奥本大三郎 新潮社 1992.7
著者はファーブル昆虫記の翻訳者である。ただし、この当時は翻訳中であった。それで「虫のゐどころ」という題名になる。わたしがファーブル昆虫記を読んだのは大分前なので、この著者の翻訳したものではない。
もちろん虫の本ではなく、虫のゐどころが悪い著者の洒落た随筆である。フランス語の大学教授であったが、やめて文筆稼業に切り替えた、その前後の心境と言えようか。
第一章「大学教授三日やれば辞めたくなる」で大学の講義の(学生の)酷さを説き、物書きが忙しくなったので辞めることになるのであるが、でもねえ、教授になるまではどうだったのかしら。教授なら三日で辞めたくなっても、助教授や助手は辞めたくならなかったのかな。
実際、読んでいるときは、面白い含蓄に富んだ随筆だと思っていたが、読み終わると、ほとんど忘れていて、どんなことを書いてあったのか思い出せない。
上品な文章で身近な問題を取りあげでいる。問題点の指摘が適切なので、そのまま同感しそう。
読むために時間を割くだけの価値があったと思える。
2009年03月09日
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私はシートンの動物記の方が面白かったのは
幼さのせいでしょうか。
「虫のゐどころ」ですか、ファーブル昆虫記の訳者なら
虫の本かと、思いますね。
もちろん、訳するのは専門家ならそれに越したことが
無いのですが、でも専門家でなくてもいいわけですね。
でも、こんな、本を訳すのだから虫が好きなんでしょうね。
共感できる本はよほどでないと、心に残りませんね。
むしろ反発を感じる本が心に残る。
人間がなかなかできません。
苦労したのは、たとえば「角の形が◯◯に似ている」と書いてあっても、日本の農機具に◯◯というものが存在しない。それをどう説明するか。
そもそも農作業を知らない日本の読者にどう説明するか。
そんなところに苦労したと書いています。
おかしなもので、反発する本の方が良く覚えていますね。
それから全く知らないことを書いた本。
そして面白い本。
すんなり心の中に入った本は残りにくいですねえ。