2009年01月30日

侠骨記

   宮城谷昌光   講談社   1994.2
 宮城谷昌光には珍しい中編集である。

 侠骨記
 春秋時代の魯の国の「曹かい」の物語である。

 このころまで、まだ魯は大国であった。
 隣の斉の国では君主が殺され無知が君主になった。身の危険を感じた公子たちはまわりの国に亡命する。
 翌年の春、無知が殺された。次の斉公は誰が継ぐか。まわりの国に亡命していた公子の競争が始まる。
 魯に亡命していた糺(きゅう)には管仲が補佐して帰国を計る。周辺をさまよっていた小白は鮑叔が補佐していた。この二人の競争となるが、小白の帰国が早かった。両者で戦争となるが、小白が勝つ。
 この小白は、鮑叔の薦めに従って、敵の管仲を宰相に迎え、国の建て直しを計る。後に春愁の覇者となる桓公である。
 なお、鮑叔と管仲は親友であり、「管鮑の交わり」は今に伝わる言葉である。
 糺をかついで敗れた魯は、この後、斉の圧迫を受けることになる。だが、気位が高いばかりで、優れた将がいない魯は対抗できない。ここに登場して魯国を救ったのが、曹かいである。

 前置きばかりで本文のない、紹介となったが、ひとつのエピソードをあげよう。
 曹かいと魯公の同が小白のところに挨拶に行った時である。
 曹かいは、剣を小白につきつけ、「取られた土地を返せ」と迫った。小白は承知し、なんと実際に返したのである。
 このときも管仲が、
「いったん約束して、反故にすれば信義に悖る。あれしきのものは返して諸侯の信頼を得よう」
 と助言している。
 曹かいは、将のいない国に生まれた将であるがゆえに目立ったが、将としては並であろう。
-------------------------------------------------
 布衣の人

 聖人といわれた、舜(しゅん)帝の物語である。
 公式な表の歴史と比べて、本音の歴史と言えるかもしれない。
 名を俊。最後に、
俊はまた舜とも書かれる。
とあるが、文字のない時代の話なので、後にそう書かれたということ。

 孔子が誉める「許由」という人がいた。
 堯(ぎょう)が帝位を譲ろうとした時、これを断り「耳が穢れた」と言って、耳をあらった。帝位さえ断る無欲の聖人である。

 だが、韓非子は、
 このころは帝といっても庶民と変わらず、人並み以上に働かねばならない。帝位には魅力がない。しかし、今(戦国)の王侯は贅沢三昧できる。もし、今のようならば、当然引き受けただろう。帝位に魅力があるかどうかの問題で、許由が聖人だからではない、という。

 宮城谷は、
 許由に「帝位につけば殺されることはわかりきっている」と言わせている。しかもそのまま都にいては、帝位を狙っている鯀(こん)に殺されるので、引退と称して逃げ出す。

 ひとつのことに、こうして三者三様の解釈がある。

------------------------------------------------
甘棠の人
 召公は、太公望呂尚に説得され、殷周革命に参加することになる。この召公は公平な裁判を行い、庶民に慕われた。

-------------------------------------------------
買われた宰相
 百里奚は、乞食のようになって、諸国を流浪していた。
 この男を見込んだ蹇叔(けんしゅく)は、長い間行動を共にする。のち、卑官に甘んじる百里奚と分かれるが、百里奚が秦の国の高官になると、真っ先に呼ばれる。
 後に宰相になった百里奚と蹇叔の流浪の物語である。
posted by たくせん(謫仙) at 07:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>ひとつのことに、こうして三者三様の解釈
本当に、三者ともまるで違いますね!真相は許由しか解らないのでしょうが。孔子、韓非子、それぞれの思想としっかりリンクしてる解釈で面白いです。
Posted by 阿吉 at 2009年01月31日 01:47
阿吉さん。
>孔子、韓非子、それぞれの思想としっかりリンク

宮城谷説も、現代の思想にリンクしていますね。
はたして、あの時代に、こんな高度な思想やシステムが存在していたかどうか。疑問を持って読みましたが、なかったとも言い切れません。
宮城谷昌光小説は、春秋時代が一番しっくりします。
呪術社会でありながら、そこから一歩進んで現実を見ている時代ですね。
Posted by 謫仙 at 2009年01月31日 08:13
堯舜の時代は既に権力闘争が激しかったです。この2人は決して聖人ではなく「禅譲」もなかったという説があります。
彼らを聖人に仕立てたのは孔子をはじめ、儒家の思想家たちです。当然政治的な意図があったからです。

2人とも地方視察の途中で病死したとされています。しかし、高齢者(100歳を超える)として、わざわざ首都から1000キロ以上離れた土地に行く必要性はどう考えても理解できません。視察より追放されたと解釈したほうが合理的ですね。当時の中国は未だ小さくて、1000キロ離れの所は猛獣ばかり棲んでいたでしょう。
舜の場合はもっと怪しいです。何度も自分を殺そうとした悪人の父・義母・義弟に異常に親切にしたのはなんだか胡散臭いです。春秋時代の鄭荘公の物語をご存知でしょうか。あんな感じです。聖人より陰謀家のほうに感じさせられます。

つい最近なくなった台湾の柏楊先生(「醜い中国人」の作者)の著作には「帝王の死」という本があります。歴史に対しての伝統認識を覆した内容がかなり多いです。堯舜に関しての分析も説得力が高いと個人的にそう思っています。

ちなみに、「曹かい」の「かい」の漢字は「歳+刀」でしょうか。そうであれば、中国歴史上「以弱勝強」の著名戦役の一つ「長勺戦役」に勝った名将ですよ。「一鼓作気」という成語もそこの出典です。ただ、武力は持っていないらしいです。将軍より謀略家かな
Posted by zhtfan at 2009年02月11日 17:05
鄭荘公ですか。存じません。
いまネットで調べましたが、やはり知らない話でした。
どこかで読んだような気はしますが…。
むしろ舜の話の報が判ります。聖人ではないというのは、諸説あるところですが、禅譲がなかったというのは初耳。もちろん禅譲といっても、それは形だけということは知っているつもりです。あの三国志で漢から魏へ禅譲されたように。
柏楊先生は知っていますよ。醜い中国人など読みました。あれはおもしろがった。ふざけているようでいながら、急所を突いた言葉にびっくりしました。
帝王の死は知りません。日本語訳はあるのかな。探してみます。
かいは〔歳+リ〕又は〔沫〕です。名将といわれる人物なんですか。長勺戦役と太鼓の話も出てきます。
わたしには、はじめて知った名前なので、知らなかったというのが正直なところです。
Posted by 謫仙 at 2009年02月12日 20:08
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック