本因坊誕生400年の今年、第67期本因坊決定戦七番勝負(毎日新聞社・日本棋院・関西棋院主催、大和証券グループ協賛)が5月15日、京都市左京区の寂光寺で開幕する。
とある。400年前といえば1612年、本因坊算砂が幕府から扶持を与えられた年である。名人碁所になった年といってもいい。当時名人碁所という称号が確立していたとはいえないが、それでも名人碁所に相当する地位にいたので、そう言っても問題は小さいだろう。
寂光寺本因坊の僧で法名日海(本姓は加納)が、寂光寺を弟子に譲り、本因坊算砂(ほんにんぼうさんしゃ)と改名した年であった。後に、ほんいんぼうさんさ、と読まれる。つまり本因坊家の誕生だったのだ。本因坊は前からあった。
本因坊算砂は1559年〜1623年(元和9年5月16日)なので、死去の十一年ほど前のことになる。
次の☆はウィキの抜粋。 ★は出典はウィキだがわたしが編集。 《》内はわたしの追加。
☆寂光寺(じゃっこうじ)は京都府京都市左京区にある、顕本法華宗の本山。山号は妙泉山。
★1559年 算砂誕生 本姓は加納、幼名は與三郎。
★《1566年?》算砂は8歳の時、叔父である寂光寺開山日淵に弟子入りして出家。法名は日海。
☆1578年(天正6年)日淵は室町出水に久遠院を建立する。
★1578年 日海が信長に名人と言われたという説がある。
★1582年(天正10年)本能寺の変、この時日海が碁を打ったという説がある。
★1588年(天正16年)日海が秀吉の御前で碁を打つ。20石10人扶持を与えられる。
☆1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により、寺町二条に移転する。
☆1591年(天正19年)妙泉寺の寺内に移転合併し、寂光寺と改称する。
《これは間違いと思われる。妙泉寺が久遠院内に移転したようだ。移転した翌年に再移転は考えにくい。正確な根拠が欲しいところ。大川住職も妙泉寺が久遠院内に移転したと言った》
★1612年 日海は江戸に本拠地を移し、幕府から扶持をもらい、本因坊算砂と改名する。本因坊家の誕生。
★1623年 算砂死去。
☆1708年(宝永5年)宝永の大火により焼失する。
☆1708年(宝永5年)現在の地に移転し、再建する。
《移転の時、算砂たちの墓も移転している》
妙泉寺 には、妙泉寺が久遠院の境内に引っ越したという記述がある。
さてこのたび、小林千寿師の案内で寂光寺を参拝する機会に恵まれた。8月6日、12時半に寂光寺に集合。
わたしは一人で久遠院を訪ねた。寺町通りは大型車は通行禁止の狭い道。
「本因坊」発祥の地 道を隔てて、わたしの立っているところは久遠院前町。
碁盤があった。
「本因坊旧跡駒札」建立記念 打ち初め式
九段 今村俊也
九段 滝口政孝
平成二十一年一月十日
商店街振興組合 寺町会
駒札の説明。
囲碁「本因坊」発祥の地
この寺町通の名は、天正十七年(一五八九)頃豊臣秀吉の都市計画により洛中の寺院が集められたことに由来する。
寂光寺もそのひとつで、別名を久遠院ともいい、通りを挟んだ西側の町名「久遠院前町」にその名残が見られる。
寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(一五五九〜一六二三)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、江戸幕府が開かれると、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、本因坊算砂(さんさ)と改名して幕府の碁所(ごどころ)を任された。
算砂は江戸に屋敷を拝領した後も、寺町の本因坊を本拠として、春に江戸へ下り、年末に京に戻る暮らしをしていた。
以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、二十一世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとしてその名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和十一年(一九三六)、今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。
宝永の大火(一七〇八)で罹災した寂光寺は現在、仁王門通東山西入に位置し、算砂愛用の盤石や算砂直筆の囲碁狂歌などの貴重な史料を蔵している。
京都市
この久遠院こそ、本因坊発祥の地。
ここから歩いて寂光寺に向かう。寂光寺の近くで昼食。主と話をしていると、「寂光寺住職の大川さんは女房の同級生です、エー、わたしは碁はさっぱり…」
ケータイを携帯していないわたしは、約束の時間より少し前に行くことにしている。
寂光寺の門前、石標がある。
「碁道名人第一世本因坊算砂之旧跡」と読めた。裏に「大正十二年夏…」と寄進者の名がある。つまり寂光寺が建てたのではないようだ。
横には「本因坊第参百年記念」、「第」の意味が判らないが、1923年なら算砂没後300年になる。
気になったのは「…算砂之旧跡」、算砂の旧跡は寺町の久遠院のはず。
「本因坊算砂ゆかりの寺」なら問題ないが、「旧跡」にはとまどう。
門柱には右に顕本法華宗妙泉山寂光寺、左に碁道本因坊元祖之道場。
駒札には、四世道策のとき本因坊は当寺から江戸に移ったとある。本因坊道策は1645年〜1702年であり、この説明によれば、寂光寺が1708年にここに来る前のことになるので、本因坊はここにはなかったことになる。
この件は気づかなかったので大川住職に問うことはできなかった。おそらく「本因坊家」の根拠地が江戸に移っただけで、塔頭の「本因坊」はここに移転したと思う。
古図を見つけた。 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2003toba/zyakkoji41.jpg
この図が本物なら、1708年以降にも本因坊があったことになる。
門を入ると左側に第一世本因坊報恩塔
この後ろか、あるいは右の方の車が駐車しているあたりに本因坊があった。古図を参照。
右側には妙泉寺報恩塔
妙泉寺址は駐車場になっている。
妙泉寺は寂れてなくなってしまったが、本山の一つで格式は高かった。その格式は寂光寺が受け継ぐ。そのため山号を「妙泉山」としたと思える。
鐘楼の向こうは本堂、門から入って、90度曲がって本堂に行く。
本堂
提灯には寂光寺 本因坊と書かれている。
右の方(方丈前か)でお坊さんが待っていてくれた。中に入ると、すでに来ている人がいた。
本因坊戦の行われた場所。わたしたちを歓迎して、お寺さんでこのように設定をしてくれた。粋なはからい。盤石はそのときのものではない。
手前にはそのときの記念写真。
本堂内部、ここで説明を受けた。「碁の歴史を伝えるのが役目」と。
隣の部屋には歴代本因坊の名がある。道策について説明する大川住職。一番右には井山裕太の名も。
左には碁を打つ小さな像がある。扇子が半分しか写っていないのが残念。
先の棋戦の寄せ書き、小林千寿師の名もある。
写真がないが、先人の使用していた盤石は意外に質素。
これは碁とは関係ない。
襖には龍の絵。
本因坊の額の下、天袋の襖に薄く丸い形が見えるだろうか。月のようだがなんと龍の卵。
話はずれるが、龍の子は龍ではないという不思議な話がある。例えば9番目の子は貔貅(ヒキュウ)という。獅子のような姿だが、おしりの穴がない。入れるだけで出ないので、ギャンブラーの守り神(^。^))。財を呼ぶ神だ。
参考 http://www.hanachi.com/shop/hanachi/materials/AboutHikyu.pdf
もちろん諸説ある。
床の間
外に出て、奥の墓所を拝見。
本因坊家の墓。道策以降の墓は東京の本妙寺にある。道策は分骨されたらしい。
古い墓石集めてある。ここは墓所ではない。
こんな名前が出てくるとは・・・
本因坊は、何気なく碁の最高峰の権威あるタイトルくらい・・・・
歴史があるのですね。
その長い歴史の中で、色々な説が生まれ、混同しているようですね。
でも、碁の好きな人には聖地なのでしょうね。
寂光寺といって、ふと嵯峨野の常寂光寺を思い出しました。何の関係もないのでしょうね。
旧盆が過ぎれは、「岡崎由美先生と行く中国の旅」ですね。
素敵な旅となるといいですね。
千寿師を入れて21人の団体でした。東京ばかりでなく神奈川・千葉・山梨・大阪・島根。下はなんと9歳の女の子、甲府から来ました。
半日は囲碁サロン「爛柯」での碁会、それとお寺の参拝。参禅なんですが、わたしは禅はパスさせてもらいました。
常寂光寺や寂光院は関係ありませんね。
説明では世襲とありますが、僧籍ですから、子に伝えたのではなく、弟子の中から優れたものを選んで伝えます。他の三家も似たようなもので、弟子の中から優れたものを選び、優れたものがいなければ、他家の弟子を養子にして、というふうに実力主義です。
歴史書は公式的なものはなく、囲碁界の人が書いたものなので、誇張や我田引水的な話が多く、あちこちに疑問があります。
たとえば、算砂は将棋も名人だったが、両方を兼ねるのはよくないと、将棋方に将棋所を譲ったとか。当時は将棋所などという名称はなかったでしょうし、将棋の棋譜を見れば算砂はかなり弱かったと言います。
そろそろ中国の旅も準備に入らないといけませんね。
第一世本因坊報恩塔の後ろの電柱が斜めに組合わさってるのが不思議でした、
なんで斜めになってるんだろ〜?(碁と関係のないコメントでごめんなさい^^;
気がつきませんでした。コスんでいるのかな。それともシチョウで追われた(^_^)。
上の方はどうなっていたのでしょうか。
いろいろと謎の多い寺でしたね。