02.9.29記
9月21日、前に書いた元高校選手権者のMさんが来ていた。前回と異なり、碁の勝負以外の緊張感が取れて、ときどき笑顔をみせたりで、ずいぶん落ち着いていた。
わたしが院生の時のことを訊いた時、「一組だった」と言う。
「ABCじゃないの」
「今はそうだけど、制度はよく変わるから」
テレビで碁を放送するときは、解説者と聞き手がいて、コンビで大盤に並べて説明しているのを放送する。
Mさんは、その練習をさせられた。ハンスさんを解説者にして、その「聞き手」になる。
Mさんがプロになれたとして、トーナメントプロになるのは難しい。レッスンプロにならざるをえない。特に低段のときは、聞き手は重要な仕事なのだ。
千寿さんが聞き手をやっていたころの体験談を交えながら、指導していた。
「自分が判ってもだめで、見ている人が判るようにしないと聞き手は務まらない」
「判らなくても、テレビの場合は黙ってしまってはダメ、「先生どうするのですか」と解説者に話を振ってしまいなさい」
「解説者が口にする前に、必要な参考手順をタイミングよく並べないと、見ている人はいらいらしてしまいますよ」
「高段になると聞き手はやりにくい。見ているほうも聞き手が知っていることを知っている。聞きにくくなるんです」
指導碁である。千寿さんの声が聞こえる。
「死ぬのは白と黒が協力しないと難しい。白だけではなかなか死なない」
笑い声が立つ。覗き込むと説明していた。
「ここで黒を殺すことができた。でもわたしはこちらに打って、好きなように生きなさいというのに、生きないものだから、死んでしまった。……」
ひとごとではなかった。わたしを指導していたとき、
「ここに打つと死んでしまうけど、どうするつもり」と言いながら別なところに打ったことが何度かある。
わたしにはそこまで口にしないといけないわけで、これが指導される者のレベルの差である。それが一局で二度あると、今日は勝たして頂けないなあ、と思う。
久しぶりに二次会に出席した。
千寿さんの碁の話が出たのだが、アマ高段者でも、わたしの「三師三様」と同じ感想をしたのがおかしかった。この指導の仕方は、どうやらわたしの時だけではなかったのだ。
2009年11月01日
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