私のどこが「青少年にご造詣が深い」と言うのだ。いつ私が「青少年」なんて奴を育成したとゆーのだ。バカも休み休みに言え、と言いたい。
中略 (青少年はよけいなお世話だと思うだろう、として)
そーじやない素直な人は、それなりに「育成」されていただいて差し支えない。
とあって、ウフフと笑ってしまう。どこに笑ったかというと、「いただいて」である。
言葉の意味は範囲が広く、どんどん新しい意味が付け加わるが、これはわたしの言語感覚に合致する。
「致します」と書くべき時に「やらして頂きます」と書く人が多く、本人は柔らかく書いたつもりと思うが、本来はおかしな言い方で、そのおかしさを表すために「いただく」と書く場合がある。その据わりの悪い感じで内容のおかしさを表現するのだ。だが、本来はおかしな言い方だという感じがないと、この文章の面白さは半減するのではないか。
著者からは「育成してやる」「育成されてもらう」である。それを青少年側から見ると強制で「育成される」、又は、ありがたく「育成していただく」。これを「されていただく」としたので、強制を喜んで受け取れと言っているような感じになるのである。多少の皮肉も込められていよう。
この本はこうして、軽妙な短い文が並んでいて、一気に読んでしまう、と言っても3日かかった。最近でかなり速い。
続いて「漱石の孫」
これは漱石が英国に留学したときの下宿を、孫がつまり房之介が訪ねる、というテレビの企画のことを文章化したもの。
この中に父親の回想として、テニスが好きだったという父が、日本に帰ってからは全然テニスをしない。その理由を問うと、
「だってお前、日本じゃボールを自分でひろわなきゃいけないだろ」
向こうでは貴族の城などでやるので、必ず領地の子どもがボールボーイをやってくれるのだそうだ。そのときも、あきれてあいた口がふさがらなかった。
それでヨーロッパ崇拝型知識人や西洋的衒学趣味が大嫌いになった、という。漱石の孫と扱われることに反発を感じて育ったのに、いつか、こうして漱石と同じような考え方をするようになったのだ。そのあたりの軽妙な筆がいい。
書いてないが、イギリス人と言うとき、このテニスをする人たちのことを指すことが多い。しかし、ボールボーイたちも、イギリス人なのだ。比率から言えばこちらの方がはるかに多い。
ところで、漱石が文豪として扱われるようになったのは戦後の五十年代以降という。わたしが読んだ漱石の本は、そのころ出版されたものだった。それで文庫の古本ながら全部そろえられたのだ。
謎の笑い・・・
失礼いたしました m(__)m
医者にかかるなら漱石タイプがいい。
鴎外型の医者は嫌だと書いておられた方がおりました。
医者のタイプはどうなんだろう。鴎外は軍医ですから、傷病に対しては、「治らないものは治らない」とあっさり決めつけてしまうのかな。傷さえ治れば、傷跡はどうでもよいとか。
知らないで書いています。鴎外様ゴメンナサイ(^_^)。