しばらく中国旅行の話が続いた。終わったわけではないが一休みして、本の話を。
人々が歴史を知るのは教科書ではなく、時代小説やテレビドラマである。特にNHKの大河ドラマは小説などを基にして作られているのに、史実と思い違いをしている人が多い。
例えば、豊臣秀吉は、吉川英治の「新書太閤記」であり、坂本竜馬は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が中心である。
大河ドラマなどはかなりの部分がフィクションで、この本はその歴史の見方扱い方を再検討している。目次を見てみよう。
怪しい人たち
歪められたヒーローたち
うそっぱちの名場面
おかしな風景
不思議な合戦シーン
例えば、北条早雲という人がいる。ところが、早雲は名ではなく庵号であり、北条という名字は息子の代になってから。そうなると北条早雲という人物はいなかった。
例えば、女性の名前は判っていないことが多く、誰々の娘というような言い方をする。小説では著者が適当に付けている。
例えば、真田幸村は真田信繁が本名で、幸村の名は江戸時代の軍記物の影響。当然当時は幸村とは言われていない。
例えば、ドラマでは名を呼ぶことが多いが、実際は通称とか官名で呼ぶ。
こんな具体的な例もあれば、次のように論証した例もある。
桶狭間の戦いは奇襲ではない。関ヶ原の合戦は徳川方が有利だったとはいえない。山崎の合戦では、天王山は無関係。川中島の一騎打ちはあり得ない。墨俣には数年前から城があり、一日でできたわけではない。その他、鉄砲や刀や馬の使い方の疑問など。
つまり、常識を確認しようとすると、それを覆すような史実があちこちにあるのだ。
水戸黄門を見て、これを史実たと思う人はいないだろうが、大河ドラマでは史実と思いこんでしまう人が多い。ドラマの作者でさえ原作を史実だと思いこんでいる人がいる。
この本をはじめ、こういう角度から論証した本が最近目に付くようになった。ただしどのくらいの研究によるのか心許ない。それが昂じてアマの文章では、歴史上の人物の定説に対する疑問を、疑問があるというだけなのに、まるで否定が決まったかのように書いている文まで見うけられる。それでも定説を盲信するよりましとはいえ、過ぎたるは及ばざるが如し。判らないことは判らないと認識するのが正しい。
ご指摘、拳拳服膺と云うことですか・・・。
日本の場合、庶民でもそのようなことを考えるひとが大勢いて、僅かの資料から、真実の姿を見いだす努力が続いています。
盲信しないというだけでも大変なこと。
それと同時に小説家の構想力にも感服します。判っている資料から、間を想像して埋めていく。それがうまく埋まった場合、上のような仮の歴史になってしまいます。読者は楽しめればいいといっても、これは小説ですと理解して読むかどうか。読書力も問われますね。
この本のような、「真実は……」という話を受け入れることができなくなっては困ります。