という考え方ですね。確信犯ですか。
たとえ法律に違反していても、わたしは悪いことはしていない。
主観による正邪の判断。確かにその可能性は高そうです。

これはもしかすると、本人もはっきり自覚していないかも知れない。永遠の謎になりそうですね。


Posted by 謫仙 at 2009年05月01日 06:21
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永井均『<子ども>のための哲学』
Excerpt: こんばんは。今回は哲学者永井均さんの著書『<子ども>のための哲学』についてです。これも確か高校生のときに手に取った本。僕は結局大学では史学の道に進み、高校時代も大学では史学をやると決めていたのですが、..
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Tracked: 2008-09-09 01:26