2021-2-10改訂
新譯漱玉詞
花崎采琰(さいえん) 新樹社 昭和33年(1958)
李清照 −詞后の哀しみ−で紹介した「新譯漱玉詞」である。
この出版社はすでに存在せず、おそらく二度と手に入らない本である。訳者は東洋大学倫理文学科卒業後、漢文検定に合格し中学校の教諭となっている。中国語は話せなかったのではないかと思われる。
この本は当時(1987ごろ)としてはありがたかった。しかし、原文と意訳文のみで解説も読み下し文もなく、とても味わうところまでは至らない。翻訳のレベルは高くはないと思う。それゆえ復刻の可能性はない。
中身はこんな具合
国会図書館にあるので、もし読みたければ、国会図書館でコピーを頼むのがよい。わたしは国会図書館で半分、もう半分は日比谷の都立図書館から借りてコピーした。
末尾に論詞・金石録後序・打馬図経序の読み下し文と、易安居士年譜がある。
李清照の伝記は「金石録後序」に頼るしかないが、これは李清照本人が書いたもので、客観性に多少の疑問があると思う。
わたしは「金石録後序」の読み下し文をちょっと読んだが、意味が判りにくい。後に原文を手にして比べて見ると、漢文の解釈に間違いがあり、読むのをやめた。
二カ所だけ紹介する。
…………………………
訳者読み下し文
余建中辛巳始めて趙氏に歸ぐ時。先君禮部員外郎丞相と作る。時に吏部侍郎と作る侯年二十一。太学に在りて学生と作る。
拙の解釈。
余建中辛巳始めて趙氏に歸(とつ)ぐ。時に先君は禮部員外郎と作(な)る。丞相は時に吏部侍郎と作る。侯は年二十一、太学に在りて学生と作る。
余は私。
歸(とつ)ぐ。嫁入りは仮の家から実の家に帰るという考え方をした。
侯とは夫の趙明誠を指す。二十一歳で太学生であった。
先君とは、清照の実の父親を指す。
丞相とは明誠の父親である趙挺之。後に宰相となった。
意訳すれば、「わたしは、建中靖国元年に趙氏に嫁いだ。そのとき父は礼部員外郎であった。夫の父は吏部侍郎であった。‥‥」
この文によって、建中靖国元年に趙氏に嫁いだことが決定できる。
最後の易安居士年譜では「建中靖国元年辛巳、十八歳趙氏に嫁ぐ」としている。これは正しい。ところが序文では、元符二年としている。二年ずれているのだ。
鳴呼、余自少陸機作賦之二年、至過キョエン知非之両歳三十四年之間、……紹興二年
という文が元文にある。
陸機作賦 二十歳
キョエン知非 五十歳
ああ、わたしは、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、キョエンが非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間、‥‥‥紹興二年
「18歳から52歳まで34年間‥‥‥」の意味である。
序文にこれを、陸機作賦を十五歳とし、十三歳から四十九歳としている。
紹興二年は数え49歳であり、ここらあたりから錯覚したようだ。
興味のある人は、拙文 李清照年表 と比較してみて下さい。
こんなわけで、レベルは低く他人に勧められる本ではないが、わたしにとって宝物の一冊である。