2007年04月11日

戦国15大合戦の真相

 戦国15大合戦の真相  武将たちはどう戦ったか
      鈴木眞哉  平凡社    03.8.20
 06年のNHK大河ドラマは、司馬遼太郎原作の「功名が辻」であった。
 ところがこの初回のナレーションの歴史観が20年も前の学説に基づいていたという。
 司馬遼太郎が原作を書いたころは、そのような歴史観であったのだが、その後古い文献に当たったり、地理を調べたりして、新説がほぼ確定している。
 かなり前だが、NHKでも、桶狭間の戦いは奇襲ではなかったと言っていた。
 今回は、原作に合わせたのか奇襲説を採っている。

 さて、本書は桶狭間の戦いをはじめ、川中島の合戦、姉川の戦い、長篠の戦いなど、戦国時代の15の合戦を検証している。
 長篠の戦いまでは騎馬白兵戦で、その後は徒歩火兵の時代という事実無根の説は、当然否定される。
 一つ一つ見てみると、
 桶狭間の戦いは今川上洛の途中で織田を滅ぼそうとしたというが、織田と今川の国境争いに過ぎなく、桶狭間は織田の奇襲ではない。
 川中島は戦死者や怪我など双方壊滅的打撃を受けたはずだが、実際は何事もなかったようにすぐに別な方向に軍を動かしている。
 川中島の戦いはあったようだが、ほとんど損害はなかったらしい。
 というように説明されている。
 当時、武田の騎馬隊が有名で、馬に乗って突入したというが、実際は主な人だけが乗り、大半は徒歩であった。その馬もポニーのように小さく、重い鎧武者を乗せてとことこ走る。戦いでは馬から下りて戦った。
(謫仙 注:たとえば木曽馬は小さいとはいえ、力は強かった。今の大型の馬と比べれば小さい。体高は牝133センチ、牡136センチほど。それに鎧武者を乗せては、豪快に走ることはできないだろう。なおいわゆる騎馬民族の馬も多くは木曽馬に近かったという)
 鉄砲は火縄銃で重く、持ち歩くのは重労働であったし、密集するのは危険でもあった。しかも一度打つと煙であたりが見えなくなる。
 こういう条件を考えれば、長篠の戦いの俗説、信長の鉄砲隊の三段打ちや、武田騎馬軍団の馬止めの柵への突入などありえないことが判る。
 わたし(謫仙)も子どものころ、なんで馬止めの柵へ突入したのか不思議に思っていた。それなら織田軍は居眠りしてても良さそうではないか。
 明智光秀は過小評価されている。
 有能な武将で、信長の信頼を受け、信長軍団では抜群の武功であった。反乱は決して無謀ではなかった。たった一つの誤算は秀吉の「大返し」であった。
 対策ができていなかったというのは、無い物ねだりである。事実秀吉以外は身動きできなかったのだ。運に負けたといえよう。
 特に関ヶ原の戦いは圧巻である。
 諸説では、徳川の勝ちは間違いなし、ただ軍の一部が信州で真田軍に邪魔され戦場に間に合わなかったため多少苦戦した。
 戦場に石田三成が誘い出されて、戦いになったという。
 だが、石田三成は事前に野戦築城などの準備をしていて、決して誘い出されたのではない。しかも三成は、大実力者家康を相手にうまく戦っている。結局は西軍の大将たる毛利軍が裏切ったから負けたのであった。
(こんなたとえをしている。家康は実力派の副社長、三成はせいぜい本社の企画部長)
 石田三成は過小評価をされている。決して負けるべくして負けたのではない。
 大阪の陣でも五分五分の戦いであった。大阪方が無謀という説は結果論なのだ。

 これらの俗説のほとんどは、江戸時代の家康に対するごますり的な学説による。あるいは巷談もあろう。
 こうして天下を取った人の事績を飾り立てたのだが、残された資料や、実際に足をはこんで地理を調べたりした結果、実像が見えてきた。まだ判らないことが多々あるようだが、少なくとも今までの説は信頼できないことが判る。
posted by たくせん(謫仙) at 09:36| Comment(5) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
過去の通説による歴史は必ずしも、正確ではないようですね。
今、NHKの「風林火山」で、このあたりはどこに行っても、「風林火山」の旗ばかりです。
井上靖の「風林火山」は、もう40年も前に読んだきりですが、多分ドラマと小説はずいぶん違うんでしょうね。NHKの「風林火山」を見ていない私には、判断できません。
私の住んでいる小諸城は山本勘助の設計とされて、、いますが、何一つ証拠がありません。多分違うんでしょうね。歴史家もそういっています。
小諸市のパンフレットは山本勘助の設計でとおしています。
川中島の雌雄対決はもちろん作り話ですが、両者の決着をはたそうと武田も、上杉も考えてはいなかったようですね。
彼らの狙いは、関東への侵略で、川中島は、それの弊害を食い止めようとするデモンストレーションです。相手が大物で、大正が出向かなければなりません。その間に、関東を少しずつ、崩していきます。
ですから、適当に兵を引きます。
これでは小説になりませんね・・・
Posted by オコジョ at 2007年04月13日 21:26
前のコメント下から4行目
「相手が大物で、大正が・・・」は
「相手が大物で、大将が・・・」の変換ミスです。
Posted by オコジョ at 2007年04月13日 21:33
オコジョさん。
小諸城は山本勘助の設計の伝説ですか。
山本勘助は実在の人物なのか、疑問視する人もいますね。わたし自身は判断するだけの材料を持っていません(つまり小説などの知識がすくない)。
川中島の戦いは、バラバラな武田軍をまとめるための演習のようなものだとも言いますが、デモンストレーション説は大いに頷けます。その間に少しずつ勢力を拡大していく。そして家康でさえ子ども扱いされるほどの戦力が育っています。
デモなら「敵に塩を送る」の意味も大分違いそう(^。^))。
Posted by 謫仙 at 2007年04月14日 08:18
「市川文書」に登場する「足軽大将」の「山本菅助」が、江戸時代の「甲陽軍艦」のなかで英雄の軍師として書き換えられたという説がありますね。
デモンストレーションでも、隙あらばだったのでしょうね。
それが、有名なも八幡原の戦いで、ここでも両雄の一騎打ちの伝説を「甲陽軍艦」は生み出しています。

史実より、こうした話のほうが面白いですね。
浅野内匠頭より、吉良上野介のほうが名君だったでは忠臣蔵は成立ちませんね・・・
Posted by オコジョ at 2007年04月14日 09:10
最近歴史の見直しが行われ、お札の絵は聖徳太子ではないとか。頼朝の絵として伝わっているのは頼朝ではないとか。歴史を厳密に考えるようになりました。歴史小説は判っていることの隙間を作者が埋めるもの。それと時代小説は違いますからね。この区別ができていないと、錯覚する人もいます。武田軍の話は時代小説化しているのか(^_^)。

そうは言っても区別は難しい。司馬遼太郎でさえ、史実とは異なると異議が出されるほどですから。
Posted by 謫仙 at 2007年04月15日 07:31
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック