今回は写真が多いが、分けずに一本の記事にした。
堀切菖蒲園の門前の道は、右に駅の方へ行く道があり、左は突き当たりとなり左右に分かれる。門から斜め左は駐車場(バスのみ)をえて綾瀬川の土手である。
門前の道を横切るように左斜めに三十メートル行くと、家一軒隔てて、門前の道と平行する、この細い紫陽花の道がある。

グーグルアースではっきりと見分けられる。拡大してみて下さい。白い線が特徴。
入り口には屋台が出ているので、数メートル入ってから最初の写真。

右はビルを隔てて、菖蒲園の前の道になる。左は民家を隔てて広い道がある。こちらは側は民家の裏側となる。

少し歩くと、水路の庭園風。
この突き当たりから道は紫陽花の道と普通の道が平行するようになる。

右の道も歩道のような細い道なので、車の姿はなかった。ここの右の方に下の鉢植えがあった。

初めて見た。なんだろう、葉であろうか。

少し行って振り返る。ここは各種の紫陽花が両側にびっしり。

前の写真の背中側。ここからは紫陽花は少なくなるが花の続く道だ。

平行していた普通の道は途切れ、紫陽花の道だけになる。自動車道路の向こうに続く。道の右側は植え込みが続く。

ここから、また普通の道の歩道部分のように紫陽花の道が続くが、広くなったり狭くなったり。

歩道をたっぷりととった歩きやすい道が続く。
このあたりは、民家の庭を通らせて貰うような感じになる。

二階のベランダに届く巨大サボテン。バー(スナックと言いたいが、スナックは「軽食」のはず)のような店先にあった。

広い歩道は続く。道は花の道でもある。
道の端に「毛無池橋」「魚道橋」という表示が続く。
ここに来て、ようやくこの道の謎が判った気がした。昔は小さな川であったのではないか。それを埋め立てたため、不自然に曲がり、民家の裏を通り、道に平行し、幅の定まらない歩道となったと思う。

この七福神に出会えれば、堀切菖蒲園の駅はすぐそこである。

この突き当たりが堀切菖蒲園駅。

最後に紫陽花の花を。萼(装飾花)を分けると小さな花が見える。萼の中心の小さな球体も花のつぼみである。
特に紫陽花が集中しているあたりは、カメラをもった人が、行ったり来たりしていました。
あの白い線は昔の水路の中心かも知れませんね。杭が不規則にならんでいるのも、そうではないかと思います。歩道と車道の境ではありませんでしたから。
各家毎に見事な花を咲かせていて、それを見るだけでも楽しい道でした。
来年、もし行ける機会がありましたら、一人で行きます(笑)。
この欄の入力は少し字が小さすぎませんか。
なるほど、そんな感じもしますね。あの杭など、歩道の中にあって、位置がバラバラですから。七福神前の歩道も中央線のような感じの白い部分がありますからあれもそうかな。
もっとも、そこまでなると、確認しなければ、断定できませんね。
確かにこの欄は文字が小さすぎますね。急いで訂正します。言われないとなかなか気が付かなくで。自分で入力して判りました。m(__)m。
HTML文を読み切れず悪戦苦闘。結局直せませんでした。デフォルト設定もありますので、そこでやっているのかな。
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のfont-size:14px;に変えてみたのですが変化無し。
紫陽花の花を見ながら・・・
何故と考える謫仙さんも素敵です。
昔の水路ですか・・・
今も地下には流れがあるかもしれませんね。
狭いので、昔の水路も小川程度でしょうか。
駅から菖蒲園まで十分弱。こんな道なら歩いて行きたい。多くの人が利用しています。粋な計らいだと思いました。
初めまして。遅ればせながら,このサイトに到達しました。
私は,72歳,荒川区在住の男性の散策者です。友人たちからは「仙人さま」と呼ばれている,少し浮世離れした「童心の固まり」です。
2012年になって,堀切菖蒲園前の「蛇道」に異常な興味を抱き,「これはきっと古い自然の河川の痕跡に違いない。昔は,何と言う川だったのだろう。上流はどこだろう。」と,無謀な探索を始めてしまいました。
「昭和初期航空写真」goo 地図などを見ると,昭和22年時には実際に「堀川」が流れていました。
古地図を何種類かひもとくと,だいぶ古くからあることがわかり,江戸期以前の図版にも,同じ形をした川が同じ所を流れています。
17世紀後半には,幕府の治水計画の一環として亀有上水から分水した「西井掘」の下流と位置づけられました。しかし,亀有上水そのものが,1722年に将軍吉宗によって廃止されてしまい,「西井掘」の名が西亀有や堀切に定着することはありませんでした。
しかし,掘そのものは残り,灌漑用水として転用されました。葛西用水からの水を「陸前濱街道」沿いの堀川に流し,さらに堀切中央通の東側に導いて,菖蒲園前までつなぎ,綾瀬川に落としています。
「西井掘」の下流として,例の古い蛇川が利用されたのは,江戸期の計画の一部だったと思われます。
上流は,しかし,その後流路が激変します。陸前濱街道沿いの堀川は,ほとんどが埋め立てられてしまい,明治以降には,たぶん水の枯渇によって「古隅田川」からも水を貰うようになりました。・・・
お喋りが長くなって,ごめんなさい。
正直に申し上げて,私は貴方の写真のファンです。私が撮りたい以上に撮っていらっしゃる。
「これに追いつくのは難しい。超えることは,不可能だな」と,感嘆しました。
貴方の御活躍・御健康・御多幸を心より御祈り申し上げて居ります。
On Sep. 9, 2012 摂田 寛二拝
http://homepage2.nifty.com/KanjiSetsuda/
追伸:
いつか足立区と葛飾区の境界線上を走る「古隅田川」を撮ってください。
やはり川筋でしたか。そうは思っても確証がないと断言できませんよね。
何度通っても心の安らぐ道でした。
古隅田川、あのあたりを歩いていたとき、そんな名前の小さな川がありました。なんだろうと思いながらも、そのままで終わってしまいました。荒川ができる前の川筋? 細い川なので、昔の川筋の証拠みたいなものかと思いながら、通り過ぎました。
いま摂田さんのホームを拝見しました。
チャングム評論に圧倒されましたよ。わたしは韓流ドラマで見たことのあるのは、チャングムの一場面30分ていどだけなんで、あれはそういうドラマなのかと思いながら読みました。
それから魔方陣、これはトップだけしか読みませんでしたが、わたしの数学能力では深入りはできません(^_^)。
実はそれらを読んでいて金庸小説に似ているのではないかと思いました。
次から次に山場の来る波瀾万丈の物語、コメディなそれでも主要な人物がいるとか。
次の場面はどのくらいのレベルの数学なのか感想を聞きたいものです。
射G英雄伝 第4巻 雲南大理の帝王 文庫本ならP195に、魔方陣の一つでしょう、「九宮八卦連環図」があります。(上製本と文庫本では頁がずれます)
また、「訳者のあとがき」にも数学の問題が載っています。
本屋か図書館で覗いてみてください(^。^))。
ここに書きたいのですが、数学能力のないわたしが書くとチンチンカンな文になってしまいます。
それから荒川散歩、わたしも何度も歩いた道なのに、あのような写真を撮りませんでした。
浅草に行くとき、何度か小菅から歩きました。涼しくなったらまた歩くつもりでいます。
御丁寧なるコメントバック有り難うございます。
わざわざ拙HPを御訪問くださり,これまた恐縮の限りです。
いろいろ御評価まで頂き,傷み入るばかりです。
どの記事も至らぬものばかりですが,かって××評論家になりたかったという少年期の夢を,できるときになってやっと果たした思いで,一分野に一つと決めて発表しました。
魔方陣研究のページは別格で,自分の納得の行くまで掘り下げてみようと思いました。
もとより,この分野は専門の数学者に全然認められていない分野で,「たかがパズルの問題に,何と言う大げさな」と冷眼視され続けて居ります。
6千年前からある世界最古の数学の問題でありながら,これまでに知識・技法ともにほんの少ししか成果が得られていませんでした。わずかにオイラー先生が,250年前にヒントを二,三くれましたが,今でもこれに従って研究を続ける数学者は,実のところ暗中模索を抜け出せていません。
私は,積極的にコンピューターによる計数を行い,先ずとにかくデータを集めることに腐心しました。
データが集まってくると,全体像がおぼろげながらわかって来ます。そうすると,各個の問題の扱い方も,わかってきます。そして,それなりの「数学」を打ち立てることができます。・・・
私は,元からの数学者ではありません。ただの物好きだったのですが,今や「新数学」の先端に居ます。
シュメール人(自分は,その末裔だと妄想しています)のくれた問題の解決に何とか進展をもたらしたいの一心です。ほとんど「狂人」のなせる所業です。(自分では「仙人」の仕事と思っています。)
歴史的には,魔方陣は多種多様な神秘主義と結びついて「伝えられて」居ます。しかし,私は神秘主義者ではないので,その方面の研究には目をつぶることにしています。過去の「文化」の遺産として研究することもしていません。純粋に「数学の問題」として解きたいのです。
そんな私が何故に川筋に執着するのか,自分でもわかりません。
師は,すぐ花や鳥や風流に眼が行ってしまいますよね。私も行くのですが,どちらかと言うと人手のあまりかかっていない野の花や,野鳥に惹かれます。それから「大きなもの」が好きです。大河川や巨塔や大きな橋に惹かれます。古さにはこだわらない。モダニズムを厭いません。
しかし,どちらかと言うと「人間嫌い」で,ですから人の臭いの強い浅草などは,写真には撮りません。街中も撮り方がわかりません。ここが,師と違う点かな。でも,克服しなければならない短所と認識しています。
その点で,師の写真は良いお手本になります。勉強させてもらって居ります。有り難く思います。
自分も少しは「文化」を撮ろうかと,少しずつ思い始めています。
師の御活躍・御健康・御多幸を心より御祈り申し上げて居ります。
摂田 寛二拝
ここに書こうとすると、曖昧な部分をはっきりさせねばならないので、調べたりします。
それが書いていく良さではないかと思っています。
写真もそうで、忘れないように写真を撮っておく。それを見てあれこれを思い出す。
いま武当山旅行の記事を書いていますが、写真がないと思い出せない。
そんなわけで芸術的な写真は撮れません。
好奇心だけはいつまでも保っていたいと思っています。
いやいや,御謙遜を。
師の写真には「詩」があります。
私見によれば,芸術作品かどうかは,それに「詩」があるかないかだと思っています。
他人の評価などどうでもよいことです。
その点で,師の写真には,たとえメモ代わりに撮ったものでも,動機に関わり無く,詩があると思います。それは,師が天性の「詩人」だからではないでしょうか。
詩と言っても,ピンからキリまであると,反論なさるかもしれません。
厳しい世界に生きるプロならば,そう言うでしょうね。
師のお得意の中国文化では,どうなのでしょうか。
私の「詩」は,どちらかと言うと,古いフランスのシャンソンに近い感覚かな。
毎度,毎度失礼します。
摂田 寛二拝
わたしは7駒送り、これは必ず入れて、これは他の人とダブるようなら捨てて、
という具合に指示しました。
捨てていいのは景色の写真。必ず入れてと言ったのは、少女道士の頭髪と、祈る姿。
これだけはわたししか撮っていないであろう、と思える写真ですね。
強いて言えば、それがわたしの特徴と言えるのかな。中国の犬に夢中になる岡崎先生。旅行団の動きに注目する人。特徴さえあれば全ての人が詩人ですね。
でも個性を出すのは難しい。(^_^)。