2013年09月25日

後楽園

岡山−後楽園

 ホテルは鉄道の西側。地下通路を通って山陽本線の東側に出る。その道をそのまま行くと後楽園に至る。

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 街中を真っ直ぐ南北に流れる西川。両側は緑道公園となっている。歩いてみたいが、今は先を急ぐ。

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 旭川を渡ると、右が後楽園だ。
 岡山後楽園は、貞享4年(1687)に岡山藩2代藩主池田綱政(いけだつなまさ)が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園。当時は「御後園」だった。
 元禄13年(1700)に完成した。その後も手が加わっている。
 明治4年(1871)に池田家では「御後園」を「後楽園」と改めた。明治17年に岡山県に譲渡し、一般公開された。
 昭和20年(1945)空襲でほとんど焼失。
 昭和27年には文化財保護法による特別名勝に指定された。
 昭和33年(1958)〜42年(1967)に復元。

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 適当な案内図がないので、 後楽園のHP の図を紹介する。
  
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 入り口に向かう。
 右に岡山県立博物館がある。そこはあとで入るつもりだったが見損ねた。
 園に入る。丹頂の鶴舎がある。この丹頂は一月一日に園内に放つ。後楽園の行事予定にある。

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 観騎亭であろうか。
 前の真っ直ぐな味気ない道は馬場。

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 寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん)、裏側から。
 園内が見通せる。この下の2コマはこの辺りがら撮った。後楽園は大きな池と巡る水路を中心にした庭園である。
 今は広大な芝生の庭園だが、昔は園の4分の3は田畑であったという。

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 園の要となる延養亭。藩主はここから園を眺めた。生活の場としても使ったらしい。

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 岡山城の天守閣が遠景となる。
 手前左の高みが唯心山。この唯心山も当初からあったものではない。綱政の子継政(つぐまさ)の時代に築いた。

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 唯心山は園内一の見晴らし台。この山により園内が立体的になった。

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 花交、昔とは様変わりしているらしい。

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 一階が素通しの流店、なんと読むのだろう。ここから藩主が田植えなどを見たという。

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 流店は中に水路がある。

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 曲水に板を渡した八橋(やつはし)。流店のそばにある。中国の習慣を取り入れたか。中国では、悪魔は曲がれないとかで、このように庭園内の橋を曲げて作ることが多い。

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 唯心山からの見晴らし。延養亭の方向。

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 右へ、入り口の方向。

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 さらに右へ。

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 廉池軒、左の建物は冷房の効いた茶店として使われている。前の池は浅い。

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 茂松庵、二色が岡といわれる辺り、人通りは絶えた。
 藩主が後楽園に来る時は、舟で二色が岡の近くに着いた。いまは面影もない。
posted by たくせん(謫仙) at 06:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
見事な造園ですね。
大名の権威の象徴のひとつなのでしょうね。

ただ、偕楽園、兼六園も荘ですが、観光客のために道を広げて、趣きがなくなっているような気がします。
仕方が無いのでしょうが、いかにも作られたという感じが増してしまうような・・・

個人的には小さな日本庭園に惹かれます。
Posted by オコジョ at 2013年09月30日 11:41
オコジョさん
わたしはむしろ、足立美術館のあり方に驚嘆すると同時に抵抗を感じます。
絵画のような景色、それゆえ人は庭園内には入れない。植物が生長すると変えられてしまい、いつも同じようなスタイルを保持する。自然にできたようなふりをして、思い切り人手がかかっている。
それに対して、偕楽園、兼六園、後楽園などは、人が入って楽しむのを前提としている。人手がかかっているのを隠さない。作られた庭園と判りやすいけど親しみは感じます。
わたしも水を巡るこぢんまりとした庭園の方が足が向きやすいですね。
わざわざ行くのではなく、散歩の途中で見つけて入るような、そんな庭園です。
Posted by 謫仙 at 2013年10月01日 09:06
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