2006年06月07日

ごくせん

「ごくせん」のシリーズを一気に見た。
 大江戸一家の三代目の孫娘であって四代目になるかも知れない高校の数学教師を、仲間由紀恵が痛快に演じた。
 わたしは放送当時は知らなかったのであるが、知ってから気になっていた。
 問題児ばかりの教室を受け持ったヤンクミ(山口久美子)は、全力で生徒にぶつかって、指導していく。
 わたしは何度か涙を流してしまった。

 ありえない設定もあるがそれはなんとも思わない。しかし、一カ所だけ違和感を感じたことがある。しかもそれは間違いとはいえないのに。
 ある生徒がいじめにあって不登校生になってしまっていた。ヤンクミはその家を訪ねたが、大きな庭付きの一戸建て、「大」がつくかどうか判らないが、一応金持ちの家であった。つまり社会的な強者である。その生徒も決して不出来ではない。そんな家の息子がいじめに遭うかねえ。いじめる方なら納得できるのだが。
 ヤンクミは自分で立ち上がらないからいじめられるのだと説く。しかしわたしは違うと思う。
 その場面を見ながら、昔のある事件を思い出した。わたしが若いころの話である。
 ある夫婦が、一人息子を折檻して死なせてしまった。その家族は会社の社宅に住んでいて、会社の上役からの要請で、子どもを折檻しなければならなくなった。そうしなければ、一家が路頭に迷うのだった。
 社会的強者のいじめは子どものいじめにも及ぶ。おそらく弱者の子どもは、いじめにあって反撃すれば、親がいじめられ困った立場に追い込まれることを知って抵抗できない。
 俗な言い方をすれば、社会的強者の子は親の方から手を回して、反撃できないようにしてからいじめを始めるのだ。もっとも親子ともそのことを具体的に意識しているかは微妙である。そのうちに自分たちの特権だと思い始める。
 話を戻して、問題児ばかりを集めたクラスを新人の女教師に任せて、問題が起こるたびに責任を問うのも現実にありえない。ところがこれは気にならないのだ。
 もう一つ、この学園の理事長が最後に登場するが、学校経営を単なる事業としてしか見ていない。工場や農園で、生産物を選別するように生徒や先生を選別して、切り捨てようとする。
      武三いわく金は上野か浅草か  謫仙
 翁の句、花の雲鐘は上野か浅草か のもじりである。
武三とは俗物の代名詞、上野は寛永寺、浅草は観音様ではなくその裏手の花街。転じて、出家して修行するか、花街で女衒(ぜげん)になるかを、どちらが金になるかできめる者の意。そこに思想はない。出家さえ金儲けの道として考える。この武三が学校経営に乗り出すと、この学園の理事長のようになる。

これが12回+卒業式編の13回で終わってしまうのは惜しいが、マンネリ化しないので最後まで張りつめている。
 ヤンクミが修羅場に入るとき、眼鏡を外し、両側に分けて束ねたヘアーバンドをはずす。少し足を広げて構えるのが、武道家を思わせる。スポーツマン(ウーマン?)のイメージではない。
posted by たくせん(謫仙) at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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