「絶景」の文字に導かれそこを1キロほど歩く。
こんな狭い道。小さな車一台がなんとか通れる。
突き当たりに嵐山温泉がある。その脇の坂道を登ると大悲閣千光寺に至る。高低差は百メートル。
花の山 二町のぼれば大悲閣 芭蕉
案内板の説明は本堂建立予定。
ここから登りはじめる。見える門の向こうから道は二本に分かれる。案内は左を示すが真っ直ぐ進んでも寺に行く。
右は嵐山温泉嵐峡館、このときは知らなかったが、超有名なところだった。客は舟で行く。こちらは勝手口か非常口か。
登りはじめるとすぐにこの門があり、閉まっていた。下の川原で一時間ほど過ごし、時間になってきてみたが、開く様子はない。諦めて下りようとしたら、下から若い僧が上がってきた。僧はこの門を開けてわたしを通すと、下っていった。別な道から登ったのだ。
こんな坂道を歩く。
すぐに鐘撞堂が見えてきた。その後ろに月見台がすこし見える。
六月や峰に雲おくあらし山 芭蕉
ここで座禅? 千光寺は本来禅宗の寺だった。
途中に山門があり閉まっていた。山門は向こうが見えない。しばらく待っていると、内側から先ほどの僧が門を開けた。
門が開くと目の前に鐘撞堂
ようやく着いた。門がなければあっという間だ。
登ったところで左から
庫裡か。住職がいるなら、このあたりが住まい。
仮本堂
中央に千手観世音菩薩を安置し、右には角倉了以の像などがある。
この寺は、角倉了以が、河川工事に協力した人々(早くいえば工事の犠牲者)の菩提を弔うため創建したもので、晩年はここに隠棲していた。亡くなったのは六十一歳(1614)。千光寺は鎌倉時代の建立で、嵯峨中院にあった禅宗の寺。その名跡を移した。
月見台 この堂が下から見えたところ。
中はまるで寺子屋のよう。算盤と理数系の寺だ。わが国最初の算術書がここで著されたという。さすが河川工事の角倉了以の寺。
窓辺によって、景色を見る。絶景かな。下には大堰川、遠く京都市内。しかし、まあ、そのう、絶景という割にはたいしたことはない。
すぐ下は紅葉に包まれた鐘撞堂。
さて、わたしがなんでここへ来ようとしたのか。前に「ぶぶ漬け伝説の謎」を紹介したことがある。それがこの寺の寺男の話。住職との絶妙のコンビだが、この寺の様子では、とても二人の人が生きていける所ではなさそう。
インターネットで調べると住職がいるらしいのだが、そしてその写真もあるが、先ほどの若い僧ではない。交代したのか、留守か、住職はいなくて、代わりの僧侶が来たのか。
超マイナーな名所でした。
そうでしたか、謫仙さんは北森鴻さんの例の本読んでいたんでしたっけ?
大悲閣というタイトルを聞いて、「あ、あの小説の舞台だ」と思いつつ記事読んでいました。そうですか〜、とうてい住めるようなところではなかったですか。
それよりも天竜寺の豆腐料理が・・・
食いしん坊は困りますね。
「とうてい住めるようなところでは・・・」なのでしょうが、こうした感じ好きです。
住めないかも知れませんが、何か懐かしさを感じます。
私のアップする床も、こんな無名のところばかりのようです。
「ぶぶ漬けいかがどす?」といわれたら帰れと・・・
しかし「ぶぶ漬け」は何かと、単なるお茶漬けだったです。
一寸がっかりしたことを覚えています。
最後も食べ物の話になってしまいましたね。
>とうてい住めるようなところではなかったですか
と言うわけではなく、雰囲気ですね。あの家も、中は立派な部屋でしょう。表から見ただけでは判りませんからね。実際にはホームレスが住もうと思えば十人でも入るんでしょう。ただ表の様子では、住職と寺男が常駐し、それなりの生活をするのは大変だろうな、と思った次第。
この日午前中に訪れたのはわたしひとり。一応四百円の拝観料を払いました。
いつも思うまですが、こういう山寺の出家した人たちの生活費はどうなっているのでしょうね。檀家に無心するのか、観光客の喜捨だけでは無理だろうなと。
わたしもこういう寺の方が情緒があると思いますが、それはあくまで観光として訪れるから。そこに住むのは辛い。
前前日の阿含宗など、三十年で、巨大な敷地に本堂と庭園を配置し、世界に支部を作り、布教している。そんなお金をどうやって、いつの間に……。
わたしの貧弱な頭では、どうもあの世界のことは理解できません。
せっかく勧めたのに単なるお茶漬けなので、あんなはなしができたのでしょうか(^_^)。