2006年08月23日

言うまでもなく

「碁のうた碁のこころ」の中に、こんな狂歌がある。作者は、平野五岳、幕末から明治にかけて名僧と言われた方である。

 我が好きは酒と魚と棊(碁)と詩書画 かねとおんなはいふまでもなし
 
 わたしはと訊かれれば酒と魚と碁と詩書画までは同じだ。言うまでもなく、不自由しているとはいえ金と女も大好きだが、口にすることはないだろう。考えてみると金と女は、「いふまでもなく」と別枠にする必要がある。女には好き嫌いがある。女なら誰でもよいというわけではない。また金に至っては、それが好きなものと交換できるからであって、大金を抱えてロビンソンクルーソーをする気はない。
 いろいろな話の中に、この「言うまでもなく……」と言わねばならないことが、多々見受けられる。

 昔、ゴータマブッダが悟りを開いて人々に仏の道を説いた。それは仏教としてまとめられたが、その戒律のなかに「人を殺してはいけない」というものがない。「言うまでもなく殺人はいけない」のは当時からすでに常識で、「人を殺してはいけない」などと唱えたら、それだけでレベルの低い教えと思われたのである。
 最近の仏教界をみると、言うまでもなくどころかはっきり言っていることも守れない僧侶が多い。平野五岳師も地下で嘆いているのではないか。

被害者の人権を無視して加害者の人権を守れと叫ぶ人々…
という文にぶつかったことがある。ところが、加害者の人権を叫ぶ人々が、被害者の人権を無視した例を知らない。
  A 両者の人権を無視する人
  B 被害者を助ける人
  C 加害者の人権を守る人
と、三者いるのではないか。
  D その他
も、言うまでもなくいる。
 Cの人は「加害者の人権を守れ」、その後には、「言うまでもなく被害者の人権も守るべし」と言っているはずだ。
 掲げた非難文は、BやDがAに言うべき非難を、Cに向かって言っている形だ。

 現在のように国際化してくると、もはや「言うまでもなく」が通じない。生まれ育った背景が違い人生哲学が違うからである。しかも余裕がなくなった社会は、金のためには手段を選ばぬ時代になった。
 外国人を時給370円で使おうとする農家の話もあった。もちろん法律で定めた最低賃金を大きく下回る。
 機体整備を怠り、搭乗券を安くして、経営を誇った航空会社もあった。鉄道会社でも似たような話を聞く。怠ったのは積み重なり、ある日表面化したとき、節約したつもりだった金額の数倍する支出を要求されることになる。言うまでもなくきちんとやっているはず、と思っていた消費者はそこで驚く。
 近くの国では、「宇宙飛行士を打ち上げられるのに、なぜ水道の蛇口に故障が多いのか」などという声もある。

 わたしたちは「言うまでもなく、……はやっていて」、その上で話をしているつもりでいる。まだまだ基本的なところはしっかりしていると思っているのだが……。
posted by たくせん(謫仙) at 10:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
常識とは!
それが問われなけれはならないというのは寂しいことす。
一歩でも先に出たい。
塀の後ろで背伸びをしても 必ず上に!!   

人生 甘くないとしても 誠実に生きたいですね。
Posted by オコジョ at 2006年08月25日 21:07
 常識は、民族により文化により異なりますが、それでも基本的なことは共通と思ってしまいます。それが違っていた、あるいは利用した話は、わたしなど過剰反発をしそうな気がします。
 誠実は尊いですよね。

 第二次大戦後に捕虜となった日本人にイギリスから食料が支給された。あまりの酷さに抗議すると、
「きちんと法律を守っています」
その法律とは「家畜衛生法」だった。
彼らにとって人類とは言うまでもなく白人のことだった。戦前の文書で人という言葉があったら、その可能性を考えなくてはならない。
それでも誠実さがあれば、そんなことにはならないと思います。
Posted by たくせん at 2006年08月26日 10:58
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