2009年06月03日

「奔流」の碁

 田中芳樹の小説に「奔流」がある。時代は南北朝の梁の武帝(在位502〜 549)の時である。
 この時代に淮河の中流域の鐘離で、鐘離の戦いという、中国史上最大級の戦いが行われている(506〜507)。梁の建国まもないころである。
 北朝の魏軍八十万。対する南朝の梁軍二十万は、降り続く雨を味方にして、陳慶之らの活躍で魏軍を撃退した。
 この陳慶之だが、武帝(蕭衍しょうえん)に建国前から仕えていた。子供のとき、蕭衍の雑用をしていたのだ。(以下赤字は原文のまま)

P23
 ある日、蕭衍は退屈をおぼえ、庭園に出たところ陳慶之が孔雀に餌を運ぼうとするのに会って、囲碁の相手をさせることにした。
 武芸と同じく、囲碁は、初心者が熟練者に勝つことはまずありえない。蕭衍としては本気で陳慶之と勝負するつもりなどなかった。どこまでも時間つぶしの遊びのつもりで、石の置き方を教え、白石を持って悠然と打ち始める。かるくあしらううちに、油断して、まずい一手を打ってしまった。
「こいつはまずい手を打ったな。ここを突かれれば私の負けだが……まさか子雲めが見抜くことはできまい」
 そう蕭衍が思っていると、黒石をつまみ上げた陳慶之が、実に自然な動作で、盤上にそれを置いた。蕭衍は愕然とした。陳慶之が黒石を置いたのは、そこに置かれてはまずいという唯一の場所であった。
 いささかあわてて、蕭衍は次の手を打ったが、互いに五手ほど打ち合うと、蕭衍の形勢がいちじるしく悪くなった。ついに蕭衍は追いつめられ、敗北してしまったが、むろん納得できるものではない。


 この時、蕭衍三十三歳、陳慶之十三歳であった。
…、たてつづけに七戦して、蕭衍の二勝五敗。完璧に事を運んだときには蕭衍が勝ったが、わずかでも失策したときは、ことごとく敗れた。このあとおかかえ棋士を呼ぶ。

「これは囲碁の勝敗を見るのが目的ではない。ゆえに命じるのだが、一度だけ悪手を打て。そしてそれ以外は決して手を抜いてはならんぞ」

 そして命令どおり悪手を打つのだが、
 …悪手といえど、容易に凡人につけこめるものではない。それが悪手と気づく者すら少ないであろう。だが、つぎの瞬間形勢は逆転していた。最初はおやといいたげであった棋士の表情がみるみる変わり、あわただしく防戦に努める。やがて面目なげに棋士は投了し、…

 そして十年後、陳慶之は梁の武帝となった蕭衍の将に任命される。白馬三百頭で一軍をつくり、その隊長となる。
 戦いの途中で相手が乱れ、いまあそこを突けばわが軍が勝てるというとき、いきなり白馬三百騎が現れそこを突く。それを繰り返し陳慶之隊は連戦連勝することになる。後には白馬三百騎が現れたというだけで、敵が勝手に崩れていくほどになる。
 陳慶之は生涯無敗。

 もちろん田中芳樹の小説であり、青史では、陳慶之は鐘離の戦いには登場しないらしいし、無敗でもないらしい(わたしには確かめることはできない)。正史はどうだろう。
 それにしても五十万もの大軍が犇めく中に、ここぞと言うときにいきなり登場する、などということができるだろうか。そして陳慶之の特徴を表現するためとはいえ、上の碁の記述はありえないだろう。
 蕭衍は有能で王朝を建てるほどの才能の持ち主、おそらくは有段者であろう。決して初心者ではない。お抱えの棋士は、アマとしても高段の力があると思う。初二段ではなかろう。
 そのような棋士が、その日に石の置き方をおぼえたばかりの少年に、一手のミスで負けることは考えられない、あり得ない。それ以外は手を抜いていないのだ。碁を知らない人はそんなものかと思うだろう。しかし、実際は一手のミスのはるか前で碁は終わるだろうし、そもそも、少年が間違えないこともあり得ない。
 ヒカルの碁で、ヒカルが碁を覚えるまでどれほどの時間がかかったか。陳慶之は藤原佐為より前の時代の人のようだし(^_^)。
 著者の田中芳樹は本当に碁を知っているのか、意味が判って書いているのか疑問に思ってしまった。しかし、

武芸と同じく、囲碁は、初心者が熟練者に勝つことはまずありえない。

 と記述していることが気になる。意味が判って書いているようでもある。陳慶之隊の性格を実に上手く表現したと思う。が、しかし碁は………。

 武侠小説として読んでみるか。ちなみに田中芳樹さんは母上に「武侠小説とは」と問われて、「中国の立川文庫」と答えたという。「座布団一枚!」だ。
 金庸の降龍十八掌(謫仙楼対局に出てきた亢龍有悔・飛龍在天など)は、わたしの年代なら、赤胴鈴之助の「真空切り」だ。大傷や骨折も秘薬を付けると一瞬で治ったり、馬よりも早く走ったり、水の上を走ったり。そのつもりで奔流の碁の記述を読むと…………やっぱり無理だ。

参考 奔流
posted by たくせん(謫仙) at 06:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 囲碁雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
謫仙さんこんばんは。
 あれですよね、謫仙さんは真剣だからか囲碁に関してはちょっとやっぱり厳しめですね^^ まぁあれですよ、プロ野球なんかを例にとったらわかりやすいかと思うんですけれど、あれもやっぱり血のにじむような努力を選ばれた人たちがやっていく世界なわけですが、漫画や小説だと案外にリアリティを追求しているようなものでも、ずぶの素人がストレートならともかくもフォークボールをバックスクリーンまでホームラン売っちゃったりするじゃないですか。ああいうノリなんだと思うといいんじゃないですかね。
 ダメ?
まぁ野球と違って囲碁については知らない人のほうが多いから、他のジャンルの小説でいい加減に書かれると誤解が増えるというような危惧がおありなのかも知れませんけれども。
 
 僕もちょっと囲碁のさわりのさわりのさらにほんのさわりだけネットで勉強しましたが、この世界ほどある程度の勉強がないと話にもならなくて、上と下のレベル差がどうにもならないのは珍しいと思いますからつっこんでられることはよくわかります。
Posted by 樽井 at 2009年06月06日 21:12
厳しすぎるかなあ。

小説の性質にもよるンですね。
最後に書きましたけど、武侠小説なら、「こりゃー愉快だわっはっはは」なんです。
野球漫画はそのような漫画なんでそれでかまわない。つまり、そのような小説かどうかが、問題なんです。
著者は武侠小説にも造詣が深いので、はっきり武侠小説として書けば、問題ありません(でもないか)。たとえば一手だけで、出鱈目に置いたらそこが偶然急所だったとか。
この小説は、ほとんど歴史小説、だから厳密に考えてしまいます。しかも現実にきちんと判かっていること。記録の世界とは違います。

そんなこんなで、藤原佐為は認めても、これは認めにくいンですね。

Posted by 謫仙 at 2009年06月07日 09:43
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