2007.4.7 記
2020.5.18 加筆
わたしはこの本によって、SFに目覚めた。
それまでも古典的な「冒険科学小説」は読んでいたが、この本はその壁を打ち破った。

日本のSFは発足当時からこれだけレベルの高い小説を提供していたのだ。
野田昌宏さんはアメリカの初期SFを収集しているが、「ほとんどは屑だ!」と喝破した。それがレベルが高くなって読むのに耐えるようになった頃、日本のSFが始まった。そのため、助走なしにいきなりハイレベルの小説が書かれた。
この本はその象徴と思っている。
いま再読してみると、時代を映しているところがいくつかある。
なお、著者は学校の理科の教師であり、科学的知識は素人ではない。
漢語を仮名書きにしているところがある。当時、漢字制限が強く、その範囲外の漢字は使いにくかったのか。また、できる限り和語はひらがなにしている。
コンピューターが登場するが、この記録はロッカーにパンチカードで収納されている。また、カタカナ書きである。当時は平仮名や漢字は表現できなかった。その影響か、漫画や小説では、コンピューターの言葉はカタカナで表現されることが多かった。
ちなみにわたしが初めてコンピューターに触れたときは、入力はパンチカードであった。紙テープなども使われていた。記憶はオープンリールの磁気テープが多かった。これらは業務用である。
☆「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
1由旬が100万光年と説明している。これは誇張しすぎ。
現在では由旬がある程度判っていて、約7キロメートルである。人の住む世界がインド亜大陸の形をしていて、その大きさが記されていることから推測した(須弥山と極楽)。そして須弥山の高さが8万由旬である。
さて、物語は天地創造から始まる。
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の下で、生命は誕生し育っていった。
そして人が誕生し、文明が発生する。
プラトンがアトランティス王国の記録を見る。
その都はオリハルコンで飾られていた。そして、
大西洋に没したといわれるその王国の最後の司政官オリオナエこそプラトンであった。
その王アトラス7世は惑星開発委員会の計画に沿って、王国の引っ越しを命ずる。だがそれは不可能であり、王国は滅亡する。
釈迦族の王子シッダルタは4人のバラモン僧(目犍連・須菩提・摩訶迦葉・富楼那)に導かれ出家した。
富楼那(フルナ)が出家に反対する老ウッダカに説明する。
「梵天はこの長大無辺な宇宙をその手に観照する。万物流転の形相はすべて天なるものの意志、すなわち梵天王の意志である」
そして、兜卒天に住む梵天に会いに行く。ここでは弥勒菩薩が五十六億七千万年後に衆生を救うために修行をしているはずであった。
だがそこは荒れていてとても浄土といえるところではなかった。原因は阿修羅との戦いであった。
シッダルタは阿修羅王との会見を望み、会見することになる。
シッダルタと阿修羅王を逢わせたのは、世界を滅ぼそうとする四人の波羅門僧の失策であった。
わたしはこの会見シーンをもう一度読みたくて、この本を買ったといえよう。
「悉達多(しっだるた)太子か」
はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅(あしゅら)王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
「阿修羅王に問いたい」
少女は、ふとかすかに眉をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきな心の働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。
「波羅門(ばらもん)の説くところ阿修羅王は宿業によって、この兜卒(とそつ)天浄土に攻め入り、帝釈天の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦っていると聞いた」
「そのとおりだ」少女は唄うようにいった。
「阿修羅王よ」
少女はふたたびかすかに眉をひそめた。見入るときにわずかに眉をひそめるのが、この美しい少女のくせらしかった。少女はだまって首にかけた瓔珞(ようらく)をもてあそんだ。それは何かの骨片を銀の糸でつなぎ結んだものだった。小さな乾いた音が、木鈴の鳴るように太子の耳にとどいた。
「なに故に梵天(ぼんてん)王のしろしめすこの天上界に攻め入ったのか。そののぞむところは何か。そして阿修羅王よ。王はどこからやってきたのだ。王の棲む世界はいずこにあるのだ」
太子は砂の上に腰をおろし、上体を真っすぐにのばして少女をにらみつけた。
少女は少し困ったように片方のくちびるの端に微笑を浮かべた。小さなくちびるから真白な糸切歯がのぞいた。
「阿修羅王よ」
「悉達多太子!」
とつぜん、少女の声は天地の声になった。
どっと吹きつけてくるはげしい風の中で、少女の髪がほのほのようになびいた。少女の怒りと悲しみが目のくらむようなすさまじい火花となって散った。
「太子! 弥勒に会え! 五十六億七千万年ののちに、お前たちを救うであろうといわれるその弥勒に会え!」
太子は思わず砂の上に身を投げた。合掌する手が自分でもぶざまなほどふるえた。
この場面は、興福寺の阿修羅像を彷彿させる。
対話はまだ続く。
この世界の荒廃は戦争が原因ではない。戦争は、この世界はなぜ荒廃するのかという、危機に対する梵天の無策に対する攻撃であった。
「梵天王は今こそ転輪王の意図を知ることだ」
・・・
「梵天王があなたの言葉を聞こうとしなかったわけは?」
「わからぬ。これだけは言えると思う」
「思考コントロールを受けている、と」
「そうだ。初めてあなたと意見が一致したようだ」
・・・
そして弥勒に会いに行くのたが、それは単なる像であった。
ここに救いがあると勝手に信じた人が弥勒の救いを人に語ったのであろう、という。
エレサレムではイエスが処刑されようとしていた。イエスのうさんくささを見抜いたユダの告発によるのだったが、処刑後、暗闇となりイエスの遺体は行方不明になる。
そして…
3905年
砂漠と化したトーキョーに、シッタータの記憶を持つ者・オリオナエの記憶を持つ者・アシュラの記憶を持つ者、三者が集まった。
そこでイエスなどの地球文明を破滅させた者たちの襲撃をうける。
この後、三人は、ナザレのイエスを追い惑星開発委員会のあるはずのアスタータ50へ行くが、そこはすでに滅んでいた。そこで弥勒=大天使ミカエル=アトラスと戦うことになる。
そこを抜け、転輪聖王のいるアンドロメダ星雲に行く。復元できたのはアシュラ王だけであった。
ここから世界を支配していた転輪聖王の組織はすでに崩壊していた。
二千億光年の宇宙全体が崩壊しようとしていた。
アシュラ王はたった一人で残される。
さて、前に書いたこと。
「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
について。
この広大な世界を(外から)管理する転輪聖王がいるところが、230万光年の距離にあるアンドロメダ星雲というのは近すぎ。そして仮に千六百億光年としても、下に書いたような、はるかに大きな世界が二千億光年の宇宙に入ることはできない。
というわけで、1由旬が100万光年とするのは無理がある。1由旬約7キロメートルでよかった。
ただし、当時は由旬の定説は見たことがない。またビッグバンの思想はなかったので、宇宙の大きさが二千億光年ということは問題ない。
なお、結論が判りにくいが、仏教の宇宙論ではこの宇宙そのものが、滅んでは再生を繰り返している。その一回分(1大劫)の物語と考えたい。
参考
地上〜須弥山頂上 8万由旬
地上〜兜卒天 32万由旬
地上〜色究竟天 1677億7216万由旬
天とは場所のことと同時にそこに住む者も表します。
色究竟天は有頂天ともいいます。なかなか有頂天にはなれませんハイ。
最後の数字はパソコンのプリンターの説明で見たことがあるような……。いま、インドのソフト技術が力を得ているが、こんな昔から二進法の数字の考え方を操っていたんだな、と妙に感心する。


この本はSF好きには不朽の名作といえますよね。
萩尾望都さんの劇画になったときも衝撃でした。当時、少年マンガは線が太く、少女マンガは線が細かった。内容ではなくペンのラインの太さの話です。
こんな細い線でこの物語を表現できるのか。
それが、物語の意味を判っている人が描いたことが判る解釈で、阿修羅王の絵はまさに興福寺の阿修羅像でした。もちろん小説に少女のようだと書いてありますので当然なんですが、それまでの阿修羅像は不動明王などの明王像のように表現されていたことはご存知と思います。
それが少女。表紙だけでも欲しくなりそう。
あの大戦をえて、日本は天地がひっくり返るほどの、体制の変更がありました。著者がこの本を書いた当時は、まだその記憶が新しかったことでしょう。だから善悪を超越するというかひっくり返すような物語も、頭で考えただではなく、実体験もあったのではないかと思われます。
わたしが最初に読んだこの本は、友人の持っていた単行本でした。この本を読んでSF小説に目覚めた記憶があります。
当時は、星新一・小松左京・平井和正・豊田有恒・山田正紀なども夢中で読んでいました。それらがわたしの書庫に載っていないのは、ワープロもない時代で、感想などを書いていなかったからです。本は20年以上前に妹のところに持って行ってしまいましたので、今でもあるかどうか。わたしの手元にはありません。その後は図書館だよりになりました。
わたしも戦後の生まれですが、もう年金を頂いています。
そうそう、あの細い線は少女漫画みたいで、初めて見たときは違和感がありました。
萩尾さんは当時二十代でしたか、計算すればそうなりますが、いわれてみると驚きです。萩尾望都ばかりでなく高橋留美子とか杉浦日向子など、若いときから驚くほどの専門知識を持っていた女性がいて、まさに天才。
実はわたしは劇画の方は全部読んだわけではないので、劇画のイメージはいまひとつなんです。
http://takusen2.seesaa.net/article/49037689.html書庫−宇宙叙事詩(上・下)
このイメージのほうがよく判ります。この中の「廃墟の旅人」が阿修羅の話なんです。
この本など買っておきたかったのに、図書館で見たばかりに、そのままになってしまいました。もう一度読もうとして図書館で探したところ、文庫本になって図書館にありました。これもお勧めですけど、本屋にはありませんので難しい。もっとも再版が出ている可能性もありますが、わたしはその情報には疎いので判りません。
著者は理科の先生と言いましたが、そればかりでなく、ファーブル昆虫記のような本も何冊か出しています。
「ロン先生の虫眼鏡」には、昆虫ばかりでなく、鳥や魚の話もありました。
わたしが読んだのは、もう20年以上前なので詳しい話はできませんが、感動しました。
結局それらは図書館から借りて読んだので、持っているのは『百億・・』だけです。
宇宙年代記もありましたね。
こう書いていると、次々に思い出します。(^。^))
ロン先生の虫眼鏡はマンガにもなりました(^。^)。
キリスト教世界にはおそらく受け入れられないと思いますねえ。
仏教世界では、四大弟子や弥勒や帝釈天などの扱いが逆転していても、それもまた一つの考え方で、受け入れられます(かな)。
他の小説の基調もそんな感じがします。
宗教的にもわたしは影響を受けました。もちろん影響を受ける素地はあったのでしょう。
はっきり言って、「百億…」は難しすぎる、と思います。でも読む人はわたし以上に読んでいるようです。僅かの人数では誰も知らないというのが普通ではないかと思いますね。
逆に思うのですが、わたしたちの世代でも知っている人は案外少ないものですよ。特にSFは「荒唐無稽でバカバカしい」というのが普通でした。その点では今の方が理解されているような気がします。
わたしがいま夢中になっている武侠小説もSFで、熱中する人は熱中しますが、その外側は冷めていて、狭い世界です。
そのように一部の人を夢中にさせる小説、「百億…」はそんな小説のはしりではないでしょうか。だから若い人でも一部の人は熱狂的に支持しても、大方は無視するどころか、他の小説も読まない、そんな状況ではないかと思います。
わたしはそのような話を若い人とはしたことがほとんどないので、一般的な印象論しかいえません。
機会があったら聞いてみたいとは思いますが、わたしの世界は、武侠小説・映像に夢中の人とか囲碁世界。一般論には向かない人たちばかりなんですね。
銀河系・・いや宇宙全体が滅びの対象となっているのですから、究極の滅亡、そこに救いの、希望のかけらもない・・でもなんとも魅力的・・キリスト悪玉もそうですが、この結末、憂いの極みとでも言いましょうか?特にアメリカ人には受け入れられないでしょうね。
日本人には滅ぶのは当然という考え方があるので、抵抗感がありません。
西洋人、就中アメリカ人が、そうかどうか。わたしには判断できませんが、そうだろうなと思います。
宇宙人が同士か英語を話すのがどうも受け入れがたく…、わたしは翻訳物はあまり読んでいないので、何ともいえません。例えばファウンデーションなども滅びの話ですよね。でも全滅ではなく、体制が変わっても、民は生き延びる話。人類そのものが滅びる話は思い出せません。というより知りません。
ないのかなあ。
大変興味深くお二方の話を読ませていただいております。
海外SFでは、人類の住む銀河同士がぶつかり合って消滅してしまうようなお話もあれば、人類そのものが神ではなくて宇宙人の創作物だというような話もあります。なので、人類が滅びる話も少数とはいえ存在するかと思います。ただ、少数派になってしまうのは、やはり宗教的な色合いが背景にどうしてもあるからかと僕も思います。
「百億の昼と千億の夜」は、やはり若い世代での認知度は少ないですが、いい作品として名前だけは知られているかと思います。「アルジャーノンに花束を」のように名前だけ知られている、というレベルかも知れませんが、金字塔なのは間違いないと思います。
菊地秀行さんなどの世代まではこの作品の影響を受けたと公言される方もいますし(彼のエイリアン黙示録という作品ではキリストが悪で、ユダが実は人類の味方でという話があり、あきらかにインスパイアされたと思われます)、けっこう根強いファンが多いのではと思います。
海外SFといっても、必ずしもキリスト教世界ではないので、滅びの小説があってもおかしくないんですが、わたしの翻訳物の読書量があまりに少なく、判りかねていました。
少数派でも滅びの小説があるのは当然といえば当然なんですけど、あると判ると安心しますね(^_^)。
「百億の昼と千億の夜」が認知度は低くとも知られていれば、それなりに読まれていることでしょう。
読んだ人には影響は大きかったンですねえ。
>何回やってもerror
おそらく、全角で認証コードを入れたと思われます。
わたし自身も初めのころはなかなか入らず焦りました。しかも謫仙という漢字を受け付けなかった。(^_^)。
『2001年宇宙の旅』はわたしも見ました。意味が判らないこともありました。評判だったのですが、世間ではどうかというと、それほどでもなかったような。
わたしに「百億…」を紹介してくれた友人に、この映画の解説をしてもらった覚えがあります。
当時は真空管からトランジスターに切り替わって間もないころでした。今のCPUが「中央演算装置」と言われたころ、メモリーの大きさも8Kとか16Kでした。それが未来はあの巨大な装置になるのか、と思って見ていたのですが、今では一個の部品です(^。^))。
>今ではまさしくSF映画の金字塔
わたしは映画には詳しくないのですが、これに勝る映画はないように思います。例えばスターウォーズは面白いけど質が違う。
「百億…」の映画化、考えただけでワクワクします。それだけの構想力のある監督がいるかどうか。いざやるとなると、出てくるのかな。
そのために専門の撮影所を作るくらいの気持ちがないと無理ですね。去年中国の「横店」に行ったのですが、大作を作ろうとすると、まず数十億円で専用の撮影所を作り、撮影しています。あとは観光施設として利用。映画にも使っています。
日本なら百億円で撮影所を作り…、夢ですねえ。いまは映画のもつ意味が変わっているように思えます。
撮影所は巨大な撮影所も必要ですが、タクラマカンとかサハラなどの実際の砂漠や極地に行ってくる必要もありそう。
そうそう、横店の撮影所は巨大な撮影所が6カ所だったかなあって、それがみんな無料なんです。そう映画撮影には無料で提供する。だから映画の制作費に場所代がいらない。
そういう環境にあると、それらを使いこなす監督が育ってくる。何もないところからいきなり構想力のある監督は無理ですね。
むしろ劇画作家に思うように書かせ、それから映画化の為に、それに合わせて撮影所を作り、実力のある監督に劇作家と共同で作らせる。
こんな手順かなあ。アニメの方が実物らしくなりそう。
日本だけでやろうとすると失敗しそうな気がします。
私がアニメと言うのは、「映画の原作」と言ったのでは、映画化のことを考えてスケールを小さくしてしまうからです。
日本人の気配りと言いますか、「これは実写では無理だからやり方を変えよう」なんて考えて、実写できるようにスケールを小さくしてしまう。
でも「アニメだよ」と言っておけば、実写できそうもない難しいことも気にせず考えそう。その上で、それを映画化すれば、わたしたちの望むような内容になるのではないか。
パールハーバーは、見ませんでしたが、トラ・トラ・トラは見ました。
アメリカが、空母の予算を取るために作ったとも言われていますね。
それはともかく、阿修羅は誰がやるか。わたしが知っている女性はみんな胸が膨らんでいる。子供では駄目。
震災騒ぎがおさまったら、その後の世界のために、こんな夢を実現してくれる人がいないものでしょうか(^。^))。
映画、、、確かに難しいでしょうねぇ。CGを大量に使えば、形的にはできると思います。アニメだと日本では受けても外国では絵柄などの差で受けづらくなる可能性もあるので(逆の例で大友克洋の「AKIRA」の金田をキアヌ・リーブスが演じるという話ですが、自分的には??となりましたし)、現実的には、ちょっと大変だけれど、実写化の方向でやって欲しいですね。
日本初の作品ではありつつも、キリストやらイエスも登場してくるわけですし、キャストは外国人でもいいのかなと思います。日本人キャストでやるなら、阿修羅は、チャーミングでボーイッシュもできて中性的で興行的に人が呼べるという線でいくのであれば、、上戸彩さんなんかいかがでしょうか。デビューしたてのころは、性同一性障害に悩む男装の麗人をやっていましたが、わりといい感じでございましたよ。
こないだ宇宙戦艦ヤマトの実写版でヒロインをしていた黒木メイサさんは怖いときの阿修羅をやらせるにはスタイルも申し分ないんですが、、あどけなさとは無縁なのが問題かなぁ。ナザレのキリストはジョニーデップあたりが似合うし興行的にもありかと。
基本的な思想が保持されれば、キャストやスタッフが外国人でもかまいませんね。
中国の話になりますけど、能力のある人なら国籍は一切(と言い切れるか)無視する特徴があります。そんな作り方でいいと思います。
その代わり自国民でも別な考え方を容赦しない。だから能力のある人は外国籍になってしまう。これは困りますけど。
上戸彩さん、映画は見ていないのですが、イメージが違う。と言っても実際に演じてみると案外よかったたり。
黒木メイサは迫力がありそう。
わたしのイメージは、古い話ですが十代半ばのゴクミ。今ではそもそもスターを知らないので、考えることもできません(^。^))。
上戸彩さんはわたしはぺチャパイだとは思いませんが(^_^)。
主役はシッタータでしょう。そのシッタータが適役かどうか、それが阿修羅の魅力を決めそうです。
ジョニーデップはイメージがぴったりですね。
わたしはこれを一本の映画にまとめるのは無理ではないかと思います。一時間番組十回分くらい、つまり映画なら二時間映画で3本。
これくらいの長さがないとおさまらないのではないか。短くするために途中を下手に省略すると、肝腎の部分が矛盾したり意味が判らなかったりします。
矛盾しても面白ければいい、なんて人もいますが…
なんか話が白熱して来ましたね。配役まで決めたりして。でも熱くなりますよ。絵空事とはいえ。イエスのジョニーデップは3人の賛成(満場一致)で決定ということで。肝心な二人はやはり難しいです。映画の長さのことは私も考えました。宇宙創生と古代の3人or4人?の場面で第一部、インターミッション入りの4.5時間、第二部が後半未来世界の3人or4人?やはりインターミッション入りの4.5〜5時間、インターミッションでは撮影裏とかNGとか何しろ破滅の物語ですからそんなところでほんの少し笑いを・・萩尾 望都さんの絵をスライドショーなんかしてもよさそう。こっちのほうがいいかな。この途方もない時間を飽きさせずに見せることができなければ、『百億・・』の映画は失敗、途中はしょり?だめですあくまで完全映画化(笑)あ〜あそれにしても阿修羅どうしましょう。シッタータどうしましょう?なんてたってあのジョニーデップを食える若い俳優さん・・思い浮かばないですねー
何度も一時間半や二時間程度の映画にしていますが、これは見る人が原作小説を知っていて、ストーリーや登場人物を知っていることが前提として作っています。日本の忠臣蔵みたいです(^。^)。だから、端折っても意味が判ります。
この物語は、知っている人はそのまま夢中になりそうですが、知らない人には、充分に説明しないと意味が判らなさそう。それなのでどうしても五時間以上かかる予感がします。
まともにやったら十時間以上になりますね。
先に載せた http://takusen2.seesaa.net/article/198636016.html 還珠姫の碁の写真の左側、夏青青役の俳優は阿修羅になりそうな気がします。(^。^)
なるほど、写真を拝見すると、阿修羅よさそう・・年齢も不詳って感じですね。この子がどこまで魅力を放ってくれるか・・最近『パイレーツオブカリビアン』の新作ができたせいか、前3作をテレビで放映してますね。ジョニーデップの魅力を再確認しました。彼と張り合うわけですから相当演技力もいるでしょうね。ところで映画化のお話少しおいといて、「オリハルコン」どう思いますか?突然ですが、以前から気になってるんですが、これはプラトンの著の中にでてくる幻の金属なんですよね。これって古代日本にあったとされる「ヒヒイロカネ」と似てると思いませんか。赤い?茜色?まあそんないろで輝くところも、硬いところも、現在には存在しない?ところも、「オリハルコン」は高度文明がさかえたアトランチスにあったとされるわけですから幻は文字通りですが、「ヒヒイロカネ」は高度文明とはあまり縁があるとは思えない日本神話に出てくるわけで(竹内文書は神話とは違いますか)・・でもなんか似ているようなきがして。どちらもそう詳しい内容は知りませんので断定はできませんが同じもののようにも思えます。同じわけ無いんですが・・特徴そっくり・・気のせいですかね。
ジョニー・デップ。確かに魅力爆発していますからねぇ、あれとはりあうとなると難しいです。
映画の時間は、最近の大ヒットが見込める映画でよくある全三部みたいな方式で5時間か6時間でやるべきでしょうね。「指輪物語」がそのスタイルで公開されたときにはびっくりしましたが、あれはあれで大正解だったと思います。
オリハルコンとヒヒイロカネ、確かに言われてみれば似ているかも知れませんね。その二つと並んでファンタジックな鉱石の代表格のミスリルなんかも、そうですね。どれも非常に堅く、くだけない、そして妙に軽いという特質を備えていますね。
世界のいろいろな神話や伝承に、三途の川的な大河が出てくるのと同様に、人間の脳に共通してあるフォーマットがなにがしかの影響を与えてイメージさせるものなのかも知れません。
幻の金属や黄金伝説はあちこちにありますが、独立して成立した話が多いンではないかと思います。どこの民族でも夢を見ますので。
日本の場合中国や韓国などの影響が大きいので、しかも文化の発達する初期からかかわっていますので、あちらの伝説などの影響がある可能性が高いかな。あちらに無いものを作ろうという意識も大きいと思いますね。それもやっぱり影響を受けている。
登場するのがいつかが考察の鍵でしょう。
碁の話になりますけど、日蓮聖人の棋譜があります。ところが記録に表れるのが江戸時代末期、それ以前の記録は全くないので、江戸時代末期に捏造されたのであろうと考えられています。
そんなふうに判れば、他の文明文化の影響が判断できそうです。わたしは「竹内文書」なるものを見たことがないので、それについては何ともいえません(^。^))。でも理想的な金属を考えるとどこでも同じようになるのかな。
世界の文明は大河に沿って発達し、金属を知って、飛躍的に向上した。その記憶は表面になくても、形を変えて文化の中に染み渡っています。そんなことの影響を受けて理想の金属像ができたのでしょう。
わたしたちが映画の話をしていても、過去の名作や愚作が頭の中に有り、5時間とか10時間の数字が出てきます。原作小説を読んだ人には、1時間半では無理と判りますよね。 最近はテレビで3Dが登場しましたが、テレビ店で見ても見にくいだけで、魅力がいまひとつ。膨らみを感ずるどころか、奥と手前の数枚の書き割りを一緒に見ているような感じですね。なので却って薄く見えてしまう。とくに飛び出すのはうまくできているようですが、奥行きを出すのが難しそう。
さて、七月からテレビ無しの生活になりそうです。iPadで見られるようですが、もう少し勉強してからにします。
人生観が変わりました。
今でもかなりひきずっています。ww
ちなみに萩尾望都さんはこの作品に際し、少年誌向けにわざと線を太く描いています。
映画化は、そのスケール感から待望するところですが、
キリスト教を悪にして問題にならないのは、イスラム圏か宗教観に疎い日本くらいかと思います。
世界の多くの人からバッシングされる作品は作れませんよね。
あなたも人生観に影響を受けましたか。読んだ人は多かれ少なかれ影響を受けるようですね。
言われてみると、少女マンガより線が太いかな。気がつきませんでした。
>キリスト教を悪にして問題にならないのは、イスラム圏か宗教観に疎い日本くらいかと思います。
イスラムはキリスト教の兄弟みたいなもの。問題にならないとは言いきれません。日本が宗教観に疎いとは思いませんが、ヘブライクリスト教的世界には疎いことは思います。そして現在はヘブライクリスト教的世界が世界リードしています。
人数ではその他の世界の方が多いと思いますが、経済力・政治力は弱い。わたしは仏教世界などでは受け入れてくれるのではないかと思っています。
それでもイエス(キリスト教を悪とはしていないと思いますが)を悪人にするには反発は大きいでしょう。興行的には失敗の可能性が高いかな。作りにくいと思います。
そこをあえて作って欲しいのですが。
読み終わったばかりでまだまだ内容を消化できずにいますが、皆さんが言っておられるように、何かしらの影響を今後引きずりそうですww
SF小説を最近読み始めた20代後半の者ですが、自分の未来、または自分が存在しない未来のことにも興味を持つことができ、目の前の視野が大きく広がったように感じます。
つまり、今の若者にとって必要なのはSF小説ではないのか、、、と。
皆さんが「百億〜」やその他のSF小説を読んで受けた影響とはどのようなものでしょうか?
わたしの場合は、この本でSFの面白さを知りました。
従来のSFは例えば、西部劇の馬を宇宙艇に、拳銃を電子銃に変えた、だけの物語でした。
宇宙船に拳銃を持って乗るか、バカバカしい。そんな物語でした。
それが成熟したころ、日本のSFが始まり、日本では助走なして完成品が出ました。その始まりの小説だったと思います。
以後、SFにのめり込みました。
例えば金庸の武侠小説、今読んでいる畠中恵の「しゃばけ」シリーズ、夢中になったグインサーガ。いまでも読む本はSF小説です。
そんなわけで百億…はわたしの原点と言ってもいい小説です。今読み返してみるとそれなりに欠点はありますが、許せるものばかりです。
視野が広がったとわたしも思いますよ。
『百億の昼と千億の夜』の愛読者の一人として、一つ気になっていることがあります。「新版(宮野氏の分類による)」の表紙を使用して紹介しておられるということは、「新版」の方がいいという見解だと理解してよろしいのでしょうか?
「旧版」、萩尾望都による「マンガ版」と読んできた世代としては、納得できないものがあります。「新版」ラストから3行目の加筆、必要でしょうか? 「蛇足」以外の何ものでもなかったと思うのです。宮野氏が言うように「序章」の意味は大きく変わりますし、構造がはっきりと見えてまとまった感じにはなりますが、そうすることで失ったものはより大きかった気がするのです。タイトルどおりだった壮大な「叙事詩」が、ひとまわりもふたまわりも小さくなってしまいました。
「最新版」の萩尾望都による表紙もそれなりにいいので、紹介するのでしたら「最新版」を使用されてはいかがでしょうか。個人的には、あくまでも「旧版」推奨ですが。
この本は新版なんですか。1973年版ですが。
わたしが初めて友人から紹介されたのはその少し前で、上製本でした。それを思い出して本屋を捜したわけです。2001年35刷とありますので、1973年版と基本的に同じ筈です。
あとがきの最後に、「新版にあたって数行加筆した」とあります。この数行があなたのおっしゃる最後の三行でしょうか。
たしかにこれが新版とありますが、読み比べたわけではなし、40年前の記憶をたぐっても比較できませんので、いいか悪いかという判断はできません。
最後の三行だけでしたらどちらも可とします。わたしには蛇足とは思えませんが。
表紙の絵はがっかりしました。イメージが合いませんね。
最新版なるものは知りませんが、文章は変わっていましたか。大きく変わっているなら読んでみますが、ラスト三行と表紙だけなら、手を出す気がしません。
最新版を図書館で捜してみましょう。ただ、内容に変わりがなければ、あらためて紹介することはないでしょう。ここに追記するくらいとなります。
マンガ版は所々しか見ていないので、判断できません。ゴメンナサイです。
貴重な情報でした。ありがとうございます。
『百億の昼と千億の夜』は「旧版」が出版される時点で『SFマガジン』初出時のラストが大幅に変更されました。この「初出版」との比較も上記論文にあります。私的には、かなり衝撃的だったので、是非とも比較後の感想をお聞きしたいものです。
『SFマガジン 2008.5』ですか。図書館にあるかどうか。なければ「一読」はできませんねえ。
『阿修羅王は、なぜ少女か』は、「えっなんでそれが問題なの」と。
わたしの場合、先に興福寺の阿修羅を見ていたので、違和感がありませんでした。
ラストの「寄せてはかえし」で始まる部分、は約一頁ですね。これなら判ります。なくてもよい。その後は個人の想像力に任せるか。でもあってもかまわないと思いますよ。問題なしです。
読者の読書力が問題かも知れませんね。
著者は、加筆した部分に「当初から気になっていた部分である。ただのこだわりである。」と書いています。判らない人が多いと思っていたのかな。
「1993年7月に付け足されています。」これは微妙ですね。
1973年版と書いてあるのに、1993年の訂正が入っているのでしょうか。
「あとがきにかえて」はありませんが「あとがき」はあります。異なるのでしょうね。
それからあなたの言うラスト三行目。
「そこにある安らぎと静けさが、切なく懐かしかった。」
これですね。蛇足ですか。
たしかに、考えてみると、阿修羅王の見解としてはスケールが小さい。読んだときはそこまで考えていませんでした。
でも阿修羅王とて、基本的には俗人と同じ安逸を求めている、と考えらます。
恥ずかしながら、私にはあなたの指摘する三冊の差を論ずるだけの能力はありません。どれも同じように受け入れられます。
最後に、私もその比較の論をぜひ読んでみたいと思います。
20代の思い出になりますか。当時はこのようなスケールの大きな話は少なかったと思います。今でも少ないかな。
ハリウッドを遥かに凌ぐ超スペクタクルを期待したいのですが、やってくれる人ないし組織はないものか。ハリウッドではキリスト教徒の反対にあいそうで、横店では中国の国家主義に染まりそうで、やはりアニメがいいかな。でも世界で売れなければ成り立たず、外国では内容を変えられてしまいそう。
わたしはどうも悲観的な意見を出し勝ちですが、その業界を知らないからで、半分はできるのではないかと思っていますね。
「滝沢演舞城」、初めて聞く名なので判りませんが、同じようにわたしの知らない組織がやれそうな気がします。
あっと、それから「初老」は四〇歳のことです。意外でしょう。(^。^)
また、ジュブナイルものの(夕映え作戦)は映画で見たいしヒロイン風祭さんのキャステングも面白いかな。NHK のシリーズではコメデイだったが、シリアスな少年ものとして挿画の依光隆氏風のキャストでも見たいし…。
花井咲さんは初めて聞く名前、どんな人なんでしょう。検索してみました。細面に見えました。興福寺の阿修羅が丸顔なのでウーン。
黒木メイサは鋭い目つきがよさそうです。
物思いに沈む表情、怒りに燃える表情など、凡人には恐怖に感じるような表情が出来る人が望ましいですね。
エイリアンは見ていないので、申し訳ありませんが、なんともいえません。
夕映え作戦など、光瀬龍の小説は当時夢中で読みました。短編集宇宙年代記もあります。
これら読者によってかなりイメージが違うと思われます。光瀬龍のイメージを再現発展させられる方の出現を望みます。
今日までですか、残念ながら見に行けません。
ナムジュン・パイク、わたしの全く知らなかった世界の人物です。この人ならおもしろい阿修羅王ができそうですが、光瀬龍とはイメージが違うような気がします。
阿修羅王の視座で海を、ゴダールのイメージは、代表的な作品をいくつか見てみないと判断が出来ませんね。
光瀬龍の精神が崩れなければ、どのようなやり方でも…と言いたいのですが、どうもわたしには、奇想天外な方法は理解できません。わたしの狭い見聞では、「指輪」が一番理想に近いかな。どうしても小説から離れることに抵抗を感じるようです。若い頃の刷り込みですね。
話を戻して、アニメなら問題ないでしょう。CGを多用して、かなり虚空や異世界のイメージを再現出来るのではないかと思います。
武井咲さん、イメージ的には問題ないと思います。あの厳しさとか威厳とかが表現できるかですね。少女的イメージはいくらでも作れるでしょう。
萩尾望都さんが今でも熱く語ることが出来るのに驚きました。