誰にも答えられない問いがある。
野に咲く花は幸せか。
原初の海から陸に上がったある来たる者(アーガタ)は、海岸で人に出会う。その人は進化の山スメールの、上から下りてきた人の娘であった。
手足のある魚のようなアーガタに混じって、主人公アシュヴィンはアーガタでありながら、すでに人であった。
アシュヴィンは、海岸で会ったその女と一緒に、スメールを上りはじめる。
縁(エン)であり業(カルマ)である他のアーガタは、スメールを上る途中で、脱皮を繰り返して、進化していく。もし自分が住みやすいと思ったところで上るのをやめれば、そこに住む。同時に進化は止まる。人の住むところまで上れば人となる。
アシュヴィンは、はじめから人の形をしていたので脱皮せず、なぜ他のアーガタと自分は異なるのか「我は何者か」と常に考えていた。
その途中における、アシュヴィンと独覚のアシタ仙人との会話。
「なぜアーガタは上に行こうとするのですか」
「アーガタは問う者だからだ、上に行けば答えがあるからだ」
「あなたはどこまで行ったのですか」
「人の住むところまでだ。その向こうの獅子宮には混沌がある。……それより先は答えを持ったものでなくては行けぬ」
その問いは二つ、そして答えも二つ。そのひとつの問いは、
「汝は何者であるか」
そして、問いと答えは同じ、そして二つの問いも同じであるという。だがひとつの問いを解いた者がいるが、同じであるはずのもう一つの問いを解いた者はいない。
それを解ける者は、如く来たる者である。
その問答の行われる獅子宮の入り口に、そのひとつの問いが書かれている。
それではなぜ、問いが二つ、問いと答えが同じと、判るのか。言い伝えであった。
アーガタが答えれば、スメールは崩壊してしまうといわれている。そこに住む人はそれを恐れる。そのために悲劇もおこるのだが、アシュヴィンは獅子宮に入っていく。
そこには混沌がいた。混沌は自己紹介をして、アシュヴィンに問う。
「汝は何者であるか」
その時すでに、問う者アシュヴィンは、その答えであった。如く来る者であった。
ふたつ目の問いも問われた時にも、如く来る者はすでにその答えであった。
更に混沌は問う。
「如来よ、野に咲く花は幸福であろうか」
独覚のアシタ仙人は如来の誕生をシャカ族に告げ、その言葉を聞くことができないうち世を去らねばならないことを嘆く。
この本は1989年に初版が出て、このときは、プロの作家が自費出版を考えたほど、一般的ではなかった。
今回の文庫化は、改訂版である。
螺旋問答として、次のような問答がある。
問 識とは何か?
答 ………色、識、有情、螺旋、輪廻、進化、これ等は全てひとつものの別称である。
問 では仏とは何か?
答
問 問う。仏とは何か?
答
問 なお問う。仏とは何か?
答
この形式は仏教の教典によくある。ここでは答えていないが、教典では答えてもまた同じ問をする。
なぜ一度に答えないのか。答えたのになぜ同じ質問をするのか、理解に苦しむが、判りやすく分けたのであろう。
たとえばこんな具合である。
問 苦しみとは何か。
答 病にかかることである。
問 苦しみとは何か。
答 死ぬことである。
問 苦しみとは何か。
答 老いることである。
問 苦しみとは何か。
答 生きることである。
これは四苦であるが、一度には答えない。そして、ここで質問をやめる。答えが四つと、訊く方も訊く前から判っていたみたいだ(^。^))。