仁木英之 朝日新聞出版(朝日文庫) 2011.10
五代とは五代十国(907−960)の時代に華北に興った次の五国を指す。
後梁 907−923 朱全忠(朱温)在位(907−912)
後唐 923−936 李存勗
後晋 936−946 石敬瑭
後漢 947−950 劉知遠
後周 951−960 郭威
この時代に塞外でも耶律阿保機が契丹国(遼)を興して皇帝となった。
在位907−926 耶律阿保機
その後継者に、阿保機の妻で実力者である述律(じゅつりつ)が、長男をさしおいて次男の堯骨(徳光)を指名する。
在位926−947 耶律徳光(堯骨 ぎょうこつ)(902−947)
堯骨(徳光)は母の述律の後押しもあり、契丹をまとめる。そして華北に侵攻する。
述律は南進を望まず、このあたりから堯骨(徳光)と述律の意見の違いが現れるようになる。
下巻は華北の地が舞台の中心となり、各地の実力者たちの争いと、華北を征服しようとする契丹との争いとなって、視点が多様化する。
契丹の徳光は石敬瑭を中原の天子におしたて、代わりに「燕雲十六州(現在の北京、大同を含む地域)」を手に入れる。
各地の実力者たちの争いは暗い。兵力を養えず、民からの略奪を繰り返し国は疲弊していく。
そんな中、ようやく中原に進出を果たした徳光だが、その土地は前支配者が収奪しまくった後なので、疲弊の極にあった。30万の軍を養う力はない。この軍がいなければ支配できない。しかも収奪しようにも収奪するものさえない。進出する時期が悪かったと言っていいのか。時期を間違えたと言うべきか。
結局撤退することになるが、その途中で命を落とす。享年46。
述律の出番は少ない。題名の「述律」はない方が良くないか。
それから巻頭の地図が内容とは無関係と言えるほどで、役に立たない。一度か二度出てくるか、一度も出てこないような地名ばかりで、本書で扱われている中心となる地名が載っていない。しかも重要な黄河や万里の長城(これは名前さえ出てこない)あるいは山脈や重要な道路なども載っていない。
たとえて言うなら、秀吉の高松城ぜめの参考地図に、日本の分国白地図を添えるようなもの。そのため各地の名が判りにくい。そして人名も多く、いつも「この人誰だっけ」となりがち。
また球場で演説をするという話がある。この時代の球場ってなんだろう。
歴史では、このとき地方で力を蓄えていた劉知遠が、後漢947−950を興す。
同著者の 朱温 と 李嗣源 はすでに紹介している。
小前 亮の 趙匡胤 は趙匡胤が郭威に協力し、後周(951−960)を建国するが、三代目が幼く、趙匡胤に禅譲され宋を建国する。
残るは、後漢(947−950)劉知遠か。
天龍八部の耶律洪基(在位1055−1101)は八代目になる。
この後、宋が燕雲十六州を取り戻せと叫ぶことになる。しかし、宋の建国以前に契丹(遼)の支配下になっている。取り戻せと言っても、宋の支配下にあったことは一度も無い。
最近は、活字を読んでいるついウトウトとしてしまいます。
あっちもこっちも齧り読み状態! 一つずつ読み終えなくては駄目ですね。
また、拙い愚妹のブログへ足を運んで下さいませ♪
わたしも「耶律楚材」を持っています。だいぶ前に読んだので、内容はほとんど忘れてしまいました。
>長男をさしおいて次男の堯骨(徳光)を指名する。
と書きましたが、その長男の子孫と言われています。評価は分かれる人物ですね。
中華の資料では最大に持ち上げられ、外部の資料では名前さえ出ない。
最大の誤解はモンゴルでは書記官の「中書令」を、中華と同じく宰相と思ったこと。それでもかなり重要な仕事をしていたとも言われていて、本当のところは判りません。
有能な事務官なんでしょう。
陳舜臣さんは中華の資料に基づいて書いたといいます。
わたしもいつか読み見返すつもりでいます。