この本は哲学の解説書ではない。実践の入門書である。野球でいえばキャッチボールのような、哲学のプレイヤーとしての入門である。観客としてのゲームの見方ではない。
なぜ人間は八本足か、という副題がついている。
哲学とは何かは諸説あるが、結論で、
皆さんに伝えたかったのは、哲学の問題は問題として間違っているという考え方です。ちゃんとした問題だと思えても、よく考えると誤解の上に成り立っていることが分かるはずだという考え方です。その場合の誤解とはことばに関する誤解です。
略
多くの人が、言葉の誤解を取り除けば哲学の問題は消滅する、と考えるようになってきました。
と言うように、多くの言葉の誤解を取り上げて解説している。副題の「なぜ人間は八本足か」には答えがない。それは問題が間違っているから。「なぜ〜か」〜の部分は普通観察された事実を入れなければならない。
このように簡単に判るものから、説明だけではなかなか理解できないような内容まで含む。
もうひとつ例をあげよう。電車に乗っている。どこに行くかと訊かれて◯◯へと答えられる。なぜか。
憶えていることもあるが、憶えていないこともある。計画書がなくても、切符の行き先を見なくても、憶えていなくても、訊かれるととっさに答えられるのはなぜか。訊かれたら思い出すからか、などと検証するが、このような問題には答えがない。なぜなら、◯◯へ行こうと自分が決めたことだからだ。
裸の看護婦の夢を見た。知らない人なのに、なぜ看護婦と分かったのか。
百万円の札束をひろった夢を見た。何で数えないのに百万円と分かったのか。
これらも同じことだ。
前に <こども> のための哲学 を紹介してあるが、それとはかなり切り口が違う。
それにしても哲学の問題は言葉の誤解だったのか。
哲学は言葉の問題であり、設問自体が間違っている、、というウィトゲンシュタインの言説は新しい切り口ですし、確かにスッキリする部分があります。ただ、哲学的なテーマと我々が普通考える内容がすべて単純に言葉のミスというのは違うと思います(そのこと自体が言葉の選択やイメージのミスかもしレマセンが)。
いかに生きるべきか、的な哲学的テーマはそれはそれとして宗教とも区別したうえでありうる、というか、存在していいと思います。
ものごとはどうなっているか
人生はどう生きるべきか
世の中の仕組みはどうあるべきか
決まった答えのない理想論、だからこそいろいろな考えがあってそれを比較する。このような問こそ哲学的問題と思っていましたが、言葉の誤解とは意外でした。
しかし、言われてみると、言葉の誤解も哲学問題に含まれることは理解できます。
わたしたちはわたしたちで、独自とは言わないが、自分なりの問題が存在していると思いますね。
もっとも内容は、哲学を題材にした個人的なエッセイとなっています。
何しろ、私が登場したり瞬間ですが、私が登場したりするのですから・・・(笑)
ハードカバーから、文庫本になった本もありますがこういう本、売れないのですね。
哲学を趣味をするといって、弟は大学院を中退(笑)
枯れに言わせると、いま、本当に哲学をしている哲学者はいない、哲学で生きていくには、
大学で教えるか語学を学び、翻訳者となって食べていくか、多分、両方をしなければならない・・・(笑)
本を書いてみて、編集者が売れる本をとうるさくて、買い手も修正ばかり、イヤになってやめています。
哲学とは、現代にとって必要であって、難しい問題なのかも知れません。
哲学だけで生きていくのは難しい。これは昔からそうだったでしょう。
宗教者も哲学者の一員でしょうか。ただし日本の仏教者のほとんどは職業人であって哲学人ではない。仏教者と話をしてみると、宗教内ながら哲学的教養はありますよ。だけどそれだけでは生活できません。職業とせざるをえない。
哲学は運転免許のようなもので、ただ車を運転するだけでは生きていけず、何かの職業に利用して生きていくことになりそうです。
この本を読んでいて、「哲学とはなにか」という問いが立てられます(^。^)。