文革さなかの1972年、山東省の漢墓から数種類の兵書が発見された。
なかでも孫子兵法の二種の竹簡は、それまで存在すら謎だった孫武・孫ヒン(月+賓(ピンと読む人も))のことや孫子兵法を明らかにする世紀の発見だった。
場所は山東省臨沂県の銀雀山、位置は昔の斉の南端あたりになる。
この墓は2基あり、出土品たとえば銅銭や暦などから、年代は漢武帝のころ。一号は前140年〜前118年、二号は前134年〜前118年と特定できた。
これは秦の始皇帝の焚書坑儒(前213)から約九十年しかたっていない。出土品の中に儒教関係の文が見つからないことから、焚書坑儒から立ち直っていないころと判る。
もっとも死者が儒教関係の文を嫌っていた可能性もあるが、そこまでは言及していない。
まず、なぜ残っていたのかだが、棺と土地の間にカオリンが詰められていた。磁器の原料となるカオリンである。これが、空気を遮断し防湿防腐の効果があったという。もっとも出土時は水につかっていた。
孫子兵法13篇
孫ヒン兵法16篇
両者が同時に見つかったことによって、別なものであったことが判明したのが大きい。
従来の孫子兵法は三国志の曹操が編纂したといわれている。その前のことは詳しくは判っていないのだ。孫武の説くところを孫ヒンが完成させまとめたという説が多かった。
またいままで幾つかの孫子偽物説があったが、それらをすべて消滅させた。
孫武は呉に仕え、その子孫である孫ヒンは斉に仕えた。そして事績は、孫武は女官を用いての軍事訓練の逸話しか伝わっていない。孫ヒンは魏で足切りの刑になったことや桂陵・馬陵の戦いを指揮したことが伝わっている。
第3章 竹簡からみた孫武・孫ヒン伝
では、鬼谷子に学んだあたりをこまごまと書いているが、これは著者の知識か竹簡に書いてあったことか。たとえば、「付近の人たちが困っていると、病を診たり、占ったりして直したので、徐々に広く知られるようになる。」竹簡にそんなことまで書いてあったのか。
それはともかく、この竹簡を検討した結果、馬陵の戦いの位置は、従来説から遠く離れていたことが判った。
従来は河北省の大名の近く、魏と斉と趙の中間あたりといわれていた。ここには馬陵村がある。孫子の小説は4種読んだが、みなそのあたりを戦場として書かれていた。だが記述されるような地形ではない。そこから魯を超えた東シナ海に近い、馬陵山が新しい候補地である。魏から魯の南側を大きく迂回し、半円を画くように斉に帰るコースの一番東に近づいたあたりだ。
それからは孫武と孫ヒンの説明がつづく。これは竹簡によって判ったのか、それとは別に従来の知識を披露したのか。そのあたりを厳密に分けて欲しかった。そして西安で出てきたという偽の孫子の話が長い。
発掘のやり方と保存のやり方がまずかったので、発掘されてもかなり失われてしまった。その経緯を細かく書いているのが、本書の価値である。
その所有権をめぐる地方と中央の争いも詳しい。当時は中央の人材も下方され、対処できる人がほとんどいなかった。
なお、現在では博物館が建てられ、一部は返されてその博物館にある。