呉清源師の一代記である。
呉清源師の年齢はすでに90歳になるのに、碁の研究を続け、二十一世紀の碁を提唱している。
江崎誠致さんの「呉清源」は実録小説であるが、こちらは写真と棋譜を伴い、記録を中心としている。

呉清源さんについては、信じられないようなことが幾つかある。
その一つは、日本棋院から除名されたことであろう。なんと、本人は除名されたことを20年間も知らなかったという。そして、本人から復帰の願いがあれば、いつでも復帰できるようになっていたらしいのだが、除名されたおぼえのない呉清源さんにしてみれば、棋院が除名を取り消せば済むことなので、復帰の願いは出さない。
で、そのまま現在に至っている。ただし、呉清源さんは正式に引退しているので、もはや復帰することはない。
そんなわけで、誰もが昭和の大名人と認めるのに、無冠のままだ。
中国の碁は長い間四隅に石を置いてから対局を始めた。鎮子碁という。呉清源さんの子供の頃の棋譜にもある。してみると、中国の近代碁の歴史はまだ百年ほどらしい。
しかし、日本ではかなり昔から、互先は初手から自由に打って対局していた。
その他、資料としてはかなり利用できると思われる。
父親の呉毅は日本に留学し、そのおり碁も習っている。そして帰国の時に秀策や秀栄の棋譜を持ち帰った。呉清源少年はその棋譜を見て、碁を習得した。ただ棋譜を並べるだけでなく、その碁の神髄というべきものを会得した。定石など一度並べただけで覚えてしまう。
14歳で来日したときは、すでに現在なら高段のレベルに達していたのだ。
棋譜を見た瀬越七段は
「棋聖秀策を偲ばせるほどの棋力があり、まことに古来まれなる大天才である。…」
と激賞している。
昭和5年から大手合に出場し、春夏合わせて15勝1敗で4段になった。
昭和6年14勝2敗、昭和7年15勝1敗で、5段に昇段した。
他の棋戦も同様で、圧倒的である。
そして昭和8年、運命の年である。
信州地獄谷といえば名前は恐ろしいが、今では猿が温泉に入ることで有名である。そこに木谷と避暑に出かけた。これをきっかけにして、有名な新布石の誕生である。
この温泉はわたし(謫仙)も行ったことがある。当時は春枝(木谷夫人の妹)さんもいた。
このあと各種の十番碁の軌跡など詳しいが省略する。
さて、この本で「莫愁」にふれたくだりがあるので、全文を紹介する。莫愁には「ばくしゅう」とかなをふっている。
本文中172頁
呉清源さんの著作のなかに随筆『莫愁(ばくしゅう)』があるが、明の太祖(朱元璋)が元勲の徐達に打ち負かされたのが南京の莫愁湖であり、この湖の中島に「勝棋楼」が建てられている。この著作の題名はこのエピソードからではなく、時代を二千年もさかのぼり舜帝の死に臨んだ二人の妃が悲嘆の歌を歌い終わって、この湖に身を投じたという故事にちなんで名付けたものである。
この文、何度も読み返してしまった。
「…「莫愁」があるが、……「勝棋楼」が建てられている。」
文意不明。前後のつながりがない。
そして問題はその次である。
「この著作の題名は……故事にちなんで名付けたものである。」
莫愁には、次のような意味の文がある。
二人の妃は三昼夜哭き、涙がつき、血が流れた。その血が丘に生えていた竹を斑に染めた。
そして湘水を視て等しく江中に投じて果てた。
今でも斑の竹は彼の地の名産であるという。
この内容は碁の起源についての記述の一部分である。ここには莫愁の文字はない。その後に一行あけて、次の記述がある。
南京に莫愁(もしう)湖と言ふのがある。大きくはないが、暮風に錦波寄せて汀に打ち伏す蘆荻に、秋思が漂ふ。昔、莫愁と言ふ若い嫁が身を投じて死んだといふ傳説があるので、この名を呼ばれるのであるが、梁の武帝は
河中之水向東流
洛陽女児名莫愁
莫愁十三能織綺
十四採桑南陌頭
−略−
と歌った。愁(なげ)く莫れ、共に愁くまい。
とある。呉清源さんは、莫愁の語源を「莫愁という若い嫁」とし、莫愁(もしう)湖とかなをふっている。
著者の水口氏は、本当に「莫愁」を読んだのであろうか。
このような瑕瑾を取りあげて申し訳ないが、莫愁(もしゅう)を読んだわたしには見過ごせない傷である。
呉清源さんは名人を称してもなんの不思議もない。第◯◯世名人とすべきと思うが、本人がそれを望んでいないという。それは碁謫仙ではなかろうか。
わたしが凡才の身で謫仙などと名乗るのは、不遜であり、恥ずかしがるべきであるらしい。それをなんとも思わないのは凡人たるゆえんか。