千寿先生はよく詰め碁をやりなさいと言う。特に碁を始めたころには詰め碁をやりなさい。わたしたちをさして、「おじさんたちに詰め碁をやらせると眠くなってしまう(^。^)」。
わたしたちには、「常に詰め碁の本を持っていて、少しでも暇があったら見る。それも易しい詰め碁でいい。むずかしい詰め碁を時間をかけて解くのではなく、易しい詰め碁を繰り返し、形を憶えてしまいなさい。そうして考えるまでもなく、形を見ただけで解けるように」。
ある日、この本を古書店で目にして、すぐに買った。ところがあることに気がついた。わたしはそのちょっとした時間がないのだ。理由がある。
わたしはいつも本を持っている。だから少しでも時間があればその本を読んでいる。
そうなると、もう一冊詰め碁の本を持っていても見る機会がない(^_^)。それでもなんとか時間を作ろうとしているが…。
さて、この中に「囲碁用語」の説明もある。その中に「岡目八目」があった(P324)。これは囲碁用語なんだろうか。まあそれは言葉のアヤで問わないとして、その意味を次のように書いている。
岡目八目
打っている本人は主観的で、盲目だがハタから見ているとよくわかる。八目ぐらいさきまで読めるの意。
この文、どう読んでもプロ棋士の文とは思えない。「八目ぐらいさきまで読める」とは、戸沢先生、どんな意味なんでしょうか。失礼ながらご本人は目を通さなかったのではないか。
念のため、広辞苑第三版(昭和58年)では、次のように書いている。
他人の碁を傍で見ていると、実際に対局している時よりずっとよく手がよめるということ。転じて、局外にあって見ていると、物事の是非、利・不利が明らかにわかること。
駄目・布石・定石・一目置く、などは日常語となっているが、碁の用語でもあると思う。しかし岡目八目を囲碁用語とするのは疑問を持った。それでも説明がしっかりしていれば、関連用語として、許容範囲であろう。だが上のような意味不明の説明では…。
実は碁を知らない人が、この言葉を説明しようとすると、必ずと言えるほど戸沢説のように説明する。どこかで読んだが、初期の広辞苑にそのような説明があって、それを丸写ししているのだという。それをまた丸写しするわけだ。
第三版の説明は正しい。すでに広辞苑も改まっているのに、それを見もしないで初版の孫引きで丸写ししているとこうなる。
(正しくは、わたしも広辞苑の初版で確認しなければならない。それができないので、申し訳ないが、たとえ広辞苑ではなかったとしても趣旨は変わらないので、ご了解願う)
もうひとつ。
斧の柄(おののえ)
碁を見ているうちに斧の柄が朽ちてしまった。そのくらい長い時間が過ぎた。碁のこと。
爛柯という言葉は知っているが、「斧の柄」という言葉が碁のこととは初耳。
碁を見ているうちに、柯(おののえ)が爛(ただれる、朽ちる)たので、爛柯という語ができ、熟して碁を意味することは、「笑傲江湖の碁」で書いたことがあるが、わたしの疑問は「斧の柄」だけで碁を意味するのかということ。そこまでの意味は無いはず。
ちょっと苦情を書いたが、この本そのものは愛読というか愛用している。