題名はふざけた名だが内容はまとも。
「能力の限界」とでもつければ、内容を現していると思うが、インパクトが弱くなる。
このような本を読んでいると、
「そうそう、そういうことなんだよなあ」
と、読者の気持ちを代弁してくれてるなあと思うことがある。この本はほとんどそのような話に満ちている。
最初に出てくるのが、ある出産のドキュメンタリーを大学生に見せた話。
女子学生のほとんどは、「新しい発見がたくさんありました」
男子学生は、「すでに知っていることばかり」
将来出産をする可能性のある女子学生と可能性のない男子学生ではこれだけ反応が違う。これがこの方面の男子の能力の限界なのだ。
このようにある程度で理解のレベルが上がらなくなる。
わたし(謫仙)の碁はすでに能力の限界に来ている。これからも努力を続ければ、少しは強くなるだろうが、順調にはいかない。だからこの説明がよく判るのだ。
わたしは自分の限界を知っている。これがまた限界になる。
人の道を説いた人が、平気で人前でタバコを吸い、吸い殻を道に投げ捨てる。それを見るわたしは、その人の限界を知るのだが、同じように自分を客観視する。
世の中には説明の難しいことが多い。常識と雑学は異なる。だがこの区別のつかない人も多い。常識とは「人間なら普通こうでしょ」といえることであるが、ただし絶対的な真実ではない。所により、時代により、人により異なる。これを絶対的な真理だと思う弊害をあげている。
男子学生の出産の理解のように、説明だけで判ったような気になるのがおかしいのだ。説明は大事だが、それだけでは伝えられないものがある。
そこで人の理解の能力を超えて、その判らないことを判っているひと(?)を作り上げた。それが一神教の神なのだ。そして神に判断を預けてしまう。世界の三分の二はそんな人たち。わたしなどから見れば原理主義に近い。
これらのことを次の数式で現している。
Y=aX
つまり、反応=a×入力
このaは現実の重みである。これがマイナスや0の人がいる。
判りやすい説明だと思った。
一を聞いて十を知る人はaが10ということだろう。
aが無限大だとどうなるか。原理主義者になる。ある情報 X が絶対化してしまうわけだ。
教育では、個性を尊重などというが、やっていることは個性無視に近い。個性を発揮すれば、この社会に適用できず排斥される。個性より他人を判ることが大事なのだ。もっともうまくいけばスターになれるだろう。
ここで、「例えばイチロー・松井などの個性は別格だ。」というが、わたしなどが個性をいうときは精神的な個性だ。辛抱強いとか、同調できないとか。それを例にして欲しかった。イチローや松井が、この社会に適用できず排斥されるとは思えない。
日韓共催のワールドカップで、日本人はイングランドや韓国をも応援した。それぞれの国からは信じられない事態だという。日本人は原理主義に毒されていないということかな。
「人間であればこうだろう?」という常識が究極的な普遍性ではないか。
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初めて読んだとき、賛同できないことが一つあった。昔、働かなくても食える素封家に憧れた。今ホームレスがそのことを実現した。などというくだりである。食えるとは生活できるという意味もある。
ホームレスは働かなくても食えるとはいえないのではないか、と思っていた。しかし再読してみて、もう少し奥が深いなと思った。
昔、わたしの青年時代はホームレスはいなかった。そうホームレスでは飢えて死んでしまうからである。だから、仕事が合うも何もない、とにかく就職して生きていくしかなかった。今はそうしないで済む。文字通り生きていける。ただし誰も憧れはしない。
常識って本当に人それぞれというのは管理職になってからつとに思うようになりました。これって常識だよね? ということが全く通じない、同じ事柄に対してどう思うかがあまりにも世代や性別によってきれいに違うということが最近つくづく身にしみて来ました。
これは、わたしも含めて、ほとんどの人が感じていることですね。
これを感じなくなると絶対主義者になる。
それでも社会を維持するためにある程度の基準を作らねばならない。
「これが常識だ」
ここに、それが常識の範囲以内かどうかという、言葉の矛盾が生じますが、あれこれが摩擦しながら、なんとか受け入れられる基準らしきものが、できあがって行くのでしょう。
これって常識だよね?