隣ではある場面を指摘していた。三間にヒラくか中央に向かって飛び出すかという話。わたしならヒラく。しかし熊丰師叔は中央に向かって飛び出すべしという。
わたしの碁を検討するとき、わたしの傾向は低く這うという。前回そうだったので、そのことに気を付けて打ってみた、と言いながら注意点を指摘する。
黒丸印がすで疑問手で遅れた第一歩。上辺の黒一子が攻められることになった。
右上の二子はすでに死ぬ心配はない。上辺の黒石を守ることを考えるべき。前回も常に下に行っていたという。そうか大名行列だったか。
そのとき先の検討場面を取りあげてみた。
「わたしだっら三間にヒラきますが、中央に飛び出すのとの差はどのくらいありますか。その差は例えば目数では何目に相当するだろうか。三間に開いた方が勝率はよさそうです」
「目数で考えると、差はほとんどありません。四子局なら、勝率はあまり差はないでしょう。しかし二子局になると勝てなくなります。中央に飛びますと、二子局でも勝てます。当面の勝率には差がないでしょうが、碁の大局観の問題です」
ここで、アマのAの話を思い出した。年齢は高齢者に近い。わたしが三子置いても勝てないほど強い人である。ある場面でここはどう打つか。
「僕ならここではこう打つ」
ところがAより二子くらい下のBが、別なところを示してこう打つべきだと指摘したという。プロがそう打つと言っていたとか。
「Bさんがそう打ちたいのならそう打ちなさい。僕はそうは打ちません」
のちにその場面が井山対張のタイトル戦で現れて、Bの指摘したように打たれた。しかし、
「あのふたりのレベルならそれが正しいでしょう。僕のレベルでは読めませんから、そうは打ちません。たとえれば、そう打つのはアマの野球選手が、160キロの速球を打つ練習をするようなものです。打てっこありません。自分たちのレベルにあった練習をすべきです」
わたしのレベルは、中央へ向かうことを覚えるべきレベルなのであろうか。
よく劔持師叔が、中央に向かって飛び出すよう指導してくれたが、師叔の心弟子知らず、いまだ会得できていなかった。