
9月の21日(水)、台風15号の影響で夕刻には大雨大風が予想されていた。それなのに、東京駅近くの碁会所「いずみ囲碁ジャパン」で碁会があり、この日の昼過ぎに出かけた。
家を出たときは、風はなく日差しもあるほどの天気であった。
碁会所は空いていた。この日の会の主賓は欠席。それが当たり前だろう。無理して出て行ったわたしなどは反省せねばならない。
夕刻になり、案の定台風が東京の西側を通って北へ向かっていた。台風が西側を通るときはさらに風が強くなる。電車は止まり、帰宅不可の状態になり、東京駅地下の商店街は人がいっぱい。
わたしたち6人は6時ごろそば屋に入り、ちょっといっぱいのつもりでのんで、いつのまにやら10時過ぎ。ようやく台風も通り過ぎ、電車も動き出したので、店を出て帰宅した。
この二次会はかなり盛り上がった。この日参加者の一人が意外な話を持ち出したのだ。そのひとつ。
その女性の父親が作曲家の牧野昭一であり、父の書いた本を持ってきたのだ。ありがたく頂戴した。
それが「赤いグラスのいい出逢い」である。出版社は北海道中標津町の会社であり、売れ残った本を引き取ったのだという。ことわっておくが、商業出版の本である。自費出版ではない。
帯に曰く
私にはいい「出逢い」がいっぱいあった。そして、いろいろの別れがあった。「出逢い」は、虹のような七色に輝いたあと、だれの心にもいい余韻を残して消えていく…。
この数え切れない「出逢い」の中から、とくに印象の深い人たちとの思い出やエピソードを書き綴ってみた。
わたしも囲碁を通じていくつかの出会いがあった。この本を頂いたことも「いい出会い」のひとつ。その前に彼女の話を聞けたのが「いい出会い」であった。
「出逢い」と書かれると双方が事前に約束していたようだが、この本では「出会い」の意味だ。
赤いグラスという歌、とっさに判らなかったが、検索して聞いてみた。
♪♪いまーもーなをーー
で思い出した。もともと歌詞を知らなかったが、このフレーズだけは、今もなを覚えている。
唇寄せれば なぜかしびれる
赤いグラスよ
愛しながら別れて 今もなを
遠くいとしむ あの人の
涙 涙 涙
最後の「涙 涙 涙」は「ああ涙」であったのを変えた、という。
この「赤いグラス」は後に銀座のスナック「赤いグラス」に使ったり、本書の書名に入ったりしている。
スナック赤いグラスは牧野さんのピアノ伴奏で歌が歌えるという、珍しいところ。もちろん今はない。
ここに加藤正夫九段が来て、間もなく宇宙流の武宮正樹九段を連れて来た。それがきっかけで牧野家は囲碁一家になっている。千寿会の小林千寿さんも何度も足を運んだので親しくなっている。それが縁でわたしは千寿会で彼女に「出逢う」ことになったのだ。
彼女は歌手として何曲かレコードを出している。その歌を聴いてみたいが、わたしはカラオケが苦手。いまもなを歌を歌えない。涙 涙 涙。
私が中学〜高校の頃(45〜6年前)の曲で、歌詞は知っておりましたが歌う様になったのはこの6〜7年です。たまたま私も作曲者の娘さんと知り合ったことと、私の義父がお父上と同じ名前と生まれ(昭一、厳密には昭和2年(1927年)ですが昭和元年生まれと同じなので「昭一」)だったこともあり、カラオケでは必ず毎度一回は歌うことにしております。
私も出身が北海道なので、牧野昭一さんに更に親しみが湧きました。
余計な書き込みですが、ひと言書かせて頂きました。
娘さんをご存知でしたか。彼女はいろんな能力があるし、仕事上のつきあいもあるので、顔の広いかたですよね。
この曲、聞いていて胸にジンとくる、まさに歌謡曲が輝いていたころに一際輝いた歌だと思います。
晩年北海道に住まいを移し、北海道になじんで生活をしていたので、北海道にも大勢のファンがいることでしょう。
岳父が同名というのも縁でしょうね。
ありがとうございました。
私の他愛もない書込みにコメントまで頂き有難うございます。
世の中狭いもので、色々なところで繋がっていることを感じます。
牧野昭一さんと同様な作曲家で、秋庭豊とアローナイツや内山田洋とクールファイブで知られた「中の島ブルース」の作曲者(札幌在住、数年前に逝去)は、私の北海道での高校吹奏楽部の先輩でして、上手くは歌えませんがカラオケでは良く歌います。ちなみに岳父は15年前に69歳で、牧野昭一さんは昨年83歳で逝去されております。
作曲家は星の数ほどいるとはいえ、世に知られた人はすくない。高校の先輩にいるのも縁なんでしょうね。
先輩がプロ選手になって、それが縁でそのチームを応援したり。
わたしも思わぬ縁で牧野昭一さんを知ることになりました。