冲方丁(うぶかた とう) 角川書店 2009.11
2010年5月8日 記
2012年7月26日 加筆訂正
いま評判の天地明察を読んだ。これほど夢中になって本を読んだのは久しぶりだ。江戸の初期。日本の数学水準の高さを示す一冊だった。
碁・数学・天文学・神学、それら全てに一流に達した渋川春海。日本の暦は二日ずれていることを知り、それを正す暦作りに全力を傾けた人。わたしは碁方として安井算哲の名で知っている人物だ。
2010年の本屋大賞一位となった。わたしはこれによって、本屋大賞という賞を知った。
名人碁所 では、道策との実力差を知り天文方に転じたと書いた。しかし、数学や物理は大人になってから始めてできるものではない。少年時代からの研鑽があって、心に抱いていたので、天文方に転じることができたのである。
天文学には当然ながら高度な数学も必要だ。当時の数学を和算という。和算では春海と同年の関孝和などが登場する。関孝和は代数や行列式を考え出した当時世界のトップレベルの数学者だ。残念ながら、その数学は実業界に敷衍せず、芸術文化の世界におさまっていた。例えば碁のような扱い。
和算は勝負の世界でもある。ある人が問題を提示する。解けた人は答を書いておく。それが正しければ出題者が「明察」と書き加える。
ことごとく「明察」となる関孝和。それに畏敬の念を持つ春海。和算の熱気が伝わってくるではないか。そして春海は、「天地」のことわりを「明察」する。
徳川の政治体制は、武断から文治へ移ろうとしていた。当時の身分制度のあり方や人の考え方や江戸文化など、できるならば世界中の囲碁ファンに読んでもらいたい。ただし、以下に書く碁に対する誤りを訂正して欲しい。
プロ棋士小林千寿さんは「著者の冲方丁氏は多分を碁を打たれないのではと推察しますが、『棋士』をよく観察されているように感じました」と言う。
実はわたしも著者は碁を打たないと思った。数学や天文学はどうか。それなりに知らないと書けないと思われる。もちろん資料を丹念に読んだことは間違いない。
碁以外の問題もあり、失礼をかえりみず、引っかかった文をあげる。(赤字は原文通り)
P40 十二歳で同年代の四代将軍家綱の御前で碁を打つ公務を努めた。
この歳では、御城碁は打っていない。記録にない登城があったか。
初出仕は万治元年(1659)二十一歳のときである。
この本では、御城碁以外に登城して老中などを相手に碁を打つが、老中たちが公務中に打っただろうか。普通は大名屋敷などで打たれる。これを勘違いしているのではないか。碁方が登城するのは、原則として御城碁のときだけのはず。
P58 半ば無意識に、初手を右辺の星に打った。
亡父が遺した打ち筋のなかでも、特に好きな“右辺星下”の初手打ちだった。
星なのか星下なのか。
後にこの話がもう一度出てきて、それは“右辺星下”であった。「下」の字が洩れただけかなあ。
門外不出の手のような大げさな書き方をしているが、あまりいい手ではない。道策は一笑に付したであろう。
P61 井上は、五十六歳。対して酒井は弱冠三十七歳の老中であった。
他でも弱冠(二十歳)について書いたが、三年後には初老(四十歳)になる「三十七歳」を弱冠と言うかねえ。
P71 (御城碁を)上覧碁と言って、過去の棋譜を暗記したものを対局者と合意の上で打ち進める。 …、自由に打とうとすれば、悪手の連発となる。
前半は錯誤がある。もちろん上覧碁とは将軍にお見せする碁の意味だが、過去の棋譜ではない。
当時は上覧の場(黒書院)では打ち切れず、寺社奉行宅で打ち継ぐことが普通だった。それで1669年に下打ちの制度ができた。その後は最後まで上覧できたが、その碁はその直前に打った当人の碁である。下打ちから上覧まで、親が死のうが帰宅は許されない。
後半は明らかな誤り。高段の碁なら、自由に打っても悪手の連発になることはない。
P252 碁所、あるいは碁方とは言うまでもなく碁打ち衆の頂点である。
碁方は碁打ち衆のことで、碁所ではない。他にも碁方を碁所と勘違いしているところがある。(P253などなど)
P294 「必至!」叫ぶように答えた。反射的に口から出たそれが、碁の語彙でもあると遅れて気づいた。
「必至」は、将棋の語彙であって碁の語彙ではない。次の手が王手になり詰む形で、相手は防ぐことができない状態のこと。この「必至」は何度か出てくるが、意味がずれているように思えた。
P319 「ぜひ一手御指南を」などと言って、さっそく碁笥を手に取っている。しかも白石の方だ。春海を目上の者として立てつつの先番譲渡である。…こういう謙遜の態度を示せるのも…
目上の者と立てたのなら黒を持つであろう。コミのない当時、白石を持つのは自分が上だと宣言するようなもの。謙遜と言う言葉は、どこから来たか。
万一、黒を持つはずの人が白を持ったら大変な無礼になる。
P320 「…この北極星たる初手を、葬っていただきたい」なんと手筋の抹殺を宣言された。
算哲が天元に打つと、道策は初手天元を否定する意見を言う。これは初耳。あの道策が、初手天元打ちを不利だと言うのなら判るが、打ってはいけないと言うだろうか。
なお、初手天元打ちは「手筋」ではない。
P330 御城碁で、道策白番九目勝ち。道策は緊張が解けて肩を落とし、春海は負けても残心の姿勢を崩さなかった。それで
安井家に一日の長あり
と評された。
ここでは、春海は碁は完敗し、「一日の長あり」どころか、手の届かないほどに引き離されている。ここで「安井家に一日の長あり」と評した人は、碁を知らないことを白状したようなものだ。
史実では、碁所安井算知と本因坊道悦の六十番碁のとき、算知が二十番まで持ちこたえたことを「算知に一日の長あり」と評されたのだ。ただし、碁を知る人は算知の完敗という。このことについては、
P387 算知が二十番碁に負けた。
それでもなお、
「安井家に一日の長あり」
との評判が続くほどの算知の健闘であったが、碁方の座は、本因坊道悦に譲り渡された。
とも書かれている。
この言葉の前半は間違いではないが、算知が負けているのであり、年に一局でもあり、「評判が続いた」ものか。二年間第16局までに道悦が9勝3敗4持碁とし先相先に打ち込む。さらにその後4年間では道悦の3勝1敗。算知は完敗し、碁所を返上することになる。
後半の「碁方の座は、本因坊道悦に譲り渡された。」は間違い。前にも書いたが、碁方は碁打ち衆のことで、著者は碁所と間違えている。しかも本因坊道悦は碁所にはなっていない。碁方は…碁で仕える人すべてが碁方だ。
P416 算知との勝負に勝って僅か二年、本因坊道悦はその跡目を、一番弟子である道策に譲ることを決め、
跡目は「あとめ」と読む。幕府に届け出ている、次代の当主予定者のことである。天皇家なら皇太子にあたる。
この時すでに道策は本因坊跡目であった。道悦は当主であって跡目ではない。跡目を道策に譲るとは、矛盾している言葉だ。ここは「跡目道策に家督を譲る」とせねばならない。
P422 延宝五年、十一月。御城碁において、春海が、道策を五目の差まで追った。…
翌年の同じ月、同じく御城碁における勝負は、さらに白熱した。なんと道策に対し、春海が三目の差にせまったのである。
これは棋譜を検討しないとなんともいえないが、「五目の差」や「三目の差」という数字には、意味がない。三目の差だから五目の差より迫ったとはいえない。足りないから強く迫ったためかえって差が開くというのが普通。
P437 酒井は逝去した。享年五十七歳であった。
何度か「享年◯◯歳」という言葉がある。気になってここだけはインターネットで調べてみた。酒井忠清の生まれは寛永元年10月19日(1624年11月29日)。死去は天和元年5月19日(1681年7月4日)。これが正しければ、享年は五十八。
ここはもし「享年五十七であった」とあれば気にならなかったところ。
…………………………
以下は明らかな誤りとは言えないが、気になった文。
P161 丸めた紙を左手に握りながら、右手だけで脇差しを鞘から引っこ抜こうとした。
むろん普通は鯉口を切ってから抜く。鞘を引っ張っただけで刀が抜けたら危なくて仕方ない。
言葉は間違いではないが、鞘を引っ張って刀を抜こうとしているのではない。とうぜん柄を握って引っ張るはず。ましてこの場合は右手だけ。後半の説明はなんのためにつけたのだろう。鞘と柄の間違いか。
P179 江戸から歩き出し、二人のうち一人が、1日目に緯度を三度も誤る。三度といえば三百キロ以上だ。一日の歩きをこれほど誤るものか。
計算の方法は歩いた距離から緯度を出す。(計算例は載っていないが、前が三十二度二十分とすれば、今日は五里南へ歩いたから十分引いて、三十二度十分、というようになると思われる)だから、歩行距離を300キロも間違えた事になる。プロが、1日の歩行距離が、20キロか320キロか判らないとは考えられぬ。
ただし、この件は登場人物の単なる計算の間違いともいえるので、著者の間違いとはいえない。
P253 長いので引用しないが、ここでは争碁を算知が望んだように書かれている。「名人碁所」では争碁は道悦が望み、算知は逃げ回っている。どちらの説が正しいか。これは小説なので自由に解釈していいのか。
P251 二十七歳になった春海は、前髪があることをつくづく恥ずかしいと思うようになっている。
P255 春海は二十八歳。ことは十九歳。どちらも遅い結婚である。特に春海は遅い。それなのにおかしな髪型をしている自分が春海は恥ずかしく、…
普通は十代で元服して、前髪を落とす。それをしなかったとしても、二十八歳で娶るとき、その前に前髪を落としそうなもの。前髪のまま婚礼とは考えられない。
しかも算哲は1659年に数え21歳のときから御城碁を打っている。この時は坊主頭になっている。
幕末の大田雄蔵は、坊主頭になるのがいやで御城碁を辞退しているほど。
P257 「二十番碁を命ずる」という、空前絶後の争碁こそが将軍家綱の決定であった。つまり将軍家綱が、碁に詳しくなり、白熱した真剣勝負を観覧したいと望んだということである。
「名人碁所」では、家綱はいやいやながら、役目上形式的に碁を見るだけ。どちらが本当か。なお幕命(おそらく寺社奉行の命令で、将軍の命令ではないだろう)は「六十番碁」でありながら、二十番しか打たれなかった。
P265 寛文七年、秋。
春海は、会津へ向かって江戸を発った。
そして、会津鶴ヶ城で保科正之に会い、改暦の話をする。そこで一年ほど活動する。
P323 寛文九年四月、保科正之が隠居し、
二十年以上もの間、幕政を優先して藩に戻れなかった正之にとって、ようやくの慰安であった。
P265に、寛文七年秋に、会津鶴ヶ城で春海に会ったと、記述しているではないか。
P292 「ふ…不肖の身なれど、粉骨砕身の努力をさせて頂きます」
ここは「させて頂く」ところかねえ。「致す」べきだと思うが。
P457 そっと積み重なった己の歳を数えてみた。四十五歳二ヶ月。
当時の人がこのような歳の数え方はしない。数え歳のはず。
…………………………
たまたまわたしは碁のことを少しは知っているので、気がついたことを書いた。こうなるとわたしの知らない数学や暦学の専門用語や使い方に間違いはないか気になってくる。
著者は天文学については、そうとうに詳しいようだ。天文学に関しては素人ではないと思われる。それで天地明察である。ただし、記述の内容は年代的に無理なところもあるという。天文学の歴史は明察ではないようだ。
P353以下に、暦勝負の話がある。使われている暦と、春海たちの提案する暦で、どちらが月蝕日蝕をあてるか、というもの。三年間で六回予報されている。
このあたりに著者の長年の資料集めの成果を感じる。これがあるから書く気になったのだろう。これだけの質が碁の話にもあったらと思う。碁も資料はあったのだろう。いかんせん、碁を知らず専門用語の意味を知らないのが致命的。
碁の常識を変えた本因坊道策
数学の常識を変えた関孝和
暦の常識を変えた渋川春海
日本文化の三巨人が同時代に生きていた。
参考 名人碁所 招差術 江戸の碁
相変わらず言葉に厳しいです。
明らかな間違い、これは私にも分かります。小説家が史実と違うことを承知で書いたのかどうかということと、現代言葉ならかまわないが時代小説ではまずいということがありますね。
「享年◯◯歳」など、もう間違いとは言えなくなっていますね。年齢の数え方はおかしいです。著者は若い方で、昔の数え方を知らないのではないかと思いました。
碁の専門用語は分らないなら分からないですませて、碁の細かいことには触れないという手もありそうです。
機会があったら読んでみます。期待しないで下さい。
ぜひ読んで下さい。
著者は高校を出て10年以上といいますから、まだ若いといえます。
わたしも、著者は数え年を知らないのではないかと思いました。でも暦の話ですからねえ。
それと、囲碁の扱い方の問題。たとえば3目差まで迫ったとありますが、これは算哲の定先です。それに3目差なら、道策は余裕たっぷりで逃げ切ったのではないかと思われます。
そんなわけで、碁には触れないで済ます方がよかったと思えますね。
小説としては稚拙なところもあります。
クライマックスを最初に持ってくる。
「……となることを、その時は予想もできなかった」という形の文の多用。
題材が面白いので、夢中で読んでしまいましたが、問題点も多い小説でした。
いま加筆しました。もう一度読み返して下さいm(__)m。
> 数学や暦学の専門用語や使い方に間違いはないか気になってくる。
間違えています。算額問題で、妥当なものは最初の三角形の問題だけです。
暦学に関しても、誤謬の指摘があります。
碁の記述にも、やはり誤謬があったのですね。
やはり、間違いがありましたか。いま「digital西行庵」を見ましたが、これほど散々なできとは、思えませんでした。ありそうだなとは思っていましたが。
著者は自分ではこの問題を解いていないわけですね。解けなくても考えていればこのような間違いはなくなるはず。
暦学にしても誤謬。
こうなると、著者の専門(専門とは言わなくても、得意な分野)はなんだったのだろう。高校生のころから春海に興味を持っていたにしてはお粗末。
取り巻く人たちにこの方面の専門知識がある人がいなく、間違いを指摘できなかった。本屋にしても事情は同じでしょう。
碁に関しての間違いは、ストーリーに影響していないか。わたしにはそこが一番心配でした。このままではとても外国に紹介できませんねえ。
自分も最近(昨日の夜です)この本を読んでみました。
>P319 「ぜひ一手御指南を」などと言って、さっそく碁笥を手に取っている。しかも白石の方だ。春海を目上の者として立てつつの先番譲渡である。
ここは、自分も「あれ?」と思ったのですが、
「ぜひ一手御指南を」と、丁寧な言葉で「目上の者として立て」つつも、
「先番譲渡」=黒石をどうぞ=自分のほうが強い・・・
と言っているのではないでしょうか。
つまり、
「あなたは目上だが、囲碁は私のほうが強い。」
なににせよ、分かりにくい表現だとは思います。
常識的にはそう考えるところでしょう。ただ当時の状況を考えると、白番黒番は勝手に変えられるものではない。
「先番譲渡」と説明しています。白番を譲ったなら譲渡と言えますが、黒番を譲ったでは白を奪ったとでも表現すべきでしょう。
「こうも謙遜の態度を示せるのも…」は先番譲渡をさしています。矛盾します。
このあたり、おそらく、現代の勝負碁の感覚でしょうか。当時は、勝負に関係なく地位は決まっている。勝負を重ねることによって地位が決まります。
ここで賞金が出ているのかどうか判りませんが、考え方として、次のように思います。
現代なら勝った方が賞金を受け取る。当時は勝敗に関係なく、上の人が賞金を受け取る。だから負けても白を譲れない。
春海や道策がそう考えたかどうか判りませんが、制度はそうなっていたと思います。だから命がけで白を求めた、名人を求めたと思います。
著者はそこが判っていません。
碁所になると手合いが不利だから、碁所になる者がいなく、空席になっていた。と言う意味のことをどこかに書いてありました。
これは碁所の意味を知らない人の錯覚です。
>「あなたは目上だが、囲碁は私のほうが強い。」
結局、この解釈は成り立たないと考えます。とにかく、判りにくい表現ですね。
の「も」が抜けていました。訂正しました。このもは、
普通の言葉が、碁の語彙でも という意味で、
将棋の語彙でもあるが…、という意味ではありません。
だから、趣旨は全く変わりませんので、その他はそのままです。