江崎誠致 1983 新潮社
ご存知の如く、爛柯(らんか)は碁の別名である。樵が時の経つのも忘れて、碁を見ていたという故事による。
この本は碁の本ではない。著者の初期の随筆である。すこし碁の話もある。
著者の人生は戦争の影が大きい。そして得た諦念。
本を読むとき、新しい知識を得ることと、もうひとつ読者の心の代弁に対する共感がある。
自分がいつもぼんやり思っていたことを、はっきりとさせ、「そうなんだよ。俺はそれがいいたかったんだよ」と自分の考えをはっきりさせてくれる役割だ。
この随筆に共感できる人はどのくらいいるだろうか。わたしは共感した。
戦争に対する観察眼は特に貴重だ。
たとえば戦死、「きけわだつみのこえ」はひとの心を打ったが、文を残さなかった二百万以上の死者も、同じように、人生を持ち心を残して死んでいったのだ。
しかも特攻で死んだのは素人兵ばかり、職業軍人は特攻には出ない。重要で危険な仕事になると、ふだん威張っている職業軍人は引っ込んでしまう。
ルソンでは極限状態を経験し、経験していない人の戦争に対する思考の浅さを指摘する。
たとえば戦地の食料調達に心の痛みなど感じるはずがない。食べ物がなく腹が減っても「人」は食わない。飢えると、食う気力もなくなってくる。食欲さえなくなるのだ。
そして、帰ってきたときは、腹は両手の親指と人差し指で輪ができるほどに痩せ細っていた。
母親の葬式の話もある。葬式を否定するつもりはないが、葬儀社は金の話ばかり。
ついに心を決めて
「坊さん呼ぶのはやめます」
「それじゃ、葬式になりませんよ」
「そう。葬式をやめます。従って飾り付けの必要もありません」
火葬場の窯まで等級があった。
わたし(謫仙)も同じ思いがある。
葬式は、残った人の心の整理をするため。死者のためではない。「冥福を祈ります」と挨拶するが、冥福は存在しない。残された人の心に福が宿るのが目的だ。
宗教者は納得しない。僧侶に至っては、別の葬式の存在さえ否定する。お墓にしても、先祖のお墓に入らなければならない、ということはない。葬式だって必要ないのだ。まわりの人を納得させるために行う。納得できれば葬式はしなくてもよい。
それを実行した著者に敬服する。
人生に対する覚悟ができている人、といっていいのではないか。
なお、著者は処女作「ルソンの谷間」で直木賞を取った。