浄土宗 榮法山浄閑寺 本尊は阿弥陀如来。
開基は明暦元年(1655年)なので江戸時代になってからである。
安政2年(1855)の大地震の際に、近くの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから、「投込寺」として知られたところ。
最寄り駅は、東京メトロ日比谷線の三ノ輪(みのわ)駅で、歩いて五分もかからない。
写真が多いが、分けずに1回で載せる。
浄閑寺のすく近くからスカイツリーが見えた。下町らしい雰囲気。
浄閑寺の門は質素な作り。
門の左側と正面の建物の裏側はお墓が並んでいる。
右は駐車場。
門の外にお地蔵様。小夜衣供養地蔵尊、詳しいことは判らないという。
浄閑寺の説明。
門を入ったところに、碑がある。
左 萩原秋巌先生の墓。書家だが、わたしはその方面にくらいのでどんな人か。
右 新比翼塚
ここが本堂か。
永代合祀供養塔。平成18年。
本堂の手前の左に霊廟とあり、お墓が並んでいる。「投込寺」で有名だが、普通の寺であり、一般の檀家のお墓である。
首洗い井戸。白井権八に返り討ちあった本庄兄弟の弟助八が兄助七の首を洗ったという。そのとき弟助八も討たれた。芝居の話だと思ってたが…。
立派なお墓がところ狭しと並んでいるが、無縁仏も目につく。
「縁者に連絡をしたが連絡がとれません。判る人は教えて下さい。◯月◯日までに連絡がない場合は永代合祀供養塔に移します」という意味の紙が墓にある。
片隅に木柱のお墓があった。
三遊亭歌笑塚 実篤書
古よりの言の葉に、山紫水明の地、必ず偉人を生じるとかや。ァァされどわれ未だ偉人の部類に属することかなわず。若き落語家歌笑をはぐくみし故郷は南奥多摩絶景の地なり。
歌笑純情詩集
より
進駐軍のジープにぶつかって(つまり交通事故、自殺ではない)若くして死んだ歌笑の碑だ。檀家ではなかったが、妻の実家が檀家であったため。
サイカチだったかな、輝いていた。
永井荷風は遊女の身を哀れみ、ここに何度も足を運んでいる。
荷風花畳型筆塚
4月30日が荷風忌である。
新吉原総霊塔
新吉原総霊塔正面 右には、花又花酔句壁。
生きては苦界 死しては浄閑寺 花酔
南無阿弥陀仏。
このあたりは本堂の陰にあって暗く、墓は密集していて、異様な雰囲気がある。
そのそばにひまわり地蔵尊がある。昭和57年建立。
近くの山谷で亡くなった、身寄りのない貧しい労務者の供養である。
昔吉原今山谷か。
駐車場から見た様子。左が門、右受付。
駐車場の一番奥。
寺を出て南千住方向へ向かった。振り返って見る。この塀の中が浄閑寺。建物はコンクリートのビルである。入り口は左の方。三ノ輪の駅も左の方。
…………………………
最後に、確認をとっていないが、
浄閑寺に埋葬された遊女は2万人を越え、平均年齢が22歳という。22歳には言葉を失う。数え22なら、今なら成人式のころ。
本当かどうか「生きてる死体」という話もある。遊女が病にかかり、助かる見込みがないとなると、まだ生きているうちに寺に運ばれたという。これを「生きてる死体」と言った。
哀れな話である。合掌。
生きている死体もありて浄閑寺 鳴かぬ蛍の数夜の命 謫仙
空蝉を残して空へ飛び立ちて 羽振るわせて命終りぬ 謫仙
少年が瀕死の姉を背負って行く宛がないとき、姉が浄閑寺へ行くように言いました。「浄閑寺」ではなく「北へ」と言ったのだったかな。
永井荷風が少年に、姉さんの言うとおりに行きなさい、というような助言をしました。
もうすこしなんとかしてやれないものかと、なんか腑に落ちなかった憶えがあります。
そうそうありましたね。吉原から救おうとしたら、すでに瀕死の病であったという。
途方に暮れる少年に、浄閑寺への道を指示するあの姉の気丈さにびっくりしました。
そういえば永井荷風は助言するばかり。でもどうすることもできなかったでしょうね。
遊女見習いは年季に入らず、着物や食べるもの自前で、借金になって行き
仮に年季が明けても、借金はなくても蓄えもない・・・
故郷からは邪魔者で帰れない・・・
岡場所へ行くくらいしかない・・・
使い捨ての時代・・・
『生まれては苦界 死しては浄閑寺』
ここが、安らぎ場所と言うのは悲しいですね。
浄閑寺に葬られた人以外は、それなりの寺に入ったので、平均年齢が22歳ではありませんが、一般に短かったことでしょうね。
それでも普通の人生を送ることができた人もいたことでしょう。それが落語の題材になったりしています。
浄閑寺には書いてありませんが、故郷の家族が受け入れてくれない話には、やるせない思いがします。