先に紹介した 棋士の勲章 へ続く内容である。
この本の紹介は2002年4月に書いたもの。ようやくHPからブログに移す。
綺羅、星の如く居並ぶ、昭和の棋士たちを紹介している本である。
呉清源と坂田栄男は省略した。
木谷実
呉清源とともに新布石を打ち出す。特筆すべきは、棋院に代わって、大勢の弟子を育てたことである。後に、高段棋士・タイトルホルダーのほとんどが、木谷実の弟子たちで占められた。
呉清源
呉清源 参照
藤沢朋斎
昇段規定による最初の九段である。昭和24年、三十歳であった。しかし、呉清源に定先にまで打ち込まれ、辞表を出して日本棋院を離脱したこともある。このころから高川・坂田の時代となった。藤沢の得た冠は少ない。
後に真似碁で有名になる。
高川格
本因坊戦九連覇を成し遂げた。最強という評価は受けなかったようだが、大きな棋戦は、本因坊戦だけである以上、時代の覇者というべきであろう。
著者は、自分の碁は高川の影響が大きいと述べている。
なお、高川には著作が多い。
坂田栄男
石の鼓動 参照
林海峰
昭和40年、二十三歳の時、坂田を破り名人位を獲得した。従来の棋士とは違った棋風が評価を低くしていたが、十三歳で入団し、ノンストップで昇段したことは、それだけでも碁才の傑出したことを示している。
中国碁で育ったがゆえのバランス感覚があったと、評している。当時の中国ルールは第一手は星に打つ決まりがあったらしい。
その後は現在まで常に第一線で活躍し、不調でも名前が消えたことがない。
石田芳夫
昭和46年、二十二歳にして本因坊なっている。コンピューターと評された、計算の確かさとヨセの強さは、従来の棋士とは異質であった。
「僕は勘や気合いでは打たない。計算して打つ」
昭和49年に本因坊名人なり、頂点に立つ。だが、翌年には両タイトルを奪われ、その後は目立った活躍はない。
橋本宇太郎
戦争中の一番困難な時代に本因坊となり、無償でタイトル戦を打って、棋界の面目を保った。この棋戦の広島で行われた対局中に、原爆にあっている。
戦後は関西棋院を創立するなど、棋戦以外でも活躍している。天才宇太郎・火の玉宇太郎などといわれたが、後に総帥といわれるように、棋戦以外でも大きく貢献している。