本妙寺は法華宗で、徳栄山総持院本妙寺という。本因坊家の菩提寺で、碁を愛する人には聖地のようなところ。
右から二人目が安倍吉輝九段
巣鴨の駅に3時半集合。集まった人はわたし(謫仙)・亜Qさん・スイスのD君・千寿会のCさん。
安倍先生はお子さんがスイスに行ったおり、現地の方にお世話になったとかで、D君のために特別時間を割いてくれたのであった。挨拶してすぐに歩き始めたのであるが、初対面のわたしは、会話の初めにぶしつけながら、
「いかにももっともらしい話ですが、北海道の牧場で…」
言い終わらないうちに、「本当の話です」
ウワー (^_^)。
ある時、北海道の牧場で馬を見ていた安倍さんが言った。
「馬はかわいそうだなあ」
「どうして?」
「馬は碁を打てないじゃないか」
この話を読んで、いっぺんに安倍さんに親しみを感じたのである。その安倍さんがご案内して下さるというので、喜んでお供したのであった。
巣鴨からとげぬき地蔵の方へ十分ほど。豊島区中央卸売市場に沿って歩くと山門には大きな字で「徳栄山」、目立たない小さな字で「本妙寺」。「徳栄」とは、徳川氏が栄えるの意味である。この寺はいわゆる観光寺院ではない。山門を入って正面に本堂があるが、その手前で右に折れる。墓所である。その中に本因坊家の墓があった。
本因坊家は三世の道悦までは没後京都の寂光寺に葬ったが、四世の道策から二十一世の秀哉までの歴代本因坊はここに葬られている。本因坊秀哉の墓を中心にして、道策・道知・跡目道的・察元・元丈・丈和・跡目秀策などなど。小岸荘二も眠っている。各墓にそれぞれ白と黒の碁石が置かれていた。
秀和の墓の前では、
「コミのない時代に、(井上)幻庵因碩は白番で本因坊家の若き秀才を抑えようとした。無理ですよ」
十九歳の秀和は、跡目とはいえ、すでに師を凌いでいたという。低段ならともかく、半目を争うトップレベルである。コミなし白番で勝つことは難しい。(秀和の黒番四目勝ち)
「古典の碁もいろいろ調べますが、秀栄など好きですね」(秀栄は明治時代の強豪で、プロの評価は高い)
こんな話をひとしきりして、その他の墓も見る。
明暦の大火の供養塔がある。明暦の大火(1657)、俗に言う振袖火事である。わたしなど天和2年(1682)の八百屋お七の話と混同してしまう。そちらは、
♪♪ お寺さんは駒込の吉祥寺
と、からくりに唄われた八百屋お七が、火付け犯人といわれたが、その原因には諸説ある。芝居のお七はもちろん後の作り話である。明暦の大火は、本妙寺の失火が原因といわれる。死者は十万人を越えた。だが、本来なら追放されるところ、お咎めなく、それどころか優遇されている。その当時のお隣、老中阿部家からは、なんと大正12年の関東大震災まで、供養料が奉納されていた。(供養しているのは回向院であるのに)ここからいろいろ推測されるようだが、ここでは省く。
その他は、
北町奉行 遠山金四郎景元
将棋の棋聖 実力十三段と称された 天野宗歩
幕末の剣聖 千葉周作
など。
本堂にお参りして、隣の墓所へ。ここに富永一朗の墓がある(寿陵)。
漫歩院富楽一夢大居士
俗名富永一朗
奥様も並んで刻まれているが、こちらは没年入りです。
帰路は裏道を通ったが、墓所が並んでいて、一本道といえど迷いそう。巣鴨の駅の近くで、ちょっと一杯。安倍先生はこれから別なところに用事で回られるため、わずかの時間で、先に出られた。
その時D君に、
「22日の木曜日に○○へ来なさい」
亜QさんとD君は行くつもりのようだった。わたしはびっくりして言った。
「22日は湯河原ですよ」
残念だが事情を話して、今回は見送りにさせて頂いた。D君は、もちろん日本の歴史には詳しくないが、わたしもけっこう疎いなあと、明暦の大火を調べての実感。
10年:安倍先生は09年に鬼籍に入りました。