まあ、はっきり言ってお墓には興味ない。「東海道五十三次」などの浮世絵版画で有名な安藤広重はもちろん知っているが、広重が一人ではないことは知らなかった。

道をへだてて東岳寺、屏の幅は二十メートルくらいか。

東岳寺門前
石柱には「東京都指定旧跡初代安藤広重の墓及び記念碑」と書かれている。
門前から窺うと、いかにも狭い感じがする。それで今まで入る気がしなかったのだ。
花屋久次郎の菩提寺でもある。この人は「俳風柳多留」の版元。
門を入って石橋の手前を左を見ると、思ったより広い。突き当たりが広重の碑と墓。十メートル以上ありそう。このあたりが一番広く感じる。
正面は広重記念碑
記念碑の隣に広重の墓
この寺は、元は浅草にあった。昭和36年、ここ足立区伊興町に引っ越してきたのだ。安藤広重のころは田圃か畑であろう。それとも荒れ地かな。
近くは“伊興寺町”として、沢山の寺が戦後引っ越して来ている。有名な助六寺もある。助六は知らなくても落語家の三遊亭円楽さんの寺と言えば……、なお判らなくなる(^_^)。
助六は浅草だから芝居になるので、背景が伊興寺町では話にならない。
そこでこれらの寺を、助六ゆかりの、広重ゆかりの、花屋久次郎ゆかりの、などと言っていいのだろうか。言い方の問題もあろう。
「◯◯さんは◯◯寺で死んだ」と言った場合。◯◯寺が引っ越す、浅草から伊興町に引っ越した場合、伊興町の◯◯寺で、「◯◯さんはここで死んだ」と言えるのか。まるで様子の変わってしまった伊興町の◯◯寺を、◯◯さんはこの寺が好きだったと言えるのか。
確かに墓があり、碑がある。しかし浅草の寺とは様変わりしているであろう。わたしには単なる記号にしか感じられない。
墓から右に数メートル右に行くと池があった。向かって左側。
青いホースは、たまたまなのかいつもあるのか。
右側には木賊の群落。これは素晴らしい……が、池には灯籠が倒れたまま。
足元には、花菖蒲が一輪。蕾が一つ。
池の鯉は、足音に驚き、暴れるように逃げる。
四阿だが、利用されているようには見えない。かといって景色になるほどでも。庭先ではなあ。部屋から同じ景色が見られるだろうし。
玄関先にも木賊の群れ、そして無理やり詰め込んだような庭園。
門の中から外を見ても、あまりに狭いため窮屈に感じる。
外から見た感じも狭そうだが、中もやはり狭い。庭も手入れをすればいいのにと思ってしまう。しているのだろうが、そう思わせる。あまりに詰め込みすぎなのだ。池を除いた庭園部分は、通路も含めて二十メートル四方ほど。
曹洞宗 南昌山 東岳寺
最寄り駅:東武伊勢崎線 竹ノ塚
…………………………
以下は検索によって得た知識。失礼ながら、確認していない。m(__)m。
この寺では花久忌が行われる。安藤広重の版画作品の他、真筆のデッサンなどが見られるという。
広重は安政5年9月6日死去、62歳。9月6日に「一日だけの広重展」が開かれる。
記念碑には、辞世「東路へ筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見ん」とある。わたしには読めない。
広重の芸術に魅せられ、日本文化を世界に紹介したアメリカ人ハッパーの墓所がある(広重記念碑の脇、これは確認済み)。
日本に46年間在住し、自ら「広重ハッパー」と名乗った。昭和11年12月、東京で没した。享年72(年齢72歳と思われる)。顕隆院広重発波居士。
寛永10年(1634年)、浅草の新寺町に創建され、昭和36年に伊興へと移転した。


旧居とか生きた時の関連のものはもそれなりの感慨が、あるのですが・・・
引っ越した墓なら余計でしょうね。
遺骨も移っているのかと・・・
でも、広重のファンには聖地なのでしょうね。
浮世絵では、個性は北斎なのでしょうが、
広重には安定感と親しみやすさがありますね。
やはり大家ですね。
旧居というのはたとえ引っ越しても実体は残っているので、それなりに生活の様子が窺われます。
しかし墓は、記念碑、こころの問題ですね。判る人つまり広重のファンなどは意味が判るのでしょう。
わたしも知っている人物の墓は見に行ったことがありますが、(本因坊家の墓など)、解説者がいて意味が判ることが多く、1人でわざわざ見に行くことはありませんね。
古墳は……、あれは別格(^_^)。
広重は庶民的なイメージですね。