わたしは司馬遼太郎を夢中になって読んでいたことがある。その前に、「項羽と劉邦」「空海の風景」「韃靼疾風録」「妖怪」などを読んでいたが、明治維新ものまで手を広げた。
そして司馬遼太郎の代表作といわれている「坂の上の雲」を読み終えたのが、96年2月12日午後9時前である。これで図書館にある氏の小説はすべて読み終えた。この日司馬遼太郎が亡くなっている。2月12日午後8時50分。72歳。享年74であった。
世に法華経という仏教の経典がある。日本の仏教世界ではもっとも多く読まれているのではないかと思う。わたしも若いときに読んだことがある。
前半は、「これから妙法蓮華教というすばらしいお経を説きますよ、よく聞きなさい」という言葉を延々と連ねている。後半は、一転して「いま妙法蓮華教というすばらしいお経を説きましたよ、よく守りなさい」という言葉が連なる。前書きと後書きだけで本文のない不思議な文である。
あるとき法華経を信仰する2団体の十数人といっしょになった。もちろん知っている人たちである。みな数百回ないし数千回法華経を読んだと言うので、わたしは前記の疑問を口にした。更に次の質問を用意していた。
どうして南無妙法蓮華経と繰り返すだけで人が救われるのか。
何をもってブッダが法華経を説いたといえるのか。
法華経とは何を教えているのか。
ところが、この質問をすることはできなかった。最初の質問、本文のない教典に対して、誰も疑問に思っていなかったのだ。わたしの質問の意味が判る人さえ2人だけだった。
それから二十数年後、司馬遼太郎が小説の中で、
“法華経とは愚にもつかぬ教典であるが、……”
と言っているのを見つけた。
この一言が、わたしの問いの答えになった。わたしと同じように考えた人が、少なくとも一人はいたのだ。これをきっかけに、司馬遼太郎を夢中になって読むようになった。そうして読み終えた瞬間、氏の訃報に接したのである。
合掌・感謝。
ただし、信仰と教典は別物である。法華経の信者に対して、尊敬も侮蔑もしない。これは我が家の宗派についても同じだ。わたしは我が家の宗派の教典を読んだことがない。まあこれは宗教というよりも、死者儀礼の派というべきだろう。
おそらく、法華経には関連する経典があって、全部併せて解釈するのではないかと思うが、調べる気力が失せた。