04.10.9
歌人の馬場あき子さんは、碁の歌を作ったことがある。
それを囲碁誌に発表したとき、「あなたの棋力は何段ですか(棋院などから)」あるいは「ぜひ一局」という問い合わせが多かったそうだ。ところが、本人は碁を打てないらしい。わたしもその数首を読んで、とても知識だけでこの発想は出ないと思ったのだが。
ある時、テレビ映画で碁を打つ場面があった。盤上いっぱいに白黒の石がある。そこへ緊急事態。盤上を崩して碁石を碁笥に納める。その時の盤面は映されなかったが、手つきは整地された碁を崩す仕草であった。そこで監督や俳優は碁を知らないと推測した。
さて、本題。
金庸という稀代のベストセラー作家がいる。金庸の小説はすべて映画化され、何度もリメークされている。この金庸の小説の中に碁を打つところがある。
「天龍八部」の第2巻、大理国の王子(皇帝の弟の子)段誉が、掠われて閉じこめられる。その扉の外では天下一の大悪人「悪貫満盈」が見張っている。段誉を救うべくおもむいたのが黄眉和尚であった。
「縦横十九道、いくたりの人をか迷わせん。拙僧と一局お手合わせ願えぬか」
略
顔中に皺を刻み、眉毛の黄色い老僧が、茶碗ほどの鉄木魚を左手に持ち、黒ずんだ鋼のばちで打ち鳴らしている。南無阿弥陀仏を唱えつつ、ばちで手前の岩をなぞると、石屑が飛び散り、たちまち一条の直線が刻まれた。
略
石工が墨壺で引き、鑿で彫りあげたように鮮やかな線を、やすやすと刻みつけるとは、並々ならぬカである。
「金剛指か、みごとだ!」
くぐもった声音は青袍の怪人、「悪貫満盈」段延慶のものである。右手の鉄杖を突き出し、横線を一本、岩に深く食い入らせた。黄眉和尚の刻んだ線と、寸分の狂いなく交わっている。
「お相手いただけるか、かたじけない!」
和尚が笑って、ふたたび縦線を引いた。段延慶も負けずに横線を引く。代わる代わるに、内功を凝らし、手元の狂いでおくれを取るまいと、慎重に線を刻んでいった。
ややあって、縦横十九路の碁盤が完成した。
対局することになり、まず先手を決めることになる。奇数偶数を当てるのだ。
「拙僧の年は奇数か偶数か」。「それは言い逃れができる」。となって、では、
「七十歳より先、拙僧の足の指は何本か」
偶数だと段延慶が答えると、和尚は右足の小指を切り落とす。
「拙僧はことし六十九、七十のときには足指は奇数にござる」和尚が笑った。
「たしかに。では先手を打たれよ」
段延慶は天下一の悪人、小指一本くらいではびくともしないが、相手がわずか一子のために、ここまで手段を選ばぬのを見て、その決意のほどを悟った。もしも負ければ、苛酷な条件を呑まねばなるまい。
黄眉和尚はばちを取り、碁盤四隅の「星」のうち、対角の二所に、それぞれひとつの円を刻み、白石の代わりとした。段延慶が杖を伸べ、残り二所に、黒石さながらのくぼみをつける。これは「勢子」と称される、囲碁の古い作法であった。先手が白であることも、後世とは相反している。
ついで和尚が「平」位の六三に置き、段延慶が九三に置く。序盤は迅速に進んだが、和尚は先手の利を保とうと、いささかも気をゆるめない。
十七、八手置いてからは、一手一手が激しくせめぎ合い、指から内力が流れ出て、長考と運功のため、しだいに着手が鈍っていった。
略
二十四手、段延慶が奇襲をかけた。守らねば右下の隅が崩れるが、守れば先手の利は失われる。
考え込んだ和尚の耳に、突如、石室から声が届いた。
「『去』位を攻めかえせば、先手を守れます」
その後も、そっと段誉に教えてもらうのだが、
予想外の一手に、和尚は愕然とした。
(段公子の編みだした策では、七手めで差を二子まで広げられるはずだが、これでは七手めを打つことができぬ。これで終わりか)
形勢不利と見た段延慶は、「不応の応」の策をとり、べつの陣地を攻めにかかったのである。
結局、段延慶は内力が乱れて、自分の眼をつぶす手を打ってしまう。
と、まあこんな風に戦うのであるが、付け加えると、
時代は宋、ところは雲南の大理。
当時はたすきの星に石を置いてから対局した。また白が先であった。
平上去入は中国語の発音の四声であるが碁でも使ったのか。盤を四つに分けたその一つ。
この文を書いた金庸は碁を知っているのであろうか。
知らなくてはとても書けないと思うのだが、ただ深くは知らなくても書けそうな気がする。
特に最後の部分は、首をかしげる。翻訳者が「二子」と「二目」の意味を取り違えたのかとも思うが、もちろんこのままでも意味は通じる。
注目したいのは書かれなかったこと。
当然として書かれないことがあり、それは書かないことで、その人の知識が判る。うっかり書いてしまっては、碁を知らないことをばらすことになる。(テレビ映画の碁石を碁笥に入れる場面のように)
ちょっと思ったのですが、
もしも負ければ、苛酷な条件を呑まねばなるまい。
これは天下一の大悪人とは思えません。大悪人なら、負けても約束したわけでもないので、無視してしまうでしょう。これは金庸小説の特徴で、善悪の区別がはっきりしません。正義の代表のようなことを言っていて、英雄などと言われている人が、実は一番悪いやつ、なんていうことが多くあります。
相手がわずか一子のために、
先か後かは、確かに一子の差ですが、こういうとき「一子」というだろうか、日本ではまずお目にかからない言葉でしょう。中国ではそう言うのかな。
七手めで差を二子まで広げられるはずだが、これでは七手めを打つことができぬ。
一手で二子まで差を広げられる、言葉の意味は通じますが、碁のことを知っていると、こんな手はあり得ないと思いますね。で、二目の翻訳ミスではないかと思うのですが、原文が判らないので何とも。
そんなわけで、ことによると……。
05.10.2追記
原文が判りました。
「我已可従一先進而占到両先。」
碁を知らないという方から、表面的な意味を解釈してもらいました。
原文では二手ぶん先に到達することができる、という意味です。
なるほど、現在先なのがもう一子差が付いて二子になると言う意味のようです。
…………………………
04.11.3
金庸氏の棋力は? 続き
もう一カ所、碁を記述しているところがある。段誉と蘇星河が、盤を挟んでいる。段誉が白だ。それは珍瓏であった。かなりのレベルの蘇星河が三十年来、これを研鑽したが解けないという。そこへいろいろな人が来て加わる。あるいっぱしの名手が、これを解こうとして考えると眼の前が暗くなり、多量の血を吐く。などというのは、この本の設定なので、それはともかく。
@ふつう珍瓏は、十数子から四、五十子、だがこれは二百子あまりもあって、ほとんど終局に近づいている。
A「去」の位の白七九が形の要である(正解ではなかったが)。黒八八、白五六、黒四五、その後20手ほどで、解けないとさとる。
B白は、厚く囲まれた白地に打ち込み、セキを崩してしまい数十目の白を殺してしまった。「みずから駄目を詰め……」(とののしられる)
この自殺に等しい一手が八方ふさがりの白を救う。
その後黒が一手打つ。続いて白「平」位の三九、黒、白「平」位の二八、黒、白「去」位の五六3目抜き、
C打っていくうちに、黒石はどうしても白に取られ、黒に活路が開いていれば、白はそこから逃げてしまう。
「上」の位の七八が決め手となる。
結果は書いてない。白が生きるのか、黒が死ぬのか、珍形ができるのか。☆
Bでは目をつぶしたのか、駄目を詰めたのか不明だが、小説なので科白は間違うことがあっても地の文は正しいことが前提である。
Cでは「黒に活路が」は「黒地中に活路が」と思うが、意味不明。
以上の要点は、
1.盤上には200以上の石が置かれている。
2.一カ所、20目以上の白石がセキで生きている。それをみずから目をつぶしてセキ崩れで死んでしまう。
3.それが、八方ふさがりの白を救う。
この条件を満たす珍瓏が存在する可能性は、有りや否や。もちろん質は問わない。
拙は、駄目詰めでセキ崩れとなり、そのあと石の下で取り返すというのを考えたが、目をつぶすならば、黒も目を持っているはずなので、石の下は成り立たない。たとえ石の下が成立しても、「セキで生きていて、なお八方ふさがり」の状態を打開することはなさそう。
ここで拙は金庸氏の棋力に疑問を持ってしまったのだ。なお、古典の詰め碁の中に、2.の条件に近いものがあったような気がするが思い出せない。
小説上では、目を閉じて出鱈目に白石をおいたら、そこが白の目をつぶす手だったという、はなはだ金庸的な解決法。(天龍八部−第六巻天山奇遇)
08.3.19 追記
岡崎由美先生は碁を打てないのであるが、「きくところによれば、金庸さんはプロ並みに強いそうです」と、教えて頂きました。
2007年02月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/34790047
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.seesaa.jp/tb/34790047
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック