2024年08月12日

役名詐称

05.12.11記
24.8.12加筆訂正

 津山宏一の小説に「屋根屋狂躁曲」という本がある。
 主人公が勤めていた会社は鈴木重工業有限会社という。あの自動車会社と間違える人がいるかもしれないが、屋根屋なのである。会長の名前が鈴木重太郎で、鈴木重工業有限会社と名付けた。従業員は社長の息子が3人と主人公ともう2人の6人である。
 ある時、重太郎がつぎのような名刺を配った。重太郎が「会長」で、長男が「代表取締役社長」、次男が「業務及び営業担当常務取締役」、三男が「第一業務部課長」。そして、主人公が「第二業務部業務四課業務係り係長 杉並支社」、もう2人は「本社第三業務部部長」と「第七業務部業務七課業務係り主任 西船橋支社」。
 これでは役名詐称ではないか。これから考えても判るようにユーモアドタバタ小説だ。
   
 銀行に「支店長代理」という役職がある。支店長の次かと思うと、さにあらず、ほとんど平社員に等しい。支店長代理の上司が係長だ。
「支店長の代理として責任を持って営業をしている」というが、それは内部の話。外に出しては役名詐称に近い。

 鈴木重工業有限会社の会長は壊れた電気器具などを捨てることができない。修理すれば使えるが費用がかかる。あとで修理しようと、とりあえず故郷に倉庫をつくり、そこに収納してある。もったいないといいながら、更に大きな無駄をしているのだ。捨ててしまえば、倉庫は要らないし、そもそも修理して使うことはあり得ない。
 なぜ、こんな話をするのかと言うと、実はよく似た話があるのだ。

 わたしは、パワハラに書いた会社を退職して、ある小企業に就職した。
 小さな部屋にいる人は、
 代表取締役社長・登記上別会社の取締役会長・専務取締役・常務取締役営業部長・取締役総務部長・取締役第一営業部長・取締役第二営業部長・第三営業部長・営業第一課長・営業第二課長・2人の女子社員・そして入ったばかりのわたしである。そうそうパートが1人いた。別室があって、そこに女子社員が5人。
 頭でっかちの組織だが、鈴木重工業のように、ごく小規模の会社ではよくあることである。わたしの名刺を作るとき、製作係長にするという。意味がないので断った。それ以降も人の入れ替えがあったが、新入社員を課長だの部長だのにする。部長が入社3日目で辞めて、課長が2日目に辞めたりを繰り返していた。
 かなりの人が入れ替わったが、だんだんと売り上げが減り人も減り、わたしが退職した頃には別室はなくなっていて、会長(前社長)・社長・部長3人・課長2人・平社員4人になっていた。
 部屋は狭くて荷物置き場にも困っているのに、故障してしかも古くて使うことのなくなった電子機器を捨てられなく、5年も場所をとっておいてある。15年も前に製造中止になった電子機器だ。たとえ修理できたとしても、性能は悪く、使える人もいなくなっていた。これは経理的には少しは意味があるのだが、費用(家賃)をかけてとっておくほどのことはない。意味とは黒字の時に廃棄すればその分税金が安くなること。
 鈴木重工業会長を笑えません(^。^)。

 退職するころ、わたし自身は会社の倒産を願っていたほど。倒産ならば、早く雇用保険金がもらえ、退職金より多い。なかなか倒産しないので、こちらから退職願いを出したのが実情である。
 ある現場の嘱託は、ミスがあったと何回か費用を負担させられた。結局「時給300円にしかならないよ」と、会社の仕事をやめてしまった。
 わたしが退職のときにも、会長はなんと退職金をごまかそうとする。しかし新社長は、雇用保険金より少ない程度の退職金のさらに数分の一をごまかして裁判で争う気はなく、全額支払いに同意した。
 わたしが退職金規定を知っていたので、争う気が失せたのかも知れない。わたしはいざというときのために、弁護士の用意までしていた。結局五千円の相談料だけで済んだ。
 逆に、そんな会社だからわたしが就職できたとも言える。感謝しなくてはいけません(^_^)。

09年:先日当時の同僚から電話があった。わたしが辞めてから2年ほどで、全員が辞めてしまった。先日会長も亡くなって、知っている人は社長くらいしかいなくなったという。
 その亡くなった会長は自分では営業ができず、営業成績が落ちたら神頼み。狭い部屋に神棚を鎮座して、毎朝わたし以外の全員で神頼みするのだ。わたし一人が拒否していたので、会長とわたしの仲は冷え冷えだった。
会「君は創価学会なのかな」と下手に出てくる。
謫「いいえ違います」
会「創価学会でもないのになんで拝まないだ」といきなり恫喝された。
 宗教は創価学会しか知らないらしい。それとも創価学会が怖かったのか。わたしは−神仏は尊し神仏を頼まず−で通している。

 登記上別会社の会長が亡くなったときも、社長は花輪一つで、済ますつもりだったらしい。その家族は従業員数十人(実は取引先も含んでいる水増し)の会社の現役会長が亡くなったのだから、当然会社から…、というように思っていたという。実体は机一個のペーパーカンパニーで、毎週一度営業会議のためにその椅子に30分ほど座る程度で、あとは不在。登記上もう二人取締役がいて運営している。
 会長とは名刺に刷るだけで、実体は嘱託の営業マンのようなもの。家族が実体を知ったら唖然とするだろうな。

 会長が亡くなったとき、電話が入った。辞めさせられた元営業部長からである。おいおい、解雇されて泣きながら辞めた人が、葬式の手伝いなんかしているのかよ。呆れたが、それが世間の常識かもしれない。そうわたしは非常識な人間なのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:01| Comment(4) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
変人奇人3部作面白く読ませて頂きました。
苦労してきた話を面白いなんて言ってはいけないのだろうけど。
特にたくせんさんが先生を殴るなんてビックリ!!
見ていた周りの生徒は気持ち良かったと思います。
似たような経験があるので。

殴るところを見ていた僕はスカッとしました。
本人は謹慎になってしまいましたが。

僕も一度だけ残業時間160時間した事があります。
通常は40時間前後なのですが。
当時自慢しまくりました。
残業手当が基本給の金額を超えていたのです。
記録的な給料に満足して通常の残業時間に戻ると
部長に、もう一度やってくれない?と言われ
、僕はうーん、ちょっとー、と曖昧な返事で断りました。
Posted by ソラ at 2009年12月16日 22:56
ソラさん。
 わたしの場合、義務教育の中学でしたから、教師が授業ごとに生徒を殴り歩いているとなれば、表沙汰になったら教師のほうが問題ではなかったかと思います。だから謹慎どころか、一切なにもなし。それについてはなにも心配はしていませんでしたね。
 心配なのは、学校に言えないからと母親にねじ込まれることでした。そうなったら校長先生のところに直接わけを話しに行こうかと思っていました。
 毎回殴られることがなくなったのだけでも、おおくの人は喜んだと思いますが、逆にとんでもないという人も。田舎なんです。

 残業は忙しいときなら仕方ないけど、通年になってはする気になれません。残業が100時間を切るようになると、社長は「仕事がない困った」と営業にハッパをかける、そんな状況でしたので、残業80時間のわたしは極悪人扱いでした。(^_^)。景気もバブル、仕事もバブル。そんな時代でしたから。
 160時間、そういうのは一度きりですよね。生活ができなくなってしまいます。断るとができただけでも時代の差を感じます。
Posted by 謫仙 at 2009年12月18日 06:33
私の子供のころは、学校でも会社でもこういう暴力事件がありました。
当時は当然といったおもむきでした。
小さな会社では従業員はほとんどが、今で言うワーキングプアでしたので、暴力に逆らえない。仕事が合うとは合わないとか言う前に、ともかく働いて生きていかなければなりませんでした。東京に出てきたときは、4畳半一間が普通でした。
学校もクラブでは暴力が当たり前でした。わたしはそれでクラブ活動を辞めました。
そんないろいろなことを思い出させる話です。
Posted by mino at 2009年12月20日 17:44
minoさん
そうそう4畳半一間とか6畳一間が普通でしたね。
わたしはしばらく会社の寮に住んでいましたので、それだけでも家賃が助かりました。一部屋4人でしたが、なんとか生きていかなければならないので、それでも我慢です(^。^)。
時代の差を感じます。
あの時代でも、恵まれた人は自動車を乗り回していたのですから、富の偏在は今並みですね。
わたしは生きていくのに必死でしたから、それ故のおかしなことがいろいろありました。これらのこともその一つだと思います。
Posted by 謫仙 at 2009年12月20日 19:32
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