
落語に対する深い洞察力のある小説だ。
呪われた噺に挑む異端の師匠と女前座の、貧しくとも落語を愛する人の物語。
弟子と師匠の関係など、当然デフォルメがあるだろうが、基本はわきまえていると思える。
主人公が落語にのめり込んでいくきっかけとなった三松家柿紅の高座。前座修行を始めたときは越えられない目標であった。あるとき、それが越えることのできる対象だと思う。
この柿紅はもちろん男だ。しかし、後半ではその言葉遣いや態度がどうも女のようになってきた。まるで作者が勘違いしてしまったような感じ。高座の台詞が普通の生活にも出てしまったのか。
さて本題、明治に創作されたが演じきられたことのないある噺。過去に二度、高座にかけられたことがある。かけられたが、二人とも噺の途中で突然死する。この噺に挑むぐうだらな異端の師匠と女弟子。女である故に柿紅が弟子にしてくれず、落語の世界に身を置きたいばかりに、ぐうだらな師匠の弟子となる。これが良かったのか悪かったのか。
そんな独特な世界の女弟子の哀しい話だ。
落語の藝に対する柿紅と師匠の考え方の違い。新作ばかりを演じながら、実は古典のきっちりした藝も持っているぐうだら師匠に対して、わたしは同情はしないが理解はできる。
書評を書くなら、文学じゃなくて、にんげんの本質を再勉強する事をお勧めします。
書評として下手なのは全く同感同感。そのとおりです。あなたのおっしゃるとおり。
それでは二度と読んで貰えそうもありません。
だから書くのは無駄ですが、佐伯次郎さん以外の方が読むかも知れないので、一応付け加えます。
書評を書いているつもりはなく、「こんな本がありますよ」と読んでおもしろかった本を紹介しているだけです。題名だけでなく中身もちょっと紹介。気になったところとか引っかかったところなど。だから落語の急所は本を読んで下さいということで、小説の紹介です。
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追記
予告通り、2月23日投稿文の2行を削除、その言葉は禁止ワードに追加した。許可しておくことによる迷惑投稿排除のため。それは困るというなら全文削除するので連絡を。
>どんな落語が上手いのか、下手なのか、
わたしなら実際の落語を聞き、落語の専門書を読みます。小説では作者のフィルターがかかっているため、この小説では共感しましたが、その説が正しいかどうかは別な話。
>にんげんの本質を再勉強する事をお勧めします。
これは大変なことで時間もかかります。例えば20年とか、30年とか。なので、むしろあなたの優れた書評を読んで、ああこう書くのかと知ることの方が早いでしょう。それなら数年で理解できそうです。残念ながら読む機会がないのが辛い。
ここに書いているのは、面白かった、しかしこういう問題がある。そのうちの、「こういう問題がある」を中心に書くため、このように感じる人がいるのかもしれません。
おそらく人生の再勉強をしても、結論は同じではないかと思います。
全く別な人生を歩むなら変わるでしょう。でも謫仙さんが今までと同じ人生なら、にんげんの本質に対する認識は変わらないと考えます。
実はわたしもこの本を読んでいますが、これをもとに落語論をしようとは思いませんでした。テーマは落語を通した人間の生き方ではないかと思います
言うまでもなく、テーマは落語を通した人間の生き方ですが、それ以外のおかずが問題です。2月20日におまえさんで
☆リアリティーがあるか
☆自然であるか
☆人間が描かれているか
☆書き手の人間観が妥当であるか
という条件をあげています。これが主食で、きちんとできていると、おかずの落語が生きてくる。おかずは必ずしも正しいとは限らない。いつも碁のことで、間違いを指摘していますが、しかし、碁を知らない人には気づきません。同じように武侠でもこの落語でも、知らない人がいます。それは正しいかどうかではなく、共感できるかどうか。
それで、柿紅の人格の変化が気になりました。
>弟子と師匠の関係など、当然デフォルメがあるだろうが、基本はわきまえていると思える。
こう書いたのも実は落語の裏の世界を知らないから。落語界の話はいろいろ読むことがありますが、いくら落語界に詳しくなっても、裏の世界までは判りません。わたしには「思える」としか書けませんでした。