池田俊二 05.3 PHP研究所
まず新聞に載っている俳句を、あそこが違う、ここが間違っている、と批評し、その選者の日本語能力を疑う。
さらに正岡子規や高浜虚子をはじめ、歴代俳人の日本語の間違いにあきれかえっている。せめて高校一年生程度の文法の知識を持って欲しい、というのだが。
その後は、旧仮名遣い、失礼、歴史的仮名遣の例をあげ、学ばなくても読めるし難しいことはない。合理的で、誰でも一週間も学べばマスターできる、と続き、そして新かなのおかしさを取りあげ、問題点を指摘し、歴史的仮名遣に戻せばこれらの問題は解決する。と説く。
ある論争では、
「金田一京助なみの軽薄な、偽善的言語観、文化観をお捨てにならない限り、この件についてはお話になりません」
と結んだら、反省をせず、絶交状を送りつけてきた。
という。もちろんこう言うくらいだから、漢字も旧字に戻せ、だ。
英語の例を取りあげ、発音と表記が乖離しても、連続性を守るため、表記を変えない。だから日本語もそうすべき。つまり、仮名遣いや字体をもとに戻せという。
ここまで読んだだけで、この本の矛盾に気づく。
日本語は漢字があるので、発音記号でもあるかなは発音に即した方が良いだろうに。
戦前は文語もかなり力を入れて教育している。仮名遣いは旧かなだった。
著者の指摘する現代の問題は戦後の改革によって生じたという。戦前は著者の理想の教育環境であったはず。それでも歴代の俳人たちが間違えるほど難しい。その文語を、現代人が一週間でマスターできるはずがない。なにしろ使っていないンだから。
途中で、「文語が理解できないなら、口語で俳句を作ったらいかがですか」というのだけは賛同した。もっとも賛同の内容は、「できないなら」という仮定だ。理解できるなら文語でよいということ。
そこで著者の指摘する間違いだが、本当に間違っているのか疑問に思った。もちろん明らかな間違いもあるだろうが、それは口語でもあること。それを除いた基本的な問題だ。
著者は高校一年生で判る文法というが、それは文語の初歩である。それで間違っているように見えても、高度になれば、いろいろ例外が出てくる。むかしの人は(平安時代など)間違えなかったと褒めるが、それは当然で、それを文語の基本にしているのだから。
しかし文語も変わってきている。明治時代に定まったともいえるのだ。
著者の指摘する間違いは、平安時代文法(おそらく口語)では間違いでも、明治時代文語文法では正しいとしたのかも知れない。わたしには確認することはとてもできない。
以前、栗本薫さんが、文語の文を見て、「才気かんばしったというタイプの文学少女がよくやるが、間違いがあちこちにある。文語は奥が深い。簡単にはマスターできない。文語だろうが口語だろうが、よい文章はよい文章だ。だから文語はやめなさい」という意味のことをいっていた。
著者はたとえばウ音便の問題を取りあげている。ウなのにオと発音するのはおかしいと。だが、旧仮名はハヒフヘホはワイウエオとも発音した。それは頬被り。それどころかウ音便は旧かなの名残なのだ。完全にオに変わりきっていないので、ウで表記している。
「でせう」が「でしょう」となった。旧かなにしてもウ音便はあるのだ。
松尾芭蕉は「はせを」。これで「ばしょう」と読む。
藤あや子ファンの集まるある掲示板で、皆が「こんにちわ」「こんばんわ」と書く。わたしは「こんにちは」と書きませんかと提案したことがある。次の数人はそう書いたが、すぐに元に戻ってしまった。著者ならどう判定するか。「waと言っているのにhaとは何事ぞ」とお叱りをいただくかもしれぬ。
「ゐゑを」と「いえお」の区別などわたしにはできない。むかしの人が間違えないのは、それは別な音だったから。
たとえば上と神、両方ともカミと読むが、むかしは母音が違うので、別な読み方だった。
「じ」と「ぢ」も区別できない。
「ず」と「づ」の指摘も間違っている。手綱のかな「たずな」は「たづな」にすべきと指摘するが、試みに「たずな」と入力するとATOKは「『たづな』の誤り」と指摘する。
「出ず」は出ない「出づ」は出る、と思っていたが、「出づ」は間違いで「出づる」が正しいという。「出づ」は間違いか。戦前の人はよく使っていたと思うのだが。
駒形どぜうは「どじょう」と読む。だが旧かなではこれは間違い。「どぢやう」となる。無理すれば読めなくもないが、書くことは不可能。「どぜう」とて、二百年前は誤りでも百年前は正しいとされたかも知れない。
明治時代に大槻文彦が作った言海は、もちろん旧かなだが、それは言葉の語源が判らなければ表記方法が定まらないのであった。明治の国語学者でさえ、旧かなは研究しなければ判らないものだったのだ。それほど難しい。文語でも大槻文彦は明治憲法の間違いを指摘したこともあるという。憲法草案者でも間違えるのだ。
おかしなところは旧かなの方がはるかに多い。正すなら、わたしなら新かなの瑕瑾を正すことを提案する。
漢字はなんともいえない。新字体の瑕瑾を正した方が早そうだ。たとえば「螢・學」の上が「蛍・学」と同じことなど。
旧字体は、読めればいい。古典を読みたい人だけが学べばよい。むかしの人も書くときは略して新字体に近い書き方をしたという。
最近はパソコンの発達によって、旧字体が使用される例が多いが、その状況によっては復活の可能性がなくもない。その方面からアプローチすれば説得力があるが、それを言えばパソコンのない時代の新字体を弁護することになるのかな。
いろいろと問題のある本であるが、大変参考になった(^_^)。
2.「手綱のかな『たずな』は『だづな』にすべきと指摘する」の「だ」は「た」の誤りではありませんか。
ありがとうございます。おっしゃるとおり、私の間違いです。いま訂正しました。
引用部分に間違いがあっては、著者に申し訳ないこと。
まして、批判するのに、批判の対象を間違って引用しては言語道断。恥ずかしい限りです。