2010年06月28日

曼陀羅の山

曼陀羅の山 七福神の散歩道
陳舜臣   集英社   2001.3
        mandaranoyama.jpg
 陳舜臣は小説家だが、わたしはエッセイばかり読んでいて、長い間小説家であることを知らなかった。
 後に耶律楚材とか桃源郷などを読んで、小説家であることを確認した。
 陳舜臣のエッセイは多くが中国がらみになるため、中国の歴史の恰好の参考書である。それも教科書に載らないような、それでいて人生にとって大事な事を、やさしく解説する。
 その姿勢は一貫していて、わたしの人格形成にどれほど影響したか計り知れない。この本も例に漏れず、どの話をとっても、読んでよかったという話ばかり。
 まえがきにしてから、自分の随筆「三燈随筆」の意味を次のように説明している。
 中国の家系では、あらかじめ名前の一部が決まっていることが多い。舜臣は燈の世代で、三男。だがら三燈である。
 ところが親戚に上の世代の名前の人がいると、たとえ赤ん坊でもおじさんと言わなければならない。そのため、陳舜臣さんの家では曾祖父のときから、その命名法はやめている。
 この話、金庸の武侠小説を読んでいるとよく出てくるので、陳舜臣の曾祖父の気持ちが判る。
 こんなこぼれ話のような、それでいて、大事な話ばかりだ。知らなければ知らないで済ませられるが、その分人格が痩せる。
 一つだけ取り上げよう。

「会ばやり」の世に思う
 春秋時代に「葵丘の盟(ききゅうのめい)」という盟約があった。その時の盟約のなかに「堤防をまげてはならない」という一文がある。黄河沿いの国では、黄河の堤防をいじられたら国が滅びてしまうのだ。
 以後、国が滅びようとも黄河の堤防をまげた領主は出なかった。ところが、1938年に、国府軍が、追撃軍の足を止めるため黄河の堤防を決壊した。これが盟約が破られた初めての事である。
 国府軍がひどい身なりで台湾に渡ったとき、「葵丘の盟を破ったからだ」と呟いた老人がいたという。
 この老人の話が本当かどうかはともかく、この話で、「葵丘の盟」を中国人がどのように考えているかよく判るであろう。春秋の覇者、斉の桓公は亡くなり、国も滅び、盟に加わった人も国も全て滅んで、新しい国が次々とできても、国際法として葵丘の盟の意志は引きつがれている。

 陳舜臣さんの随筆は図書館にあるものは全て読んだつもりでいたが、この本は初読らしい。2001年発行なので納得した。わたしが夢中になって読んだのは15年以上前だった。
posted by たくせん(謫仙) at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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