2006年07月05日

仏の顔も三度

04.1.4 記述
 錯覚していた。
「仏の顔も三度」という言葉がある。わたしはこの意味を、間違いをしでかしたのを大目に見てくれるのも三度まで。それでも改心せねばもう許してもらえない。というような意味だと思っていた。ところが意味を知ってびっくり。
 本来は「仏の顔も三度なでると腹を立てる」で、どんな温厚な人でも、たびたび無法を加えられると、ついには怒る。
 そうか、許すのではなくて怒るのか。その前に仏ともあろう者が三度顔をなでられたくらいで腹を立てるのか。似ているようでも、まるで意味が違う。三度は悪事の回数であって、許してくれる回数ではなかったのだ。
 よく、仏の罰(ばち)が当たるとか、神罰が下る、などというが、仏罰という概念はない。仏教において、破戒した者はどうなるかといえば、仏陀(すぐれた仏教者)になれない、のである。それはバチとは違う。学問を怠れば学問に遅れるのと同じ。
 そんなわけで、わたしの頭の中には仏が怒るという発想はなかった。
posted by たくせん(謫仙) at 07:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 お釈迦さんはそんなことで怒りませんよ。まったく誤解したはりますわね。
Posted by 安倍薔子 at 2008年03月24日 01:06
俗説というのは、けっこう誤解に満ちていますが、それが人々の心に影響して、自戒するようになれば、この言葉も生きてきます。
庶民に判りやすく説明したということでしょう。
Posted by たくせん(謫仙) at 2008年03月24日 06:58
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