2019年12月18日

黄昏の岸 暁の天

  十二国記シリーズ  黄昏(たそがれ)の岸 暁の天(そら)
小野不由美   講談社
2009.1.14 記
   
 この本はこのシリーズの初め、「月の影 影の海」の次に読んだ。だが、紹介文も書かないままだった。再読してみると、今までに紹介した物語の後に来る話であった。
 再読して、その宗教問答の深さに気が付く。
 それは唐突として出てきたわけではない。シリーズ全体にその哲学が流れている。普通シリーズものだと、その回だけの設定でもっともらしくなるが、別な回では別な哲学で矛盾することが多い。長くなると人格まで変わったりすることもある。
 このシリーズは一貫している。そこに作者の力量が伺えるのだ。
 載の国に新王がたち、幼い泰麒が泰王に従った。だが二人とも行方不明となる。そこからこの物語が始まる。

    tasogarenokishi.jpg

 戴の女将軍李斎が慶の国に援助を求めて駆け込んだ。利き腕の右手を失い命も危うい状態であった。
 李斎の話で、戴の様子が判った。
 泰王が登極して半年後、地方に反乱が起こり、泰王が親征し行方不明となる。その知らせに衝撃を受けた泰麒は突然姿を消した。だが白雉が鳴かないので、王は生存している。
 そして前泰王の時代に、現泰王の同僚であった阿選が偽王となる。王と麒麟がいない戴は荒れていく。そして阿選はそれに輪をかける人物だった。不穏な動きがあると、捜索などせず、その村を全滅してしまう。そうして民が減っていき国は荒れていった。もともと戴は北の国、一冬毎に村が減って行く。
 国を救うには王と麒麟の帰還が必要であった。そのために残された臣には手段が無かった。それで李斎は慶の陽子に助けを求めたのであった。
 だが、景王陽子が軍を起こせば、慶が滅ぶ。それがこの世界の理(ことわり)である。しかも慶も建国したばかりで余力はない。
 陽子は、各国に呼びかけた。雁の延王と延麒、範の氾王と氾麟、漣の廉麟が駆けつけて、戴の泰麒を探すことになる。範の鴻溶鏡と漣の呉鋼環蛇などを使って、なんとか探し出す。
 その途中で、陽子たちは前例のないことをやろうとするとき、蓬山の璧霞玄君玉葉に判断を仰ぎに行く。
 この世は天が定めた。世界は天の定めた理を持つ。その窓口が玄君であった。

 李斎の言葉 …は省略
「…玄君を介して天の意向を問う、ということですか」
「では、天はあるのですか」
「では、天はどうして戴をお見捨てになったのです?」
「…天の神々がおられるなら、なぜもっと早く戴を…助けてはくださらないのですか」
「…だから、わたしは罪を承知で景王をお訪ねしたのです」
 陽子や李斎たちは雲海を越えて行く。四日で蓬山に着いた。
 そして蓬山に行くと、玄君は知っていた。
「…ならば戴で何が起こったか、それだってご存じだったはずだ」
 そんな力があるのなら、次の王を定めるのに、なぜ二ヶ月もの、死に直面する苦労して蓬山に昇山させるのか。天意を諮るためなら、雲海を越えて来ればいいのではないか。事前に決まっているのなら、昇山の必要もないはず。現に陽子は昇山していない。昇山の途中で死んだ者たちは、なんのために死ぬ必要があるのか?

 陽子は言った。いま分かったことがあると。
「もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、過ちを犯すであろう」
「だが天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであるならば、必ず過ちを犯す」
「人は自らを救うしかない、ということなんだ」

 玄君は泰麒を救う方法を教え、「天にも理があり、これを動かすことはできない。是非を問うても始まらない…」と諭す。

 この問答、まさに宗教問答ではないか。おそらくヘブライクリスト教の教徒はこれを認めないだろう。だが仏教徒ならよく判るのではないか。

 そこまでして、泰麒を探し出したが、泰麒は無力であった。李斎はいつの間にか戴を救うのではなく、泰麒を救うことが目的になってしまっていて、それが自分を救うことであることを知る。
 泰麒を救うため、また蓬山に行くが玄君でも救えないため、西王母にすがることになる。
 玄君は美人なのに、この西王母は凡庸な顔立ちだった。
 西王母と李斎の会話。
泰麒は「…もはやなんの働きもできぬ」
「それでも−必要なのです」
「なんのために?」
「戴が救われるために」
「なぜ、お前は戴の救済を願う」
 李斎は言葉につまる。親族をはじめ友人知人はほとんど死に絶えた。
 この根本的な問題は、誰も答えようがない。答えがないのだ。

 泰麒が回復した後、李斎と泰麒は皆に感謝しながら、ひっそりと戴へ向かう。

 読み返すだけの価値のある本だった。
posted by たくせん(謫仙) at 09:10| Comment(5) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
謫仙さん、こんばんは

もう2回お読みでしたか。私の読み進捗は全然かんばしいものではありません・・・

天帝もいい加減にしろよと時々思います。慶の予王、祥瓊のお父さん、巧の錯王のことを考えると、あの人たちを王に立てた天帝はやはり多くの過ちを犯したのではないでしょうか。

王が失道すれば国が傾け、王がいなければ国に妖魔が横行し、天災が下ります。次の王が立つまで、庶民がその苦しみに耐えなければなりません。あいにく麒麟も死ねば、そのような生活は数十年続く可能性さえあります。李斉がなぜ言葉に詰まったかちょっと理解できません。まあ、未だその部分を読んでいませんから、なんとも言えませんが。

泰麒は泰王を心配しすぎたと思います。自身のほうがよっぽと危険だと気付いていません。或いは使令を多く作ればよかったのに。性格というか、運命というか、性格が運命を決めるということかな。

陽子はこの世界の理に疑いを持ち始めたようですね。新しい時代を切り拓く前奏でしょうか。「黄昏の岸 暁の天」は最後の一冊としてなんだかの意味があるような気がします。

読み返すだけの価値のある本と仰っているので、頑張って最後まで読みます。
ちなみに、アニメで「呉鋼環蛇」を使って泰麒をつれてくる時の背景音楽が大好きです。

ちなみにのちなみに、今日の阿含・桐山杯の決勝戦を現場でご覧になりましたか。謫仙の記事から知りましたが、今日偶然に中国のスポーツニュースのサイトを見たら、なんと日中対抗戦ですね。張栩さんは中国系の方ですか。
Posted by zhtfan at 2009年01月17日 21:16
zhtfanさん。
そもそも、天はなぜこのような世界を作ったのか。天の目的は何か、という話になってしまうと思います。
SFではよくある話で、天は人の養殖場としてこの世界を…。なんて話になれば、個々の幸不幸は問題外。もしかすると陽子のような人物の出現を求めたか。玉葉の能力をためしているか。
少なくとも、天は個々の問題には関知していませんね。人から見れば過ちでも、妖魔から見れば過ちではない。
人の面だけから見るから天は無謬ではない。ということになるのではないかと思います。

泰麒はまだこども、こどもが親を失った状態なんでしょう。使令を持つ意味も充分には判っていませんね。

このシリーズ、間もなく新刊が出るようです。戴の再興の話かな。

阿含・桐山杯の決勝戦でしたか。
わたしは昨日は千寿会でした。高梨聖健さんが講師として来ていました。
張栩さんは台湾出身です。籍は台湾だと思いますよ。国別対抗戦では台湾チームに入ります。それで日本棋院所属なので、日本側のトーナメントに出ます。日本棋院は初めから国籍は問いませんでしたから。
Posted by 謫仙 at 2009年01月18日 10:00
天は全局にしか目を置かない、或いは遊び心を持ってこの世界を管理しているかな。^^
或いは全能の神様(天)がいても幸福を皆に与えることが不可能であることを示したいでしょうか。
小野先生は大学で宗教を専攻としたそうです。作品から小野先生の意図を見出す能力が今の自分にはないかもしれません。

>このシリーズ、間もなく新刊が出るようです。戴の再興の話かな。
それは嬉しいかぎりです!ただし、戴の物語をさらにどう展開させていくかちょっと心配です。とても難しいと思います。小野先生なら大丈夫かな^^

謫仙さんの碁の実力は並のものではないようですね。プロにも対局できるでしょう。
Posted by zhtfan at 2009年01月18日 16:01
>小野先生は大学で宗教を専攻としたそうです
それなら、全体の流れが一貫しているはずですね。アニメのように下手に改作をすると、その流れとは合わなくなって、すぐおかしいと判るのでしょう。
皆に幸福を与えることができないというより、幸福を感じさせることはできないということでしょう。
ちょっと天候が不順だと餓死者の出る世界では、餓死を心配することのない日本は天国のように思えても、そこに(日本)に住んでいる人は幸せだとは思っていないような。
新刊、どうなるのか、楽しみです。また新しい国の形を見せてくれるのではないかと思いますね。

わたしは何度も高梨聖健八段に指導碁を打って貰っていますが、あくまでも指導碁。高梨さんはおじょうずを打っているので、形になるだけなんですよ。本気で打たれたら井目置いても敵わないでしょう。
ついでにいうと、高梨さんはおじょうずを打つのはあまり得意ではない。(^_^)。レッスンプロではなくトーナメントプロのタイプなんですね。
Posted by 謫仙 at 2009年01月19日 08:00
追加
おじょうず、とは相手に合わせて、相手を導くようにすること。
たとえば赤ちゃんが立ち上がると、手で支えながら「あんよはじょうず」と歩かせるようなもの。
Posted by 謫仙 at 2009年01月19日 08:06
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