高島俊男 文春文庫 2002.10
お言葉ですが… の続きである。
2 はレベルが高くなり、わたしの知らないことも出てくる。
えっ、そうだったのですか。と思うところが何カ所かある。
ひとつ取りあげよう。
「全然良い」
この言葉をどう思うか。
わたし(謫仙)の感覚では「全然ですか? 良いのですか?」と迷ってしまう。
否定は全然、肯定は断然、と使い分けたからだ。だから「ダメです」というとき、「全然です」と言う。
しかし、現在世間では、どちらも「全然」を使うことが多くなった。わたし(謫仙)などは、それが現在の通念で、もはや否定の時ばかりではなくなったと思う。言葉は変わってくるのだ。
これに対して、高島俊男さんは、否定の時に使うのが現在の通念かと驚いている。
明治時代から現在まで、ずっと肯定にも使われていた。だから否定につくという観念がない、そうだ。
いろいろと例をあげて説明している。もっとも、これらの使用例が、全部、間違って使用した例、という可能性もないとは言い切れないのだが。
この他、わたしには気付かないことやわたしが間違っていたことなどをいろいろ取りあげてあり、
「恐れ入りました」
--------------------------------------------
3 は、かなり専門的になってくる。
例えば「臥薪嘗胆」という言葉がある。史記及び呉越春秋にはこの言葉はないという。
この言葉は千五百年後の北宋のころにできたらしい。
意味も違った。「臥薪」とは薪の上に寝て焼き殺されかねない、「身の危ういのも知らぬノーテンキ」の意味であった。
呉王夫差が「臥薪」したということは記録にない、にもかかわらず日本の辞書にはほとんどそう載っている。
誤解の原因は、最初に誤って辞書に載ったのを、後に作られた辞書がそれを真似したからというのだ。
原典を調べぬのか、と辞書を叱るのである。
その他にも間違いを指摘しているのであるが、いくつかは、「そうですか。しかしお言葉ですが…」と返したくなるところもある。
言葉は変化する。誤用か変化したのか、この判断の基準がわたしとは少しずれている。これは当然、人によって異なるであろう。さらに、あまり使われない言葉は、論を尽くされても…。
よく新かなづかいの欠陥を指摘するが、旧仮名遣いにはそれ以上の問題があったと思えるにのそれには触れない。同じく漢字の新体字の矛盾を指摘するが、舊字體にも、問題が無いわけではない。そこまで書くなら言葉に迫力が出るのだが、それには触れない。
高島さんは漢字のプロである。しかし、漢字には拘らない。某作家は、見る・観る・診る・看る・視る、と二十数種類も使い分けたという。高島さんなら、「みる」とかな書きで済ますところ。「日本語で「みる」という言葉を漢語(中文)でどう書くかなど考える必要がない」と言うであろう。
この本を読んでから、かなもじで表記するのが恥ずかしいとは思わなくなった。もちろん漢語は漢字でなければならない。交ぜ書きなどもってのほか。
高島さんが意見をするのは言葉のプロたちへ。これは視線が厳しい。アマへの視線は暖かいと思う。
参考:日本語を知らない俳人たち
2010年04月29日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック