2011年06月05日

岡目八目


 わたしの持っている広辞苑第三版(1955)には、次のようになっている。
 他人の囲碁を傍で見ていると、実際に対局している時よりずっとよく手がよめるということ。転じて、局外にあって見ていると、物事の是非、利・不利が明らかにわかること。
 これは意味も正しく語源も正しい。(ただし、「八目」の説明がないので本当に判っているのかどうか)

 江崎誠致の随筆に、碁の博物誌 がある。1982年発行。その中に詳しく説明している。
 辞書に書いてあることがすべて正しいと思うのは間違いある。その一例に「岡目八目」がある。岡目は傍目とも書くが、広辞苑をひらくと次のような解説がなされている。
「局外にいて他人の囲碁を見ていると、対局者よりは勝敗に冷静であるから、八目も先までわかるということ。転じて局外にあって観察する時は、物事の是非・得失が明らかにわかるをいう。」
 私の手許にある他の数種の辞書も、皆同意の解説がなされている。
「八目も先までわかる」という表現がおかしいことは、多少とも碁に心得のある人ならお気づきであろう。文体をなしていないし、意味も不明である。
 囲碁における「目」というのは、交差線上の石、あるいは地を指す言葉である。辞書のような解説をするのなら「八手先までわかる」あるいは「八手先まで読める」という言い方をしなければならない。しかし、八手では岡目八目の解説にはならない。
 流動する読みの「手」と置き石の「目」をとりちがえているだから、解説にならないのは当然である。
 碁では、力が対等であれば白黒を交互に持って打つが、力が違えば、その度合いに応じて、置き石の数をふやして行く。岡目八目はその置き石の数である。

 そして「八目」は具体的な数字ではなく「旗本八万騎とか八百八町というように八が選ばれたのではないか」と言っている。

  八目とは置き石の数なのだ。八目置かせるくらい良い手が打てる、の意味。

 前に 九級から一級までの詰碁  で、囲碁用語として
 「打っている本人は主観的で、盲目だがハタから見ているとよくわかる。八目ぐらいさきまで読めるの意。」とあり、すでに広辞苑も改まっているのに、それを見もしないで初版の孫引きで丸写ししているとこうなる。 
 と書いた。
 2007年発行の碁の本でさえ、広辞苑初版の間違い説明の孫引き。もう半世紀も前の広辞苑第三版でさえ、改正されて正しくなっているのにだ。
   
 高島俊男の「お言葉ですが…」で、辞書づくりを批判していて、はじめに広辞苑が間違った文を書いたのに、あとで作るほとんどの辞書が、その間違い文をコピーしている、と書いてあった(間違った文なのでコピーであることがはっきり判るのだ)。
 巷の言葉の解説書では1990年ころまでその孫引きを使っているのを何度も見た。最近は読まないが、正しい文も見ていない。
 これに対していろいろと調べてくれた方がいた。

広辞苑第一版
 八目先まで読める (一部分)

広辞苑第二版
 八目も優勢な手がよめるということ (一部分)

広辞苑第五版(1998)
他人の囲碁をそばで見ていると実際に対局しているときよりもよく手がよめること。転じて第三者にはものごとの是非、利不利が当事者以上に分かること。

 その他の辞書では、例えば、
新明解国語辞典第四版(1989)
(碁を冷静に脇で見ていると、対局者と比べて八目分の得をする手が見えたりすることから)局外者のほうがかえってことがらのよしあしがよく分かること。[「八手先まで見える」とするのが通説であるが、目は地をかぞえるときの語で手をかぞえるときには用いない]
「八手先まで見える」とするのが通説であるが」、は広辞苑などの辞書が間違っていただけで通説ではない。
目は…」以下は間違いではないが、置き石を数えるときにも使うことを明記していない。それは「八目分の得をする手が…」も間違っているのに気づいていないことから、本当の意味が判っていないことを示している。
 なお置き石は◯子と書くが、数十年前までは「◯もく」と読むのが普通だった。例えば八子(はっし)は、ふつう、「はちもく」と言った。書くときは八目とも書いた。

 その他の辞書でも、意味は正しいが語源が間違っていたり、語源に触れなかったりする。
 インターネット世界では今も間違いばかり。
ヤフー知恵袋では、
 ベストアンサーが間違っていた。一人だけ正しい答えを書いている人がいたが、ベストアンサーにされていない。
 ウィクショナリーでは、
 当事者よりも第三者の方が事情を冷静に見て的確な判断ができる。
「だって岡目八目って云うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」(夏目漱石『明暗』)
一見正しい論評ができるのは、論評者が当事者ではないからである(その人が当事者となったところでうまくいくものではない)。
大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣つて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なかなか傍で見て居た様には行かないものさ。(勝海舟 『大勢順応』)

 と、意味や使い方は正しい。が、語源は、
囲碁の対局において、対局中の者よりもその対局を見ている者の方が八目先まで読むことができる。
 と、広辞苑初版の間違い文のコピーに近い。

 わたしがよく使うOCNの辞書では、
《他人の囲碁をそばで見ていると、対局者より冷静で、八目先まで手が読める意から》第三者のほうが、物事の是非得失を当事者以上に判断できるということ。
と、これも広辞苑初版の間違い文のコピーに近い。

 江崎誠致の随筆は正しいが、発行は1982年。広辞苑が正しくなったのは、1955年なので、これに対しての疑問もある。
 発行のとき、本文のあとに、「現在の第◯版ではこうなっています」と追記を入れるかどうか。これは編集者のセンスの問題になりそう。
 辞書でさえ、今でも初版や第二版の間違い文コピーで済ませているのに、正しく解説している江崎誠致を批判する気にはならない。しかし、広辞苑初版と、「初版」の文字を一言加えて欲しかった。
 ここで取り上げた間違い文は、江崎誠致もいうように、碁を知っていれば間違いに気づく文だ。だからコピーだと判ってしまう。辞書を作る大勢の人たちの誰も気がつかないのかよ。と思ってしまう。

   …………………………
 ただし、八目得する(八目多くコミを出せる)手は、言葉上ではあり得るので、絶対に間違っているとは言いきれない。

注:6月14日追記 例えばはじめに言った人が地8目のつもりで言ったのに、聞いた人が置き石8目(つまり8子)と解釈し、それが世間に広まり、そのような成語ができた。などと言うことがあったかも知れない。もちろん書いているわたしも信じていませんよ。可能性がゼロとは言いきれない、程度に思ってください。
posted by たくせん(謫仙) at 07:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
インターネットを見ていると、花などの説明で、同じ文章がぞろぞろと
出てきます。コピーしているのが直ぐわかります。
江崎誠致さんのような間違いは、意外と多いのかも知れません。
引用した文章には問題はあっても、内容的には問題なしですね。
一度引用されてしまうと、その世界では、広がってしまいますね。
知っている人間は、元はあそこたと・・・

初めの頃は、間違いを見つけるとコメントしたりしましたが、
今は多すぎて手におえません。
それに、いっても、ほとんど直さないでそのまま・・・(笑)

でも、自分のところでも、そうした勘違いがありそうです。
気をつけたいと思います。
Posted by オコジョ at 2011年06月05日 18:43
オコジョさん
わたしも花のことは全く判らないので、書くときはインターネットで調べました。あちこち見ていると同じ言葉に出くわします。正しければそれでもかまわないンですが、間違っていると、「コピーだ」。
岡目八目は、意味はほとんど合っています。夏目漱石や勝海舟はさすが。
ただ、語源になると意味不明となります。もう広辞苑では五十年も前に正しい意味が解説されています。ただし広辞苑では「八目」という言葉を説明していません。
結局、江崎誠致さんの正しい説明があるのに、辞書を作る人は読まないか無視しているか。
いま、

八目とは置き石の数なのだ。八目置かせるくらい強い手が打てる、の意味。

と追加しました。作家でも全部の辞書を揃えているわけでなく、判っている所は辞書を引かないでしょうね。しかも古いエッセイを集めたとき、内容を再検討するかどうか。これは出版社のセンスとお金と著者の熱で決まりそう。

今回は、間違いより、いつまでも訂正しないことと、それも八目の意味が判っていないので、訂正できないことを中心にして書きました。
Posted by たくせん(謫仙) at 2011年06月06日 07:56
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