直木賞受賞作である。わたしが直木賞や芥川賞の受賞作と知って読むのは、おそらく初めてのこと。知らずに読んでいるものはあるかも知れない。
誰だったか、相撲に譬えれば、芥川賞は殊勲賞、直木賞は敢闘賞と言っていた。世間では大騒ぎしているようだが優勝ではない。将来優勝するほどに育って欲しいという意味だ。

さて、この本は利休の切腹直前から始まる連作短編集といえる。だんだんと過去に遡り、最後はこの物語の精神的中核となる話があって終わる。そして切腹のシーンを付け加える。
しかし読み終えてみると、このように過去に遡る順に疑問が生ずる。必然性はないように思える。普通に時系列にそって話をすすめ、長編としてはどうか。それで不都合はないはず。「精神的中核となる話」を匂わし続けて、最後に持ってくるのはあざとい気がする。利休の精神に反しよう。
利休となれば茶の湯だが、その利休の茶の湯の心を茶の湯の美しさを丹念に説明している。わたしのような全く茶道を知らない人でも、なるほどとうなづいてしまう。しかし再現はできない。
茶道は人によって違う。利休はこうした。だが、他の人はマネをせずに、自分の美を追究せよ。これが利休の答えであろうか。
ある茶碗がある。宗安は銀300両という。利休は50両と見た。これを利休は、 「ならばあなたは300両の値を付ければよい。わたしの付け値は50両だ」 と断定。
価値観は人によって違う。どのような品物も、その人がそう思えば、その人にとっては価値があるのだ。
だがそれも、利休の値を皆が信じるから言えること。金になるから言えること。目利きであると同時に、その素材を美しく見せる技能を持っているのだ。そうでなければ、ただの香具師にすぎない。
わたしには、利休の美の恰好の入門書に思えた。