2009年11月09日

落語と談誌

01.2.17記
 小朝が言っていた。
「お客様が、『わたしは落語が好きで寄席にもちょくちょく行くよ』とおっしゃる。だから、最近はいつ行きましたかと訊くと、それが十年前であったりする」
 わたしもその口で、行かなくなってすでに十五年近い。新宿末広亭・上野鈴本・池袋演芸場など何度も行った。人形町末広がなくなった後だったと思う。
 上京して間もなく、新宿末広亭や上野鈴本に通った。一度は講談定席の本牧亭にも行ったことがある。だが、後に寄席では漫談しか聞くことができなくなり、足が遠のいた。すでに落語は寄席からホール落語に移っていたのだ。何度か東横落語会を聞いたが、ここも廃止になった。
 その後は池袋演芸場に行くようになった。その池袋演芸場だが、初めて行ったとき、客は三人しかいなかった。終演間際に七八人まとめて入り、ようやくツ離れした。話によればこれが常態であったという。きちんと落語を聞ける寄席ではあるが、とても楽しめる雰囲気ではなかった。こんな池袋演芸場でも、立川談誌が主任になると立ち見が出る。
   
 普通、一人十五分から二十分くらいで噺が終わる。ある時最後に出た談誌が延々一時間近く演じた。もちろん満員の客は沸いている。
 ある時は大阪から、これから飛行機で帰るからお客を待たしておけと電話が入り、出演者はみな長い噺を演じて時間をのばし、最後に談誌が登場した。そして帰りは池上線の終電車にやっと間に合ったことがある。
 わたしから見れば、池袋演芸場は談誌によってようやく息をしている状態であった。ところが、談誌は池袋演芸場の係員に嫌われていたという。談誌が出演すると帰りが遅くなるからだ。この話を聞いたとき、あきれかえると同時に、もう落語は終わりだと思った。
 大好きだった志ん朝も、池袋では冴えなかった。それ以来、志ん朝に対する熱が冷めた。寄席に行かなくなってからは、もっぱら80枚のレコードとラジオ放送を録音した50巻のカセットで、落語を楽しんでいた。それも聞かなくなって久しい。

09年追記:最近は落語ブームという話も聞く。独力でつまり名前で客を呼べる落語家が10人以上とか。寄席に頼らず落語のできる人である。
 先日は圓楽が亡くなり、志ん朝もすでに亡く、談志や小三治も往年の活躍は望めない。わたしの知っている落語家は少なくなった。
 笑点を見ているが、ここでは、落語は聞くことはなく、余技の大喜利が中心。わたしの知っているのは司会の歌丸と木久扇だけ。
 最近なぜか落語を聞きたくなった。それでいながらなかなか腰があがらない。
posted by たくせん(謫仙) at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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