宋の児説(げいえつ)は、斉で「白馬は馬に非ず」と言って煙に巻いていた。
その児説が白馬に乗って関所を通るとき、馬として通行税を支払った。国中の学者を騙せても関所の役人は騙せなかった。
わたしはこの話が好きだ。もっともらしいことを言っても、現実は誰でも一目で判ることなのだ。バカにしている関所の小役人に、ギャフンと言わされている様子が目に浮かぶ。
「白馬は馬に非ず」の意味を説明しておこう。
馬には白馬もいれば栗毛も鹿毛も芦毛もいる。白馬は白い馬。つまり、白馬と馬とは同等ではないということ。白馬<馬だ。白馬=馬ではない。「馬は白馬ではない」と言えば、これは正しい。これを「白馬は馬ではない」と言って煙に巻いていても、関所の役人は誤魔化せない。
児説(げいえつ)の場合は、そう言って煙に巻いていたが、実はこれは遊びではなかった。小国家の外交にこれを用いて、なんとか大国と対等に議論しようとしたらしい。できても長続きはしなかっただろうなあ。
最近、某国の首相が狭義だの広義だのと言って、自分の権力の及ぶところでは強引にそれで通していたが、権力の及ばないところでは通せなかった。
出鱈目に矢を放って的に当たっても上手いとはいえない。その的を目標にして当ててはじめて上手いといえるのだ。言葉は正鵠を射ているかどうかによって、力になるかどうかが決まる。的はずれの言葉に力はない。
「水道料金はどう処理したか」
「適切に処理しました」
「どのような処理が適切か」
「適切に処理しました」
「適切とはなにか」
「適切に処理しました」
こんな風に的はずれの答えを三十数回繰り返した大臣がいたそうな。